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参考人(
能重真作君) 私は、現場に
中学校教師としてことし三月末で二十七年になるわけですが、現場という立場から、今日の子供の
少年非行並びにそれが
学校の中でとりわけ教師に暴力という形で向けられて大きな
社会問題になっていることについて、その実態、それからまた教師はそこで何をしているのか、
学校教師が抱える問題は何か、そして、この事態を打開するのにはどうしたらいいのかということについて考えてみたいと思います。
まず、二十七年の教師
生活の中で痛感しますことは、かつて夢に胸ふくらませて教師になった二十数年前の
状況と、
学校現場、とりわけ子供の様子が大きく変わってきているということであります。かなりの
学校でいま教師たちが
教育という仕事、子供との触れ合い、相手は人間ですから、本当に喜びを持ってできる仕事が必ずしもそうなっていない
状況の中で、先ほど来お話もありますよ
うに、教師の
心身症、登校拒否症、いろいろな病気で教師が苦しんでおります。そのために欠勤が多くなったり、あるいは休職をしたり、したがって、その代替の教師がなかなか見つからない間に子供たちは荒れていきますし、かわりの先生ですから十分子供の実態がつかめず、心もつかめない
状況の中で、病気が治って復職した先生はさらにひどい子供たちと対面することになるという悪循環の中にほうり込まれております。
今日、これだけ大きな
社会問題として子供の
非行、
校内暴力が取り上げられた直接のきっかけとなりましたのは、例の横浜の事件、そして町田の事件でありますけれども、ああいう事件が二度とあってはいけないというふうに私は思いますが、起きてしまったこの二つの事件から私たちは重大な決意をもって多くのものを学ばなければいけないというように思います。
まず、町田で起こった先生が生徒をナイフで刺すという全くあってはいけないような問題について、まず私が痛感しましたことは、事態がいよいよここまで来たかということであります。これほどまでに追い込められた教師の実態、そういうものを見る思いがいたしました。幸いにしてマスコミの報道の姿勢も単に教師の問題ということでなく、教師が追い込まれている
状況にも正しく目を向けようとしていることについては、今回の八木先生の提起した問題というのは、それなりに意味あるものとして私たちは受けとめたいというふうに思うわけです。もちろんそういう事態になった教師にも大変問題はあります。言葉は適切でありませんけれども、欠陥教師、あるいは欠陥教師と言われる前の欠陥人間というような
状況も私たち仲間の中に抱えていることも事実であります。子供にとっても親にとっても仲間の教師にとっても、これはと思われるそういった教師が間々見受けられることもあるわけですけれども、しかしそれはとりわけ今日顕著になった傾向ではありません。いま多くの教師たちは、この崩れていく子供の
状況に対して、全く新しい現象ですので、どこからどう手をつけていいかわからない状態の中で、まさに手探りで体当たりでぶつかっているのが真相だと言ってもいいように思うわけです。
また、横浜の事件の場合、子供の荒廃きわまれりという印象を持ちました。遊び半分に弱い者とはいえ大人をけり上げて殺害に至らしめる、しかもそのことに対して余り心の痛痒を感じていないというこのそら恐ろしい子供の出現ということも先ほど発言されておりますけれども、しかし、そこまでに子供が追い込まれた
状況というものを私たち大人は考えていかなければならないのではないか。これは弱者が弱者を襲うという、そういう構造の中で、
家庭内暴力も学
校内暴力も、そして今回
地域社会に出て無差別に大人をねらうという
状況にまでなってきているのではないか。これはある意味では子供の
非行的事態ないしはもっと
視野を狭めて見るならば、暴力の対象がまた一段と様相を変えて出てくる一つの兆しと見るべきであるというようにさえ私は感じております。
いま
中学生が大変問題が多いわけですけれども、昔から、この思春期の入り口の子供には精神的に非常に不安定な
状況がありまして、親も大変苦しんだ時期であります。第二反抗期というような言われ方をされているわけですけれども、しかし、第二反抗期の子供を抱えて苦しんだのは、
学校の教師ではなくてかつては親であったわけです。つまり、子供の権威や力に対する反抗というのはまず親に向けられていたというように思います。ところがここ十年来、戦後の第三の
非行を迎えるあたりから子供の反抗の対象が
家庭の親からさらに
学校の教師へと拡大されてきている。したがって、親に反抗するということや教師に反抗する、あるいは
学校の校舎を破壊するという直接的動機やあるいは背景には、親の持つ問題あるいは
学校、教師の抱える問題があるわけであります。
しかし同時に、先ほど来もこれは話されているように、子供自身の甘えが非常に強いということも指摘されております。現に、昨年度大変
校内暴力が広がるだろうと予測した
東京で、警視庁の統計によれば二三%も減少するという数字が出ておりますが、これは必ずしも事態が
解決したと私は判断をいたしておりません。警察と
学校が一体となった取り締まりがかなり効を奏したという警視庁の指摘でありまして、私はまさにそのとおりだと思います。この年、かなり荒れるだろうという予測に対して余り荒れなかったのは、いまのような力による取り締まり、これが
強化されたという反映だろうと思いますが、同時に、その年の卒業式、
東京は三月の十九日でありますが、マスコミ関係者がかなり、ある意味では事態を予測して
学校にカメラを持ち込んでおりました。つまり、荒れる卒業式を予測したのであります。しかし、実態はほとんどないということで、報道陣も空振りに終わったようですけれども、そこで目に映る光景というのは、かつて一年間、さんざん苦しめた担任の教師と、あるいは殴ってけがをさせた教師と抱擁し、あるいは握手をして、涙を流して別れるつっぱりたちの姿であったようです。
つまり、
学校も子供たちにとってはかなり強い依存の対象の教師ということから、甘えという領域が非常に拡大してきている。そういう意味では、構造としては
家庭内暴力ときわめて似た構造を持ってきているように思います。それが、さらに今度は
社会一般に対する甘えというような形で、たまたま横浜ではああいう事件として表面に出ましたけれども、あれは私は氷山の一角だというように思います。それは、死に至らしめたということで大きな
社会問題になりましたが、ああいう
社会一般の中にいる大人の弱者への攻撃はここ数年枚挙にいとまがございません。
現に私の体験した例でも、もう六十をはるかに過ぎる老齢のひとりで暮らしている洋服屋さんでした。このお店へときどき出入りをしては万引きで盗んだズボンを売りつけていた、買う方も買う方だったわけですけれども。しかし、そういう老人の弱さを逆につきまして、一人が話をしているすきに引き出しからお金を盗むとか、あるいはズボンの修理を頼んで、そしてでき上がる前にそのズボンをこっそり盗んで、その老人の仕立て屋さんに弁償させるというような悪質な手口まで考えていびり続けたという例もあります。さらには、これはやはり六十を過ぎた体のきかない老婆が経営する小さな駄菓子屋さん、あるいは小さなおもちゃを売っているお店なんですけれども、ここでさんざん万引きをします。そのうち見つかると、開き直って、火をつけるとかあるいは投石をするぞというようなおどしをしたり、あるいはもう万引きではなくて、堂々と箱ごとおもちゃを持って逃げていく。追いかけて
もとても老婆の足では追いつかない。それを
学校に通報し、
家庭に通報しますと、また報復で、寝ているとき、深夜、窓ガラスから大きな石が投げられまして、もう少しで頭部に当たるというような事件も起きております。
そういったことで、いまの子供たちの荒廃の
状況というのはまさに極にきている。そういう意味では、かつて高度成長期の後半期あたりから、いわゆる
昭和元禄と言われたあのあたり、確かに
東京の二十三区の中で私の勤務する足立区というのは、地域的
状況というのはきわめて恵まれない
状況にあります。昔から子供の
非行と無縁であった日は一日もない、そういったような
学校で勤務しておりますけれども、しかし、あの
昭和元禄の
時代は、三年ほど警察補導ゼロといった時期もありました。たまたま警察に補導されても、万引きあるいはよその
学校の生徒と塾で知り会ったそのことからけんかになったという程度のこと、ささいな子供の世界にありがちな問題に限られておりました。ところが、たちどころにあの四十八年のオイルショックの秋から、当時三十校あった
中学の中で二校、
校内暴力、対教師暴力事件が報告されたわけです。
先ほどもマスコミの方から指摘がありましたように、
学校というのは大変閉鎖的な体質を持っているというように私も考えます。マスコミに対してはかなり警戒を要さなければならないというと
ころがあるわけで、先ほども校長会の先生からお話がありましたように、マスコミ報道の結果、かなり深い傷を負ってそこから立ち直り切れなかったという
学校もこれまた枚挙にいとまがないわけであります。
しかし、
学校の持つ閉鎖的体質というのは、本来父母と教師が手を結んで一体となって
教育に当たらなければならないところの
学校の父母にまで広がってきているわけです。親が、
学校ではこんなことがあったようですけれど
もと学校の校長先生あるいは先生にお尋ねしても、いやそんな事実はありません。具体的な事実を突きつけられれば、それについてはもう当事者同士で話し合いで
解決が済んでいるので外から余り荒立てないでほしいというような形で内々におさめてしまう。もちろん警察にも、かなりの傷害事件があっても通報しない、
教育委員会にも正確に報告がなされていないというのがかつての実態であったと私は考えております。したがって、校長会あるいは
教育委員会、そしてそれを統括する
文部省、ここが一番実態を知らなかったのではないか。しかし、ここ二、三年の経過では、
東京に限ってですけれども、そういった閉鎖的体質が事態を悪化させているという反省の
もとに、校長会等でもかなり赤裸々にお互いに情報交換が行われ、
教育委員会もかなり正確に校内の
状況についてはつかんできているように思います。
そのことについては大変喜ばしいことであるとは思いますけれども、反面、それはある意味では開き直りの姿勢、もう
学校の体面とか名誉とかいうようなことを考えているいとまがないという
状況の反映だろうと思います。しかし、残念ながらまだ
地方には、すべての
学校とは申し上げられませんが、かなりその
学校の持つ閉鎖的体質というのは残っておりまして、そしてそういう
状況のところにどんどん子供たちの暴力がある種の流行として広がっていっております。これについても、マスコミ報道の姿勢ということについても先ほど来指摘されているわけですけれども、報道の仕方については慎重であっていただきたい。かなり流行現象をつくる役割りの
一端を果たしているのではないかとさえ思われる
状況があります。
私の
学校で、私が二年生まで教えたかなり自主的な規律ができた学年だと自負していた学年、翌年私は他学年に移ったわけですが、授業を何クラスか受け持ちました。一月ほどたってある教室に入ったときに、いつも整然と私の来るのを待っている子供たちが窓際に鈴なりになって外を見物していたのであります。私はつい残念に思って大きな声でどなりました。子供たちはぞろぞろと自分の席に着いたわけですけれども、そのときに何名かの子供たちが歩きながら小さくつぶやきます、
校内暴力、
校内暴力。その子供たちと私とは二年間の人間関係ができております。また先生に殴りかかるような子供でないこともわかります。冗談で言っているわけですけれども、一種の流行として子供たちの中に言葉がまず入り込み、だんだん子供たちの心の中に意識としての
校内暴力、したがって、いつ教師を殴っても決して不思議がないような
状況がまず精神的な
状況としてつくられていっていたということをその子供の冗談から私は感づいたのであります。そのうちやがて子供は、先生、そんなしかり方をすると
校内暴力が起こるぞ、ちょっと厳しく言うとすぐ
校内暴力だぞというようなおどしをかける。もちろん冗談半分でありますが、そういうことを言う子供がかなり出始めてきております。こういった面もかなり私は見ていかなければならないことではないかと思うわけです。
にもかかわらず、なぜいま子供が
学校で暴力なのか、
学校で
非行なのかということを私は次のように考えるわけですが、一つは、子供の世界は変わったということに着目しなければならないと思います。かつては家の周りの地域を
中心に子供の世界がありました。ですから、
学校をひけると子供はさあっと帰って神社の境内やお寺の境内で遊んだり、たんぼや小川で遊んだ、これが子供たちだけの世界であったわけです。ところが、いま子供の人間関係というのは家を
中心とした地域にはありません。ほとんどが
学校の級友ないしは部活の仲間であります。
学校を抜きにしては子供は人間関係がつくれない、こういう
状況になっております。ですから、ある週刊誌が、番長は
学校が大好きなんという見出しを取り上げましたけれども、本当に逃げの姿勢を持つならば大変厄介な事態になったわけです。
かつて子供は、だんだん
非行化していけば地域にどんどん出て、
学校に来なくなる。地域で悪さをしますから、警察につかまってそして少年院なりに隔離される。
学校の教師は手を汚さずして子供を切り捨てることができたわけです。しかし、今日子供は、遊びの世界が
学校の中に変わってきておりますので、
学校の中で、しかも
学校の中の一番長い時間は授業であります。その授業の時間はじっと耐えて休み時間だけ好きな遊びをするなんというがまん強さを持っていない子供ですから、授業の中もまた遊びの場になってしまう。しかもそれにきちっと対応できない弱い教師がふえているという
状況がそれに拍車をかけまして、
学校がまさに子供の遊びの世界になってきているわけです。もちろん子供というのは、学習する存在である前に
生活する存在ですから、そういう
社会状況の
変化の中で、
学校また子供の
生活ということを真剣に考えてみなければならないという
時代になったように思います。
そしてまた二番目の問題として、いじめの拡大、これは先ほど申し上げましたけれども、教師が弱いものであるというこのことをぜひ皆さんに知っていただきたいというように思います。かつてのように三尺下がって師の影を踏まずというようないわば儒教道徳によって外から支えられていた教師と違います。みずからの権威で教師の権威をつくらなきゃならないというようなそういう
時代になっているわけですが、残念ながらこれは教師の弱さだと私は考えます。かつては先生であるだけであがめ奉られた、御無理ごもっともで先生の言うことはみんな通っていった
時代、私たち教師はその上にどうもあぐらをかき過ぎたきらいがあるのではないか。みずからの人間的な魅力あるいは教師としての力量、その上に立った教師の権威、そして子供や父母の尊敬をかち取るという
努力を全般としてどうも怠ってきたきらいがある。したがって、
社会的ないろいろな外側からの支えがなくなったときに、教師みずからの、その権威が失墜したという
状況として私たち教師としては、この子供の
校内暴力というものは、教師の姿勢あるいは
学校の体質を厳しく問う問題提起というように厳粛に受けとめたいと思います。しかし、問題はそこばかりでありません。
三番目の問題として指摘したいのは、
学校がだんだん子供にとってやはり楽しい場でなくなってきているという、これは制度上の問題もかなりあるように思います。とりわけ
中学校の場合ですと三年間しかありません。入った一年間は上二つつかえておりますから。また、新しい
学校生活、いままで自由な服装していた子供たちが、あの詰め襟服を着せられていくわけで、
状況が大分変わるということのためにかなり緊張をしております。しかし、やがて二年生あたりになりますと、もうすぐ目の前に受験という問題が控えてくるということで、あっという間なんですね。
ですから、子供の
生活というのはいわば甲子園型になるか、あるいはもう一切の活動を捨てて子供らしい
生活を犠牲にしていわば東大型になるか、あるいはその中間とでも言ったらいいのでしょうか、適当に子供たちの世界の中での活動をしながら勉強もやる、まあ
文化祭型と私呼んでいるのですが、そういう幅広い
学校生活を楽しみながら勉強もしていくというようなタイプ、大体この三つぐらいにまともな子は分かれるのであります。
しかし、この三つのどれにも入らない子供、余り好きな言葉でありませんけれども、落ちこぼれと言われる子供たち、これは必ずしも学力的落ちこぼれではありません。もう
スポーツにもついていけません。今日の選手養成が非常に主目的に
なっている、いわば甲子園型と私が申し上げたのはそういうことであります。かなり
学校の名誉あるいは顧問の教師の名誉というかあるいは趣味といいますか、それに
生きがいを求めている教師、もちろんその中で子供がいろいろ変わっていく例もありますから、一概にそれは全面的に否定できないにしても、そういうことで子供が道具にされている、そういった傾向もないわけではありません。ですから耐性のない子、あるいは体のちょっとひ弱な子、これはいまの部活にはとても運動部の場合はついていけません。そういったことから早々と脱落をしていく。こうしますと、自我に目覚める
中学生の時期、何ら他人に誇れるものを持ち得ませんのでつっぱるということが一番手っ取り早い方法である、こう考えるわけです。
非行とまあ一口に言いますけれども、ちょっとした出来心で連れ立ってやる万引きや、けんかのあげくちょっと相手にけがをさしてしまったようなものまで傷害事件として
非行と扱われておりますけれども、どうも私たちがいま真剣に悩んでいる
非行というのは、そういったものよりは、
中学生あるいは
中学に近くなる
小学校高学年あたりから自我に目覚めてくる子供たちの自己主張型
非行と言ったらいいでしょうか、これであります。しかも自己主張は、そういった形で暴力やあるいはさまざまな
社会的な規範を破るということでいたしますけれども、しかしそれに対する厳しい大人の歯どめがないために、あるいは仲間同士の歯どめがないために際限なくそれがエスカレートし、いま新聞で騒がれるような大きな事件へと
発展してしまい、何といいますか、もう
もとの正常な道になかなか戻り得ないような
状況に子どもたちは追い込まれております。したがって、その辺になりますと自己放棄型の
非行と言ったらいいでしょうか、おれなんかもうどうでもいいということでかなり
指導に困難を来す子供が多くなっているのも事実であります。
そういう中で、教師の問題についてはまだまだ厳しい御批判をいただかなきゃならない面は多々あるわけですけれども、同時に、そういう
状況の中で悪戦苦闘している教師も大ぜいいることをぜひ先生方に知っていただきたいと思います。そして、そういう教師に対する励ましを、
学校の中でもそれからまた地域、父母、そして
社会的にも大きくしていくことによってそういう教師を一人でも二人でもふやしていくことがいまとりわけ必要なことではないか。
確かに
校内暴力を初めとする子供の荒廃は、原因は単純ではありません。先ほど来言われているような複合汚染の産物ですから、本当に息の長い取り組みの中でしか
解決されない問題だろうと思います。しかし、事態は私は一刻の猶予もならないところに来ているというように思います。どれだけ大きく声を張り上げて叫んでも残念ながら理解していただけない面があったわけですけれども、今回の事件を契機に、ある意味では民族の危機的
状況だとすら私は受けとめたいというように思います。それに対して、政治経済あらゆる分野の
課題が私たち山積しているわけですけれども、子供の問題、
教育の問題はぜひ最優先さしていただきたい。お金のかかることでしょうけれども、かけがえのない子供、民族の未来を背負って立つ子供たちを最優先する行政もぜひお願いしたいということを強調して発言を終わります。