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山崎(拓)
委員 いまの御
答弁も、とうてい私
どもからいたしますと納得できない。非常に
論理に無理があるのではないかと私は思いますね。(発言する者あり)
辞職勧告決議案は、要するにそういう犯罪が行われたという事実を
前提にしていないということをいま言われましたね。それは
裁判が進行しているから、
被告人の
立場はいまは無罪と推定されるのだということをお認めになった。それであるなら、現在では無罪と推定される
立場にあるそういう
被告人たる
田中議員に対しまして
辞職勧告決議案を出された。
政治的道義的責任だということでお出しになった。では、その
政治的道義的責任の根拠は一体何なのですか。
本人は無罪と推定される
立場に現在はある。その者に対して、
政治的道義的責任を問うのは何だということになる。そういうことがまず第一点。
その次に、これと相当違ったことをおっしゃったのでございますが、しかし、自分はそう思うけれ
ども、
国民はみんな有罪だと思っている、そういうふうにおっしゃった。
国民は思っている、これは一体
法治国家においてどういうことなのか、司法の存在について一体どうお
考えになっているのか。
国民が
考えたら、それは相当イモーショナルなものもございましょう。そういうものについて人民
裁判的に有罪だ無罪だと決めていくのか、こういうことになりかねないのですね。
これは司法の手にゆだねたものでありますから、司法の
結論を待たなければならぬ。それはもう、大変失礼ながら
広瀬先生よく御
承知のとおりでございまして、たまたまそうおっしゃったから私は御
指摘申し上げているのだけれ
ども、
国民がそう
考えているから、自分はそう
考えないのだけれ
ども決議案を出したのだ、
政治的道義的責任というのは、
国民がそう
考えているからあるのだ、そういうふうな
論理になる。(発言する者あり)だから、その辺が大変おかしい。
特に、
国民が
考えているからということについて、私はこの際申し上げておきたいのですが、宮澤俊義博士が「
日本國
憲法」という著書の中で次のように書いておられます。
民主主義
憲法体制においては、すべての国家機関は、直接または間接に
国民のコントロールの下にあるを原則とする。しかし、国家機関の職務の性質によ
つては、
国民によるコントロールがある程度以上に直接に行われることが実際においてのぞましからぬ結果をもつこともある。そういう場合には、その職務に関するかぎり、
国民による直接のコントロールを多かれ少なかれ排除することが要請される。
裁判は、その重要な例である。
裁判については、
国民の直接のコントロールがおよぶことは、過去の経験から見て、公正な結果をもたないおそれが多い。いわゆる「人民
裁判」を
考えれば、そのことは明らかである。そこで、
裁判については、他の国家機関によるコントロールのみならず、
国民による直接のコントロールをも排除することが要請される。
こういうふうに述べておられる。
つまり、ただいま先生が言われた
国民による
判断だということがいかに大きな疑問点を持っているかということを、この宮澤博士の論文は示しております。また「他の国家機関によるコントロール」ということも言っておる。ですから、もう一つの
問題点がここに出てくるのですが、つまり、
国会が
裁判の進行中に一つの
判断を示すことは好ましくないという一つの立論がここにあるわけですね。そういうこと等を
考えますと、この
辞職勧告決議案というのは
法律的に、
憲法的に大変無理があるというふうに私は
考えるのです。
われわれは、
政治倫理の問題についていささかも否定するものではない。
国会の
自浄作用についてもいささかも否定するものではない。しかし、これは
国会決議という方法をとらなければならないのか。そういう
手段をとったときに、憲政史上にもっと大きな汚点を残すのではないかということを私
どもは憂えるためにこういうふうに申し上げておるのです。
政治倫理の問題について、われわれ
自民党は
各党に決してまさるとも劣らない危機感を持っておるので、
自浄作用ということについても
考えておるが、その方法、
手段について、こういう
憲法上、
法律上の問題の大きい
手段をとらなければならないのかということを御
指摘申し上げておるので、その点についての御
答弁をいただきたいと思います。