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佐藤(誼)
委員 いや、時間がありませんから大臣の
答弁だけでいいです。真摯に取り組んでいるということは私も認めますが、そのやり方と攻める角度の問題があるような気がしてならないのです。というのは、先ほども言ったように指導通達はいろいろ出されておりますが、たとえば三月十日の通知では、長い文章ですからあれですが、その中段あたりに「学校に対しては、重点的に、学校の管理運営の全体にわたって、必要な指示や指導を行い、」以下云々とありまして、その管理運営全体の指示や指導のための点検項目として先ほどのようなことがある。どうしてもこういう形になる。これは一面的ではないかということを私はあえて
指摘したいわけです。
それからもう一つは、いま
文部大臣がいろいろな研究なり提議をされていると言われましたが、ここにたくさんあります。私、資料を持っておりますが、たとえば昨年の豊かな心を育てる施策推進
会議の設置以下云々ですね。それから例の総理府の青少年問題審議会の答申もあります。いろいろありますが、大変いいことを書いてあるのです。私も賛成な
部分がかなりあるのです。特に総理府のこの答申などは、現状のとらえ方、あるべき論としては非常にいいことを言っているのです。
長いですから一、二だけちょっと言いますと、「今日の社会においては、学歴偏重の風潮が強く、そのための受験競争等から
教育における知・徳・体の調和が崩れる傾向が見られる。こうした学歴偏重の風潮は、父母は
もとより、学校、教師にも広く影響を及ぼしている。親や教師は、児童・生徒の個性や多様な能力を引き出す努力を払うべきである。」、このところですね、この辺は私はそうだと思うのですね。「特に、学校及び教師は、こうした学歴偏重の風潮に流されることがないよう積極的に努力すべきである。」、すべき論です。それから次のところに出てくるのですが、「常に魅力のある学習指導と人間味にあふれた生徒指導を行うのがその基本でなければならない。特に、児童・生徒の発達過程に応じた学習
態度や生活
態度の育成が行えるよう努力する。」云々、大変結構です。
それから、指導の中にも私も賛成な
部分があるのです。たとえば、これは五十五年十一月二十五日の
文部省の通知ですが、その「記」の1「児童生徒が学校
教育に不適応を生じて問題行動に走ることがないよう、」とありまして、その後に「児童生徒が指導
内容について十分理解し、興味・関心をもつて意欲的に取り組むことができるようにすること。」それから「児童生徒の個性や能力に応じた指導を行い、その一層の伸長が図られるようにすること。」と書いてあるのです。大変いいですよ。
ところが私が言いたいことは、こういうことが現場において、現場がなじむ状態になっているのかどうかということなんです。個性を伸ばせとか一人一人の能力に応じて引き出せとか言ったって、
教育の現場はそれが定着するような、なじむような
状況になっているのかどうか。たとえば馬が大変病気している、これはやはりニンジンを食わせるべきだ、ホウレンソウを食わせるべきだというべき論はありますよ。ところが、その肝心の馬がニンジンもホウレンソウも食えないような状態になっているのにべき論を述べたってしようがないと私は思うのです、極論を言うならば。こういうべき論は大変結構なのだけれども、
教育現場の
状況から言うとこれはなじまない、なかなかかみ合わない
状況にいまなっているのではないかというふうに私は言わざるを得ないわけです。
皆さんも御承知のとおり、学校の一面を見れば、この間
文部大臣が言われたように、言うなればテストと塾通いでしょう、偏差値と輪切りでしょう、それに伴う落ちこぼれでしょう。つまり、受験競争のるつぼの中で生徒も教師も振り回されているのですよ。個別指導だとか知・徳・体で能力を引き出すなどと言ったって、やる余裕がないのです。さらにその背後には、おれの子供は
大学に入れたい。
大学じゃないです、もっと言うならば一流
大学や有名校に入れたいのです。これが受験競争の
もとなんです。こういう
教育ママの目が光っているのです。これが現場の
実態じゃないかと私は思うのですね。このことを考えるときに、いま言ったようなこと、個性を伸ばせ、能力を引き出せと言ったって、なかなかなじまない
状況に現場はなっているじゃないか。そうすると、こちらからこうあるべきだということを述べながら提言し、指導していくと同時に、やはり現場を、受け皿を改革していかなければならぬのではないか、私はそう思うわけですよ。確かにこの間も私
たちが東京都の十何中でしたか、十二中を見ました。いろいろ勉強になりました。それは非常によくやっているところもあります、教師の涙ぐましい努力によって。しかし、おしなべて言うならば、そういう
状況にあるということを事実として認めながら、それにどうやはり軟着陸させていくかということを考えないと、幾らべき論や指導のところを強めようと言ったって無理ではないのかなと私は思うわけです。
そこで、時間もなにですから、私はあえて私の見解を述べながら、後で
文部大臣の見解を聞きます。
私はいま申し上げたような、あえて言うならば
教育の荒廃そして非行、校内暴力の温床をつくり上げているのは何か、学歴偏重の社会とそれに結びついた過熱した受験競争だ、このことは否定できないと私は思うのですね。これがすべてとは言いませんよ。学校もあれば、私は学校の中の過熱した受験競争ということに焦点を当てて言っているわけですけれども、そのほか、つまり高度経済成長とともに変わってきた社会環境の問題もあるし、核家族の家庭の問題もあるし、いろいろありますよ。ありますが、あえて私はそこに焦点を当てたいわけです。
そこで、この過熱した受験競争が現場にどういうひずみやゆがみを与えているか、私なりに言うならばテスト主義と幼児からの塾通いでしょう。これがたとえば体力の低下や情緒の不安定を招いている大きな要因だと私は思う。それから一方においては偏差値、輪切りの
教育ですよ。テストのドリルですよ。そこから出てくるものは私に言わせれば差別と選別、一方においては管理強化、つまり一定のレールに乗せてとにかく受験競争を走らせるという、その結果不適応な子供が出てくるのはあたりまえだと私は思うのです。いみじくも指導の中で、不適応な子供云々ということが先ほどありましたけれども、これは当然出てくるのです。私から言えばそれが落ちこぼれであり、落ちこぼれの子供は差別感と自信喪失になっているのですよ。当然そういうものは出てくるのです、必然的に。また、現にありますね。そういう落ちこぼれなり差別感、自信喪失にさいなまれた子供、反抗すれば非行、暴力になると私は思う。無気力になれば登校拒否と孤独感にさいなまれることになると私は思う。そういう一つの
状況下にあるのではないか。これは私は思いつきではなくて、たとえば非行暴力生徒の
調査ということで、この前も挙げましたけれども、昨年の十二月二十六日の警視庁
調査、その逮捕、
書類送検された中学生百九十人、これを見ると、家庭環境はいいですね、両親もおりますし、中流以上の家庭です。ところが、そういうふうに
書類送検、逮捕された子供、この百九十人のうち、クラスの十番目以下八三%、そして本人の意識としては
授業がわからない、ついていけない、差別されている、不信感、こういう子供なんです。そういうことを考えますと、そのよって来る原因というものは、われわれは本当に突き詰めていかなければならぬと思うのですよ。ここに焦点を当てなければならぬのではないか。
それでは、時間の
関係がありますから続いていきますと、過熱した受験競争というのはなぜ生まれてきたのか、偶然に生まれたのかどうかということです。つまり、今日のいわゆる学力テスト中心の過熱した受験競争を引き起こしたものは、これは学歴偏重の社会的風潮、もちろんあります。次が重要なんですね。同時に高度経済成長政策の一翼を担ってきた能力開発政策、つまり
教育行政の責任もまたあったのではないかと私は思うのです。ここのところ、これはきょうやきのうでできたものじゃないのですけれども、こういうところまでさかのぼる必要があるのではないか。私はあえて言うならば、いま学歴偏重の社会と言った、これはどこでもあると思うのです。親の気持ちになれば有名
大学に入れて将来有利な方向を歩ませたい、これは親としての人情ですから、これは否定するものでもありません。そういう意味では、親の願いというのは
大学進学ではなくて有名校に殺到するところにある、それが過熱した受験競争の一つでもある。そうすると、有名
大学に入りたいという、そのことのために受験競争が起こる。つまり、入るための受験の競争が起こる。そのためには何をやるかというと、学力テストに強くなる子供です。もっと具体的に言えば、私に言わせれば知育偏重の学力です。知識、知育偏重、あえて言うならば知的能力をドリルする
教育です。もちろん
教育にはよく言われるように徳育も体育も社会性もいろいろありますけれども、やはり中心は、有名校に入るために、この受験戦争、つまり知的能力、知育偏重の学力、もっと具体的に言えば知育や体育は捨てても偏差値を上げる、テストに強い子供、これでもってやってくるわけです。そういう受験体制になっているのです。
ところが、この間、
教育の問題についてNHKの放送がありました。私は非常に興味深く思いましたのは、ハーバード
大学の入学、ケネディ大統領は日本流の偏差値で言えば大変低いのですね、ところがあえて入ったという。それは彼の徳性と個性と社会的な行動、つまり日本でいう特別
教育活動ですね、そういうものが総合的に
判断されて彼は入った。もし日本流の偏差値尊重のやり方だったらケネディ大統領はハーバード
大学に入れなかったであろうということを言っている。しかし彼は入って、ああいうふうになった。しかし一方、日本流で言えば大変知識の豊かな、そういう女の子が、社会性が欠如をしているということで入れなかった。
そういう知識の偏重、知的能力をもって
大学に入れるというこのことは、私はあえて言うならば、国民所得倍増論というのが
昭和三十五年の十二月にできました、この中にこういうことが書いてある。「経済政策の一環として、人的能力の向上を図る必要がある。」と書いてあるのです、国民所得倍増論の中に。本もありますけれども、この本がそうです。その当時の本なんです。この中に書いてあるのです。これ、古い本ですね。そして「人的能力の向上は国民全体の
教育水準を高め」云々とあります。つまり
教育政策の一貫として人的能力の向上を図る、そのために
教育水準を上げる、
教育の役割り、こうなっておるのですね。それからその後の
昭和四十年の中期経済計画の中では、「指導的役割を果すハイタレント養成のための高等
教育の
充実」、ハイタレントという言葉が出てきます。そして、その次に続いて、「ハイタレントの資質を有するものを、重点的に選択し、その養成のために必要な
大学を
充実しなければならない」と言っている。
つまり簡単に言えば、経済成長、経済政策のために、技術の向上、そのための言うなればマンパワー、知的能力の開発、そしてそのために
教育は任務を担う。簡単に言ってそういう流れだと思うのです。つまり言うなればいまの考え方は、すぐれた能力を選択し、すぐれた
大学に入れて養成する、マンパワーポリシーです。そしてその卒業した者は指導的役割りを果たして経済の
発展に寄与する。ずっとこの流れですよ。そして経済の
発展に寄与する、こういうことですね。とすると、すぐれた能力の選択というこのことはどういうことかと言えば、つまりこういう人がすぐれた
大学に入れるわけですから、そうするとすぐれた能力の選択というのはいま申し上げたように知的能力、学力テスト、偏差値の高い者、これが入れるということになりますから、もっぱら学校
教育はここに焦点を当てた形でやってくるわけです。そして、よい
大学に入って、指導的役割り、経済
発展に尽くす、そういう分野に
教育の役割り、任務が位置づけられているのです、この中でちゃんと。
ですから私は、今日の学校の受験競争、つまり偏差値
教育といいましょうか、そういうものは偶然に出てきたものではなくて、やはり高度経済成長、そして経済政策と
教育の任務という結びつきの中から、そういう知的能力を引き出し、育て、
大学に入れて経済
発展に役立たせる、こういう側面と切り離すことはできないと私は思うのです。ですから、そういう点から言うならば、時間になったからやめますけれども、非行、校内暴力に対する対策は、
教育の荒廃に対する対策であると同時にそれは過度の受験競争、それから学歴社会の風潮を改めさせること、同時に
教育を本来のものに改めるというこのことと深くかかわらなければ、私は今日の非常に根深い非行や校内暴力を将来にねたつて本当になくしていく営みということはできないのじゃないかと思うわけです。あえて言うならば、
教育の基本の見直し、それは人格の完成であり、平和な国家、社会の形成者というこのことに基本を置いてもう一度、
教育は手段ではなくて本来目的だ、あえて言うならばそういう観点に立ったことを考えなければならないのではないか。
それから第二番目は、学校
教育の改革、
教育内容をゆとりのある全人
教育という形からもう一度つくり直さなければならない、それから、指導を実際行う教師集団としては、管理型ではなくて自治型の指導体制を確立していく、そういうものが私は必要だと思う。私もこの間、中学校を見ましたけれども、大変がんばっております。しかし、どちらかといえば管理型で校長が張り切っているからとにかく学校全体がエンジンが回っている。しかしそれが息切れしますと、かつての千葉県の流山中学校の校長の自殺というようなことになりかねないと思う。こういうことでは私は続かないと思うのです。その辺をやはり抜本的に考えなければならないのではないか。
それから第三番目は、私は何といっても
教育諸条件の整備だと思う。それは行き届いた
教育、個別指導というふうに言われておりますが、そのためには過
大学校の解消、よく言われておりますね、教
職員定数の
充実、四十人学級の実現、それから最後にこのことについて言えば生徒のクラブ活動の助長強化。このクラブ活動は非常に大きな意味を持っていると思うのです。特にその中で、先ほど第一番目に言わないでしまいましたけれども、
教育の基本の見直しの中では
文部省の入試の
改善がいま行われていますが、入試制度の
改善というものも本来の
教育のあるべき姿に関連して
改善すべきだと私は思うのです。
なお、その点についてちょっと加えておきますが、
文部省で入試の
改善会議が行われておりましていろいろ検討されているようですが、もう六月ごろには要領が出されるそうですね、要綱が。そういう点から言うと、申し込みの時期がちょっと早過ぎるのじゃないかという声があります。その点をおくらせる考えはないのか、テストの時期も若干おくらせる気持ちはないのか。これはきわめて具体的なことですが、ちょっとつけ加えておきます。後で
答弁願います。
そういうことで、ちょっと時間がなくなってきたものですから、私の見解をずっと連続的に述べました。これは私は個別的に輪切りしたり切り刻んでこのことが解決できないと思っているから全体に私の考えを述べましたが、時間も迫っておりますから、
文部大臣の総括的な見解としての
答弁をいただきたいと思います。