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高木健太郎君 おっしゃるとおりでございますが、いまの中学生の母親というのは、戦後四十年近くたちましたので、戦後の
教育を受けた母親でございます。いまおっしゃった動物に愛情があるかどうかは別といたしまして、本能的に育てるものを持っているわけですけれども、このごろの母親はその本能を少し軽視しているというかそういうことがあるので、本能的なものに戻せという
意見もあるわけです。それよりも私は、母親はどのように子供を育てたらいいかわからないのではな
いか、しつけるといっても、余り勉強させればまたいろいろ非難が上がりますし、丁寧にすれば過保護と言われますし、そういう
意味で母親というのも非常に迷っているのではないかというふうに思うわけです。別に母親は、塾にやってそして子供に勉強を強いるというようなことはしたくはないでしょうけれども、そうしなければならないような世の中になっておるので、
人間形成をやらなきゃならぬというきれいな
言葉を聞きながら、それに従っていけないというのが母親ではないかなというふうに思うわけです。
すなわち、本能的なこともある程度忘れて、たとえば子供が生まれて、こちらが話しかけても何にも言わないから、この子は何も言わないといって物を言わない母親がおります。その子供は小学校に入っても物が言えなくなる、こういうことさえあると聞いておるわけです。いろんな病気が、母親が原因で起こっている病気も多いんで、母原病という名前もあるわけです。だから、母親というものが自然科学というものと本能との間に挟まって、そして
社会というものとの間にまた挟まりまして行くべき道に非常に迷っているのではないかというふうに私は思われてならないわけです。それははっきりした支柱がない、精神的な支柱がないからであろうと思います。よその子が学校に行けば自分の子もやりたいというただそれだけでやっているのではないか。あるいは将来幸せになってもらいたいというためにできるだけ上の学校にやりたい、こういうことで、理屈はわかっておってもやむを得ず塾にやる、こういうことになっているのだと私は思います。
次に教員のことですけれども、学校もたくさんふえましたし、若い先生方、すなわちまだ
社会のことが余りよくおわかりにならない先生方が多いと思います。私の孫には中学の子供がたくさんおりますが、先生が生徒の前で泣いたりするわけです。あるいはまた怒るときにはかんしゃくを起こしてたたく、いわゆる
教育的に叱責をするというのならいいんですけれども、感情的にたたくとか、そういう先生方がおられる。実生活を知らないということに問題があるのではないか。あるいはまた心理学とか
教育心理学というようなものだけではなしに、もっと本当の
意味の
人間社会というものの経験が少ないのではないか、それが一番大事な子供を預かるというところに問題がありはしないかと思いますので、教員になった先生方をもう一度いわゆる卒後研修といいますか、あるいは休暇をとらしてそこで勉強をさせるというふうな、そういうシステムを
考えられてはどうかなと思うわけです。
神戸の方で健康科学大学というものをつくろうという企てがあると聞いております。それは教員の方を二年なら二年修士課程に入れまして、そこでより生物学的なものも教え、実
社会も勉強させる、こういうふうにしてまた職場に戻す、そういうふうにしたらどうだという
考え方なんです。同じことは養護教員についても
考えておられるようでありまして、このようにすれば、ちょうど医者が、学校では習ったが、実際に患者を診る場合にはインターンに行かなければ本当の患者は診れない、これと同じような
意味で、そのようなところに研修にやられてはどうであろうかというふうに思うわけです。
要するに、これを
考えてみますと、この
所信表明には「人格形成」と、こういうふうに書いてございます。私もそのようにしょっちゅう言うわけでございますが、現実の
教育というのは非常に実用本位でありまして、知識偏重である。ある本によりますと、
日本ほど唯物史観的な国はない、こういうふうにも言われておるわけでございまして、人格形成とは言ってもそれは理想であって、名だけのものである、現在こういうことになっているんじゃないか。だから、もっと
基本的なことを
考えなければこれはなかなか治らない病気ではないかなと思っております。
もう
一つは、学歴
社会といいますが、それは
日本は工業化
社会になっているわけでして、その工業化
社会に順応する
人間だけが選び取られていくという形になっているんじゃないか。私は左脳優先
社会と、こういうふうに言ったらどうかなと思っております。だから右の脳の芸術的な、あるいは情緒的な
人間というものは振り落とされる、そして左の脳の計算ずくの
人間だけが上へ上がっていく、こういう形の世の中がいつの間にかできておって、それが子供、家庭にまで押しつけられていくというのが現在の
日本の
状況ではないか。
教育がそういう
社会のために非常に大きくひずみを受けているというふうに
考えられてなりません。
もう
一つ具体的なことですが、これは片山
委員もおっしゃいましたし、
文部大臣もおっしゃいましたが、現在の教科書は非常にむずかしいと思うんです、私も。私は生物
学者であり医
学者でございますが、私が読んでもよくわからないです、高等学校の生物の本は。それから教養部の先生が高等学校の教科書を見て試験を出しますが、その試験の問題の出し方が違っている。これはかなり高等な技術を持った人でなければ実証できないようなことが本に書いてある。多分教えている高等学校の先生もそんな実験をやったこともない。その実験をやったこともないようなことが教科書に書いてございますからして、本当に空虚なことを教えている。だから先生が熱を入れようと思っても全然熱が入らない、ただそこにあるものを教える。そうすると子供はどうなるかというと、子供は一種の知的オウムになっておりまして、詰め込まれるだけ詰め込まれておる。全然物を
考えるという子供ができ上がっていない。こういうことが現在の
教育の非常に大きな欠点であると思います。
いわば私は
教育というのはたくさん物を教えて知識を詰め込む、百科事典にしてしまうというのが
教育ではなくて、学校における
教育、特に初中の
教育におきましては、ある事に当たってそれを十分自分で
考え理解する、こういう子供をつくればいいので、何を知っているというようなことはもうパソコンがあればだれでもできる世の中になっていると、こういうように思いますので、ぜひ自分で
考え判断する子供に中学を卒業したときには、
義務教育を終えたときにはなっている、このような
方針に切りかえなければいけない。ここでたくさん知っている子供の偏差値がよかったり入学試験にそれが通ったりということになりますので、それでは
教育になっていないんじゃないか。こういう
教育の根本にさかのぼって私は
考えてはいかがと思うのでございます。
また、教科書がむずかしいということのために落ちこぼれが出てくるのではないかと思いますが、これに対して、
瀬戸山文部大臣はこういうこともお好きかと思いまして、この間ある人から教わって宮本武蔵の五輪書というのを読みました。この五輪書を読みますと、わが兵法を人に教える場合には、初めてこれを学ぶ人に対しては、その人が習いよいようなわざからまず習わせ、早く
理解できるような道理から教え、初めは
理解できかねるような点については、その人の境地が進むに従って、次第に深い道理を教えていくように心がけていく、そういうふうに宮本武蔵は言っておるわけです。私も、教えるのは、初めから入るか入らないかわからない、
理解できないようなものをただ詰め込むということを
やめて、入るところから入れていくというような
教育をもう少し
考えていただきたいと思うのでございます。
以上が
非行と
暴力に関する私の感想でございました。私の
意見ばかり申し上げましてまことに失礼でございましたが、以上申し上げておきます。
次は、この
所信表明の、ページは打ってございませんが六ページのところに、「
学術研究の振興について」というのがございます。行革がございまして大変予算も窮屈なところで、ほとんど昨年並みあるいは昨年よりもやや増しているというような科学研究費をつけておられるということは私は評価いたします。しかも、この中に書いてある文句としては「独創的、先駆的な
学術研究」というふうに書いてありまして、この文句は非常にいいわけでございます。ところが残念なことには、御存じのように、
日本では独創的な研究が余りな
いわけなんです。大抵向こうの焼き直しの研究が多いわけでございます。
それの
一つの証左になるかどうかわかりませんが、ここにノーベル賞自然科学系の受賞者の数がございます。それを見ますと、もちろん
アメリカやイギリスが多いということは論外でございますが、
アメリカは物理学で四十七。全体で、
アメリカは百三十、イギリスが五十九、それからドイツが四十九、フランス二十二、スウェーデン十五というふうになっておりまして、
日本は四なんです。これだけ
教育施設あるいは設備の整った、あるいは力を入れている、まず
アメリカに次いで、あるいは
アメリカとほとんど肩を並べるぐらいに力を入れておるのにたった四しかない。しかも、そのうちの物理学が三でございますが、物理学の朝永さんと湯川先生お二人は亡くなりました。それから江崎さんとか、あるいはこの間も
国会に来られた福井さんももらわれたと思いますが、どうも残念なことにはそういう自然科
学者というのは、ノーベル賞の研究をやった
場所が実は
日本ではないんですね、外国でやっているわけです。そうして、ノーベル賞をもらっても
日本には帰ってこないわけです。どういうわけだろうかと私は思うわけです、どうしてそう嫌われるんだろうか。
私の友達でもノーベル賞をもらうとうわさされたりっぱな男がおりました。彼に、
日本から君のようなりっぱな
仕事をする人ができて私は非常に嬉しい、また誇りに思うと言ったら、彼が私に言った
言葉は、自分は
日本には入れられないんだ、おれを
アメリカにしか住めないようにしているということは
日本の恥ではないか、こういうふうに私に言ったことがございまして、私は非常にそのときにびっくりいたしました。しかも、残念に思いました。何が原因だろうと。もちろん学閥というふうなこともいろいろあると思いますが、とにかく向こうで研究する方がやりやすいということでございまして、これについて後で
担当の方から御
意見を伺いたいと思います。
もう
一つは、現在科学研究費が非常にふえておりまして、大型の科学研究費も、
一つ一億円というふうなものも三年継続でついております。あるいは一般研究費というのはたぶん一千万円以上だと思います。それだけ大きな科学研究費を出しておられることは非常に私はいいことだと思うのですが、実はその費目が決まっておりまして、これは設備とかそういうものしか買えない、人件費には一切使えないとこうなっているわけです。しかし、一千万円の研究費をもらいまして、何かりっぱな機械を買いましても本人が動かしているというわけにはいかないわけでして、御存じのように大学では一、一、二という定員しかございません。その半分以上は
教育に割かれておりますからその機械を動かそうと思えばだれか人手が要るわけです。また、りっぱなデータが出ましてもそれをまとめていく人が必要なわけです。ところが、人件費には使えない。欧米諸国ではそういう研究費というもの、あるいはファンドというようなものはみんなそれに対して人件費もついておるわけでして、人件費に使ってもよろしい、そのように
学者の自由を認めておるわけでございますが、これ何とかしてその人件費に使ってもよいように、いろいろ支障はあるのでございましょうが、これをどういうふうにすれば使えるようになるのか、ひとつ前向きに御
検討をお願いしたいと思いますが、いまのノーベル賞のことと人件費のことにつきましてひとつ
お答えをいただきたいと思います。