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公述人(進藤栄一君) 防衛、外交面から見た今年度の
予算はどうとらえることができるでしょうか。周知のように、
昭和五十八年度、一九八三年度
予算で防衛費は対前年比六・五%増、言われるところのGNP比で〇・九八%、総額にしてたしか三兆円近くにまで達しているわけです。このまま五六中業、つまり五十八—六十二年度正面装備調達計画が予定どおり続けられますと、五十九年度、つまり次々年度には
軍事費のGNP比は一%を超えることは明らかになっております。五十一年の閣議決定以来、少なくとも今年度まで〇・八八%から〇・九三%を推移し、しかも周知のように、いま庭田
公述人から御説明ありましたように、社会保障
予算が大幅に削られ、歳入面における事実上の
増税が進行していることを考えますときに、これは確かに
軍事費の括弧つきであれ、突出だと言わざるを得ないでしょう。一体、この
軍事費の突出はやむを得ざる突出であるのか、それともなおも足りない小さな容認さるべき突出なのであるのか、この問いに私は
三つの
観点から検討してみたいと思います。第一は、
軍事費突出の
財政的歯どめとしてのGNP比一%論の
数字上の
根拠です。二つは、
軍事費突出の軍事上の
根拠としてのソ連脅威論です。
三つは、
軍事費突出に関する外交上の
根拠としての外交政策の理念と現実のずれです。この三点を手短に順に述べていきたいと思います。
まず第一点、私はGNP比一%論というのは、実にたわいない議論だと思うんです。といいますのも
数字上の
根拠が全く国際性を欠いているからです。御承知の方も少なくないと存じますが、わが国で
軍事費の算定方式というのは、NATO諸
国家の算定方式とは全く違っています。NATO諸
国家の場合、
軍事費の中には、
日本で
軍事費、つまり防衛費と言われるもののほかに軍人恩給、他省庁の関連業務、基地関連費、諸外国に対する軍事援助、こういったものが含まれております。しかるに
日本の場合、それら
軍事費の重要部分が排除され、いわば最狭義の
軍事費だけが
軍事費として算定され、それがGNP比で一%を超えたとか一%にならないとか、あるいはNATO諸国から比べて異常に低過ぎるといった形で議論をされているわけです。これは丸と四角を一緒にして比較するたぐいの議論ではありませんでしょうか。もしわが国もまた
軍事費算定方式に関してNATO方式をとるなら、すでにわが国の
軍事費は〇・九%ではなく一・六%を超えている。二倍まではいかないけれども、二倍弱の
数字になるわけです。しかもNATO方式に従って五六中業を達成したときに、この
数字は二%近く、五六中業の次の五九中業に突入したときには、対GNP比は恐らくさらに
上昇し、
日本の
軍事費は事実上、核装備費を含めたイギリス、フランス並みのものになる。つまり、米ソに次ぐ巨大な
軍事費に達するわけです。一体、これだけの
軍事費を使って軍事力を装備することによって、わが
政府は何をしようとしているのか。率直な疑問を抱かざるを得ません。
第二番目。
軍事費突出の軍事上の
根拠としてのソ連脅威論について考えてみたいと思います。
一ころ、ソ連のアフガニスタン侵攻当時言われましたいわゆる一九八五年危機説、これはさすがに最近聞かれなくなりました。つまり、ソ連の石油の需給が一九八五年ごろをもって逼迫し、その
機会にソ述は
世界侵略に乗り出すだろうと。その手始めとして、アフガンを初めイエメン、イラン、アフリカの角、つまり中東の赤い三日月地帯をねらっているのだという、こういった危機説です。そもそもこの八五年にソ連の石油需給が逼迫するという予測
自体、全く現実離れした予測であったわけであります。そのことは、ソ連が
世界最大の産油国であり、しかも
世界一、二を争う確認埋蔵量を持って、そしてサウジ、イランに次ぐ
世界第三の石油輸出国であるというきわめて単純な事実を考えただけでも、通常の、普通程度の常識を持つ人間だったらとうてい予測し得ない予測であったはずです。
この予測は、つまり八五年までにソ連の石油需給が逼迫するという予測は、当時CIAによって出されていたわけですが、当時からたとえば石油多国籍
企業エクソンはこれと全く逆のデータを出しておりましたし、そして御存じの方もおありかと思いますが、CIA自身、八一年、つまり一昨年四月にみずからの予測が誤りであったということを認めたというきわめておもしろおかしい茶番がつくわけであります。
ともあれ、さすがに最近はこうした常識外れた八五年危機説をとる
専門家は少なくなりました。しかし、このごろ言われ始めておりますのは、いわゆるSS20もしくはバックファイアの脅威です。つい先ごろ
アメリカの国防総省が出した「ソ連の軍事力」と題する報告もこの線に沿っております。そこでは、SS20を
中心とするソ連の戦域核における対西欧優位によって力の均衡が崩れた。その崩れた力の均衡によって、ソ連は
世界支配に乗り出すことをプランニングしていると書かれているわけです。そして、戦域核バランスの崩壊は欧州でも極東でも見られ、その
世界支配への徴候は中東からアフリカ、中南米、東南アジアに及んでいるというわけであります。いわば八五年危機説の改訂版であります。そして同報告は、こうしたソ連の
世界支配の動きに対処するために、自由主義陣営は防衛努力をしなければいけない、軍事力を増強しなければいけない、戦域核バランスを回復しなければいけないという主張をするわけであります。レーガン外交の戦略構想基盤と言いかえることができるでしょう。
そして御承知のように、わが防衛庁と
政府は、このレーガン軍事戦略に全くそのまま従って、先ほど申しましたような巨大な軍事
国家へと突き進もうとしているわけであります。それがいわゆる前年比六・五%増の防衛費、
軍事費突出に象徴されているわけです。あるいはその象徴を、先ごろ行われました米韓日三国軍事大演習に求めることができるかもしれません。
しかし、一体、軍事バランスは言われるような形で崩れているのか、どうなのか。軍事バランスによって平和を維持するという考え方
自体、相互依存が深化した核時代の今日、きわめて当否危うい、おかしな考え方であると言えるかもしれません。しかし、その当否はさておきまして、ここではともかく、いわゆるソ連脅威論の
根拠でありますこの軍事バランスの現実がどうなっているのかという問題について、ごくかいつまんで検討してみたいと思います。
結論を先取りして申し上げますと、確かに七〇年代以降、あるいは八〇年代の今日、ソビエトの軍事力は顕著な増強を見せています。しかし、それにもかかわらず西側は依然として軍事的優位を保ち続けている。見方によっては圧倒的な軍事的優位を保っていると言うことができるわけです。なぜそうなのでしょうか。
恐らく、当
委員会で私がこう申しましたら、この結論に対しまして、たとえば、それじゃ一体ソ連は六万台の戦車を持っているではないか、西欧は二万台の戦車しかないではないかとか、あるいは潜水艦に関してソ連は西側を圧倒しているではないかという反論が出てくるかもしれません。しかし、そうした反論に対して、私は次のような
観点から答えたいと思います。
第一番目に、
現代の兵器体系、つまり軍事力にあって、戦車対戦車、潜水艦対潜水艦が戦い合うという、いわば日露戦争的な時代の軍事的な、軍事力の比較考量は全く
意味を持たないということであります。戦車と戦車、潜水艦と潜水艦が戦い合うのではなく、戦車対対戦車兵器、潜水艦対対潜水艦兵器が交戦し合うのが
現代の軍事力の現実であります。そのとき、たとえばソ連の四万台の戦車に対し、ソ連は六万台の戦車のうち四万台をヨーロッパ戦線に配備しているわけでありますが、その四万台の戦車に対し、NATO諸
国家は五十種類、四十万以上の対戦車兵器を持っております。この現実の重みが浮上してくるわけです。同じことは潜水艦は関しても言える。
第二番目に指摘さるべきことは、
現代の兵器体系、特に戦略核兵器の分野にあっては量の比較というのは余り
意味を持たないということです。むしろ、軍事技術の変数を入れて考慮しなければならないということです。といいますのも、軍事技術の高度化に従いまして核兵器の技術開発過程でさまざまな質的転換、
専門家の間ではブレークスレー、技術革新という
言葉で呼ぶわけですけれども、それが生まれて、その結果、核
大国は核運搬手段の総量、量の総体を増加させることなく、ミサイルや弾頭の質を高めることによって核兵器の破壊力を飛躍的に増強、強化することができることになったからであります。つまり、核戦力で優位を保つためにはもはや核運搬手段の増量を、量の増強を図ることはさほど
意味を持たなくなっているのであります。むしろ、核運搬手段の質や核弾頭の質の向上を図ることの方が費用対効果比の点から言ってはるかに有利な状況が展開しているわけであります。確かに
アメリカは、一九六八年以来、ICBM、つまり大陸間弾道ミサイルとSLBM、つまり潜水艦発射弾道ミサイルの総基数に関して、それぞれ一千五十四基と六百五十六基に達した後、これら二つのミサイルの総基数を一切ふやすことなく、ソ連に追いつかれ追い越されるに任せております。
こうして核
軍拡競争を量から質への転形という
観点から見ましたとき、その競争にあってソ連が
アメリカを引き離していたのではなく、逆に
アメリカがソ連を圧倒的に引き離し、核戦力の総体においてソ連をはるかにしのいでいるという現実が明らかにならざるを得ません。
ちなみに、いわゆる初期世代の
アメリカのSLBM、潜水艦発射弾道ミサイルポラリスA2、これは当初
アメリカは四百四十八基を持って、その後これをすべて退役させ、これにかえてポラリスA3第二世代を増強して、七〇年代中ごろからこれも漸減させ、次いで第三世代のポセイドンC3を就役させ、さらにこれを漸減させ、今日では第四世代のSLBMトライデントを就役し始めているわけであります。つまり、総量をふやすことなく、中身を変えていっているわけであります。そして、この一等最初の世代の、SLBMの第一世代であるポラリスA2から、初期世代でありますポラリスA2からトライデントに至る兵力の差は、次のように示されるわけです。
すなわち、射程距離にして千五百海里から六千五百海里、弾頭打ち上げ方式にして単弾頭方式、つまり一個の弾頭を打ち上げる方式から多目標弾頭、いわゆるMIRV方式、さらに個別機動多弾頭、MaRV方式への変化としてあらわれるわけです。それをわかりやすく、一隻の原子力潜水艦に搭載できるミサイル基数に換算しますなら、十六基から二十四基への変化として、核弾頭数にかえますなら、十六発から四百八発への変化として表現できるわけです。
その結果、かつてポラリスA2を主戦力としていた六〇年代にあって、地中海東部の至近距離からでなければオデッサをたたくことができなかったし、その至近距離からですらロシア南部の十六の都市しか標的とすることができなかったのに対し、今日トライデントII型を主力とする八〇年代にあっては、アフリカ大陸の南端近くからでも十分な確度をもってオデッサをたたくことができるし、一隻の原子力潜水艦から四百八の、それも単に都市ばかりでなく、堅固化された核ミサイル基地をも標的とし、それらをすべて壊滅することができるという驚異的な力の増強となってあらわれるわけです。量が変わることなく、質が圧倒的に増強されているという現実がこれであります。だから、
アメリカは、地球上どこからでもソ連を繰り返したたくことのできる過剰殺戮能力を、ただ一隻の原子力潜水艦トライデントで持つに至っていると言うことができるわけです。
これに反しまして、ソ連の核兵器廠は著しく劣っております。
時間の関係がありますので、次の三点を触れるにとどめたいと思います。
一つは、ソ連は、同じ兵器廠の中にあって、旧世代の兵器を積み残し続けたまま新世代の兵器が兵器廠につけ加えられているという方式であります。だから、数だけ多いんですけれども、中身はがたがたの兵器であるというふうに言えるわけです。したがって、たとえばよくソ連が、原子力潜水艦が、SLBMが公海上で、あるいは領海で事故を起こすという
現象というのは、こういった点からも説明できるわけであります。
二つは、
アメリカの場合、核軍事技術の比較優位が存分に利用できるように、陸海空、つまりICBMとSLBMと戦略爆撃機との間で、三軍間の均衡がよく保たれているのでありますけれども、ソ連の場合、技術劣位がありますし、それから地理上の、地勢上の閉鎖性のために、技術開発の比較的容易な地上配備のICBMにほぼ転化しておりまして、それを潜水艦ミサイルが補うという形をとっております。
それで、
三つ目は、
アメリカの実戦即応態勢が著しく高く、たとえばSLBMに関しては、常時五五%が海にもぐっておりますし、爆撃機に関しては、常時三三%が空を飛び続けております。それに対してソ連は、SLBMに関しては一五%、戦略爆撃機に関しては〇%という
数字が
アメリカの議会報告で出ております。その結果、
一つの試算としまして、海中のSLBMと空中待機中の爆撃機の核弾頭数を比べますと、
アメリカが四千九百七十発、ソ連がわずか百八十発という著しい差が出てくるわけであります。
こうして見てまいりますと、ソ連が優位した核戦力バランスを背景に西側や
日本に核恫喝を行って、政治的、軍事的譲歩を手に入れていくという想定が全くの絵そらごとにすぎないということがわかるのではないでしょうか。
こうして見たとき、SS20の極東配備によって戦域核バランスがソ連に有利に展開し、ソ連の
世界支配への動きの徴候がそこにあらわれている、だから
日本もまた
軍拡をしなくてはならないという議論のおかしさが明らかになります。
第一に、ソ連のSS20は、たとえば極東に配備されたSS20百基、核弾頭数にして三百発の戦城核兵器は、パールハーバーを母港とし、グアムを前進基地として太平洋に配備されている十一隻のポセイドン型潜水艦、核弾頭数にして千六百発の戦略核兵器によって十分相殺されているわけです。正確に言いますと、圧倒して余りある不均衡状態にあると言っていいでしょう。さらに昨年、トライデント型潜水艦オハイオ一隻が太平洋艦隊に就役しておりますけれども、この一隻だけで二百十二発の命中確度の格段にすぐれた核戦力を
アメリカは手にしているわけです。そして
アメリカは、今後十年の間に、このオハイオクラスのSSBNを太平洋に十隻、大西洋に十隻配備するということが計画されております。よしんばソ連の地上配備の戦略核ICBMを考慮に入れたとしても、この格差は
アメリカにとって著しく優位した格差だと言わざるを得ないでしょう。
では、一体なぜソ連はシベリアにSS20を百基配備するまでに至ったのか。もちろん幾つかの要因を指摘できます。
一つは、欧州戦域核削減交渉のあおりを食ってアジアに回ってきたということ。二つは、七〇年代以降中国に配備されている総数にして二百から二百二、三十の戦域核に対抗する
意味を持っているということ。あるいは、ソ連
自体アメリカと同じように、いわゆる車産複合体というものがあって、いずれにせよどこかに配備せざるを得ないという事情があるということです。
しかし、そうした点を考慮しても、なおさらに重要なことは、少なくともそれらソ連のSS20に代表される戦域核が、米韓日のいわゆる三角安保の事実上の形成からくる米韓日からの脅威に逆に対抗する
意味合いを持っているということでしょう。
周知のように、
アメリカは現在、韓国と中東に有事が勃発することを想定した上で、極東への核配備の強化に努めています。すでに七〇年代中期の時点で、朝鮮半島に
アメリカは一千発近い核弾頭を配備し、アジアに、グアム、フィリピンなどを含めて一千七百発に上る核を配備しています。そしてこの核が、恐らく岩国、沖縄にもまた配備されているという観測すら
専門家の間に流されているわけです。そして、先ごろわが国で、三沢にF16を配備することを認めるという決定が見られているし、それからトマホーク巡航ミサイルの配備が間近くなっている。こうした米韓日三角安保の強化に対抗する手段としての
意味合いを、少なくともSS20のシベリア配備が持っていることを私どもは知らなくてはならないのではないでしょうか。恐らくそのとき最も大きな問題になるのは——しかし余りにも過小評価されていると私は思うのですけれども、F16の三沢配備ではないでしょうか。
アメリカ側の公式、非公式およそ一切の文献で、F16というのは、核装備の戦域核兵器として記録されています。たとえば国防総省八二年会計年度、長官年次教書百二十八ページには、F16は、トーネードクラス戦略爆撃機とともに、核・非核二重
機能を持った戦域核兵器として記録されています。民主党のシンクタンクであるブルッキングス研究所の文献では、一切これは核兵器として位置づけられているわけです。SS20のシベリア配備に非を鳴らす前に、なぜF16の三沢配備に非を唱えないのか。私どもは、御承知のように、非核三
原則を持っています。海の上ではない、陸の上にF16が、核兵器が配備されるという事態を私どもは座視していいのか、非常に私は気になることだと思います。
だが、それにしても一体なぜ
アメリカ政府は、わが
政府を誘い込んでまでこうして膨大な軍事力の増強を要請し続けているのか、増強をし続けているのか、この疑問が最後に残ると思います。
簡単に、最後の論点を私、触れさせていただきたいと思います。
一九四五年以降、広島以後
世界でさまざまな武力紛争が起こっているわけでありますけれども、つまり、軍事力というのは武力紛争に対処するということを目的にして増強されているわけですけれども、この武力紛争の例をすべて検討してみますと、ただ一個の例を除いて、つまり冷戦初期のベルリン危機を除いてほとんどすべてが——ただ一個と申しましたから、すべてと言った方が正確かもしれませんけれども、いわゆる第三
世界でしか起こっていない。あるいは私は、ほとんどすべてと言ったのは、ポーランド、チェコスロバキアの例を入れた場合、ほとんどすべてという表現になるわけです。第三
世界の紛争であるわけです。ポーランド、チェコスロバキアというのは、ソ連にとっての第三
世界だというふうにとらえることもできるわけです。一体なぜなのか。一言で言って、なぜ第三
世界で紛争が起きるのか。これは貧困と圧政のためであるからです。御承知のように、「金持ちけんかせず」という
言葉がありますけれども、貧しさと圧政のゆえに第三
世界で紛争が頻発しているわけです。しかし、奇妙なことに
アメリカは、これら紛争のすべてを、一切を共産主義とソ連のせいにするわけです。ソ連の
世界戦略の、
世界支配の一環としてとらえるわけです。それがまさに先ごろ発表された国防総省報告の、「ソ連の軍事力」第三版の根幹をつくっている考えであるわけです。
現実には、第三
世界でソ連の影響力というのは徐々に失われていっているわけです。その現状をわれわれは知らなくてはいけない。七〇年代に、たとえばソ連が同盟関係を結んだ五カ国の中東諸
国家というのがあるわけですけれども、この五カ国の中東諸
国家のうちに、早くもエジプトは、条約締結の翌七二年ソ連の軍事顧問団を追放して、七六年には条約そのものを破棄している。翌年七七年にはソマリアがこれに従っている。イラクは、七八年の国内共産党クーデターの失敗から、ソ連離れに向かっている。アフガニスタンは、御承知のように、革命とクーデターの中で内戦に向かっている。わずかに今日、エチオピアだけがソ連との脆弱なきずなを保ち続けているという状況であるわけです。
しかし、こうしたソ連の後退と対蹠的に、逆に
アメリカの方は、中東諸国から戦略的な外交上の勝利をむしろ増しているという状況があるわけですけれども、一体どうしてそうした状況の中から、ソ連がアフリカの角を戦略拠点としてアフガン、南イエメン、エチオピアの赤い三日月という
言葉で呼ばれるわけですけれども、これに囲まれた中東の油田地帯を軍事力をもってして制覇するという可能性を想定できるのか。実にこれと同じ論理が、
日本外交の少なくとも今日のわが
政府の外交政策の根底に置かれているわけです。それは、ゼロサム・ゲームの論理と言いかえることができます。
自分の方の損失はすべてそのまま相手方の得分と見るわけです。双方の損失と得分を合わせるとゼロになるという
意味でゼロサム・ゲームという
言葉で呼ぶわけですけれども、これは国際政治を黒か白かで割り切るきわめて単純化された論理です。敵か味方か、ゼロかサムか、それしかないわけです。ソ連の行動の一切がクレムリンの悪魔の選択の行為として描かれるわけです。したがって、バックファイアの侵攻に対して
日本を不沈空母にするという考え方が出てくるわけです。
一体、なぜ
日本外交をノン・ゼロサム・ゲームで考えることができないのか、こう考えますと、
日本には軍事はあるかもしれないけれども外交はない。
日本防衛庁はあるかもしれないけれども
日本外務省は
存在しないという結論に至らざるを得ない。これが
日本の
軍事費における突出を支えている外交政策の理念と現実のずれであると結論づけることができるでありましょう。
以上で終わります。