○山原
委員 この問題はかなり時間をかけてやらなければならぬ問題ですが、わずかの時間でやるわけですから。
いま言いましたように、
実態としては、本当に重要な、時間をかけてきちんと基礎的に理解させなければならない問題は残っておりまして、そしてまた、比較的簡単に、教えなければならぬ、また教え得るものが削られて、それが週三時間に削減の一つの材料になっているということ、これは私は幾つもの例を挙げることができます。けれ
ども、時間の関係でそれを省略しまして、教科書です。
教科書が、これはページ数は減っているわけですね。ところが、では教える
中身がどうかというと、これは減っていないのです。教科書そのものは、まあ教科書によって違いますけれ
ども、五ページないし六ページ減っておりますが、その結果どういうことが起こっているかというと、逆に密度の濃いものになっているわけですね。時間数は削られる、教科書は減っていますが、いかにも教科書が減っているからこれは時間が少なくともやれるのじゃないかということなんですけれ
ども、非常に
中身が濃密になってくる。
それから、二つ目としては、繰り返しがなくなっているのです。外国語の
教育というのは、これは繰り返し、反復練習ですよね。そして覚えさせていくわけですから、それができなくなってしまって、結局子供がわからなくなってしまう。
これは
先生方の意見を聞きますと、非常に頭の回転のよい子はわかるというのですね。ところが、あとは、家庭
教師、塾でもだめだ。塾の
先生の悩みが出ていますけれ
ども、塾でもいかぬ。優秀な家庭
教師につけてマン・ツー・マンでやっている子供に理解できぬということです。だから、大変なことです。塾の
先生の言葉をちょっと
紹介しますと、前は
学校教育で教わってわからぬところを塾に来てそれを教えておったのですが、いまはまるで
学校でわからないで来てしまう。
学校は何しているのだ、どうなっているのかということまで塾の
先生方がおっしゃっておられるわけです。
これは
文部省のかつての視学官をしておられました宍戸良平さん、この人が、学習
指導要領の前の改定のとき、一九六九年のときですが、「学習
指導要領の展開」の中でこういうふうに述べています。「週四時間ないし五時間のとき、このときでも、一学期に三分の一落ちこぼれていく、二学期には三分の一落ちこぼれていく、三学期に三分の一落ちこぼれていく」、そう言っておられます。
四時間のときでもそうですから、いまや一学期で落ちこぼれていくというのが、全くわからない子供が出てくるという。そして、その子供は、黙って座っている。結局、おもしろくないものですから、子供のあれはわかるでしょうが、
存在感を表明しなければなりませんからね、だから突っ張る。突っ張っていく、そして
教師に反発する。
教師はどうなるかと言うと、わからないものだから子供たちは騒ぎ出す、騒ぎ出すから授業が成立しない、成立しないから
先生方も自信を失ってしまう。
きょうも新聞に、これは数学の
先生が、非常に優秀な
先生のようでありますけれ
ども自殺をしておられるのですね、自信を失ったということで。これも過密
学級です、三百人を目の前にして。これは私が聞きましたら、八木
先生の場合も、先ほど言いましたけれ
ども、わからぬ子が目の前にいるのだけれ
ども三百人近い子供を教えているのですね、一人一人に目が届かない。結局こういうところから、しかし教科書は進めていかなければならぬという
任務もございますから、
教師自信がやる気を失っていく場合が多いし、すごい過労になってきます。
一例を挙げますと、たとえばdという字ですが、これを書く子供のノートを一つ一つ点検しないとわからぬのだそうですね。こういうふうに普通のdと書く子供はいいのですけれ
ども、逆に書くのです。それからさらにoを書いてlを書いてこうひっつける、こういうのabcd、アルファべットのdでさえこういう落ちこぼれが出てくるのですね。書き方もわからない。その子供の目の前に寄ってそのノートを点検していくならば、それは見つかって、だめだよと言って教えることができるのですけれ
ども、それは大変なことです。先進国でいけば十五名でしょう、外国語を教える場合十五名。日本は四十五名ですから、実際に四十人
学級の問題がここに出てくるわけですが、それをいま言っても仕方がありませんけれ
ども、よほど
文部省としてもこういう声を聞いてあげないと、ますます落ちこぼれとそしていわゆる悲しい事態が出てくる可能性を持っております。
高等学校の方へ聞いてみますと、
高等学校の方はどうかといいますと、マイナスからの出発だと最近は言い出したのですね。英語の授業についてはゼロからの出発じゃないのです、マイナスからの出発だ。高校一年生へ入ってきた子供を教える場合に、ゼロからの出発じゃなくてマイナスからの出発だ。何ということかと聞きますと、英語に対して生徒が恨みつらみを持って来ると言うのです。その子供たちに対してまずその恨みつらみをのけてやる、このマイナス部分からいかなければならぬというわけですね。だからこういう
実態、これは
文部大臣もお聞きいただきたいのですけれ
ども、こういう
実態というものを
文部省としては本当に深部にわたって把握をしてほしいのです。だから、テレビでも最近は英語は使われますし、外国人は来るし、交流は深まっていく。あっさり言えば、すべての国民がこの英語の問題について、単なるいままでの英語という観念とはまた別に、国際交流の面でも重要なものになっておりますし、これはNEC、日本電気の語学
教育の文書を見てみますと、これはシンポジウムで、この語学
教育を企業でやっている場合ですが、企業内の英語
教育は基礎に週三時間では困る、
学校教育を基礎にして教えていくわけですから、四時間以上あればそれが基礎になり得るのだけれ
ども、このままでは、週三時間ではエリートでも英語嫌いが出てきて、しかも受験英語しか
考えていないゆがんだ形でであらわれてくる、これでは国際競争できないということまで言っているわけですね。そういった点から
考えまして、本当にこの問題は重大な問題だと思います。
ところが問題は、この学習
指導要領には、総則の中に、地域あるいは子供の発達段階あるいは
学校における創意工夫というもの、創意工夫を持って編成をすることができる。それは総則の中にうたっているわけでしょう。ところが、
学校の中で意思統一して、父母も一緒になりまして、じゃここでは週四時間にやってみようという意思統一ができた場合でも、恐らく
文部省の指示でしょうね、これを
教育委員会がとめてしまう。これは熊本の例も出ております。もうこれは各地に出ていまして、実際に言えないのだそうです。苦労してたとえば三年生の場合に四時間あるいは三時間半やっておることも、報告すれば、ここであっさり言えば抑えられてしまう、そんなことやっちゃだめだと。この強制ですね、私はこの強制はやめるべきだと思うのです。
これは熊本の人吉でPTAの総会の席上で出されておりますけれ
ども、人吉の場合はPTAの方たちが集まって一千名が会をやって、この週三時間ではいかぬという会を持とうとする。そうすると
教育委員会の方から全県のPTAに指示を出して、ああいう運動に
参加するな、こういうことがある。集まっている
人たちは思想、信条、全然別ですよ。みんな子供たちに力をつけたいということで集まってきて、何とか、このいまの状態ではいかぬからこれを改善するように運動しようじゃないかといってPTAの
皆さんが集まっているのに、それはだめだ、こういうふうになってくるわけですね。いわゆるこの強制は少なくとも私はやめるべきだ、こう思いますが、その点いかがです。