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鈴木参考人 御指名いただきました
鈴木武夫です。
私は、
研究者として、
大気汚染を通じて環境問題を勉強している者でございます。すでに御
意見をお述べになりましたお三方とは違いまして、
公害健康被害補償法の運営に直接
関係したことはございません。しかし、この
制度ができましたときに、
関係委員会に参加する
機会がありましたので、
補償制度には当時も、また現在も関心を持っている者でございます。
補償法は
大気汚染による健康
被害補償のみを扱っているわけではございませんけれ
ども、きょうは、
大気汚染を勉強している者として、
大気汚染による健康
被害の
立場から
意見を述べさせていただくことをお許しください。また、前に述べましたような
事情もございますので、
一般論になることもお許し
願いたいと思います。
この
法律ができました
事情の経過は、
吉田先生がすでにお述べになりましたとおりでございますが、重複を顧みずもう一回申してみますと、
四日市市条例による
補償制度ができましたのが
昭和四十年、国による旧
救済特別
措置法が
昭和四十四年、現在の
公害健康被害補償法が
昭和四十八年でございます。この時期は、二酸化硫黄が
大気汚染物質のうちで日本ではもちろんのこと、どこの諸外国におきましても注目しておった時期に相当いたします。もっとわかりやすい言葉を使えば、当時はまだばい煙という言葉が残っておった時代でございます。
私は、きょうここに出てまいります前に、
昭和四十八年四月の
中央公害対策審議会の
報告、四十九年八月の
中央公害対策審議会の
報告、そして、
昭和四十八年九月十三日以降、
国会におかれましてお出しになりました
附帯決議延べ十一編をもう一回読んでまいりました。そして、この
国会の
附帯決議がもし守られていたら、私は何もきょうここに来て申し上げることは何にもありません。
国会の
附帯決議で触れておられることがなかなかできなかった理由、これはあると思います。いろいろ複雑な理由がありましょうけれ
ども、私なりに簡単に申してしまうと
二つあると思います。
一つは、現在までの
大気汚染及び
大気汚染の影響の
研究が、
一般の方々が直感的に感じておられることに対してすら、明快にその是非を説明するほどまでに発展していないということです。これは私
たちの
責任でございます。
もう
一つの理由は、
地域社会における二酸化硫黄濃度の劇的な減少、また煙やすすや灰というような大きな粒子の消滅が最近十年間に起きました。これが人々をして目に見える、視覚的、すなわち肉眼で見ることのできる
大気汚染がなくなったと思わせ、そのことが
大気汚染が完全に
改善されたという錯覚を与えたのではないであろうかと思われてなりません。この肉眼で見える
大気汚染の
改善は、すなわち
大気汚染全体の
改善としてはならないと私は思うんです。このことが
大気汚染の関心を、要するに肉眼で見える
大気汚染の
改善されたことが、
大気汚染への関心を低めるのに誘導されていく場合に、無意識的に、場合によっては意識的に行われた節が私には感ぜられます。それは
一つは、人間のなれであり、飽きっぽさであるという
一つのあらわれかもしれません。その他の複雑な理由がありましょうけれ
ども、私の専門外になるおそれがありますから、この辺だけで述べさせていただきます。
時間の都合もございますので、私は
二つのことに集中してお話し申し上げたいと思います。
一つは、いまでもできるではないかということが
一つ。あと何年か遠い将来、といってもそう遠くない将来に
補償法が対応せざるを得ないことがあることを念頭に置かれて検討をおやりになるならばおやりになってくださいということでございます。
その
一つは、
大気汚染は、すなわち二酸化硫黄
汚染と言っていいかどうか。または、
大気汚染で二酸化硫黄だけに注目していいかどうかの問題をもう一回
考え直す必要があろうかと思います。
四日市市の
補償制度から国の現在の
補償法制定に至るまで、
昭和四十年から
昭和四十八年の間は、すでに申し述べましたように、日本はもちろんのこと、世界的にも二酸化硫黄による
大気汚染に
研究、
対策、行政が集中した時代であったと思います。
大気汚染対策の順位の第一位に二酸化硫黄
対策が選ばれておったと言ってもよいでしょう。このように注目されることによりまして
対策が進められ、
わが国の国設の
大気汚染測定局の測定値は、ただいま
柴崎さんからお話のありましたように、この十年間に五分の一に低下いたしました。これは国設測定局でございますから、もちろん場所が違いますとこの値の絶対値の相違はありますけれ
ども、減少の傾向は同じでございます。この辺につきましては、私は胸を張って日本が自慢していい結果であろうと思います。
一方、自動車排気ガスに原因の求められます一酸化炭素ガス
汚染は、
昭和四十三年の四・九ppmから
昭和五十五年の一・〇ppmまでやはり五分の一に減少しました。そして
昭和五十五年に至りますと、一酸化炭素ガス濃度は、沿道とその後背地とほとんど変わらない濃度になりました。これも自動車排気ガスの中の一酸化炭素規制の大成功の例でございます。
以上、
二つの
汚染物についての
改善は、
地域における
汚染濃度に関しては著しいものであったことは、繰り返し申し上げてもいいと思います。
しかし、
窒素酸化物はどうであったか。
窒素酸化物は同じく国設測定局の測定に関する限り、
二酸化窒素について
昭和四十三年、年平均に直して〇・〇二、
昭和五十五年、年平均に直して〇・〇二、四捨五入すれば〇・〇三というわけで横ばいでございます。見る人によってはわずかずつふえているんではないかと言う人もあろうかと思います。
窒素酸化物の発生源は
幾つもあるわけでございますけれ
ども、主なる発生源が
二つあると思います。
一つは工場の固定発生源であり、もう
一つは自動車の排気ガスによるものでございましょう。最近というか最近十年間の測定を見ましても、道路沿道での
二酸化窒素の
汚染は、やはり
一般地域社会よりも高濃度でございます。これは自動車の増加に伴いまして、沿道
住民を騒音、振動と
一緒になって悩ませている
汚染物質であることは、もう私が申し上げるまでもないと思います。主なる道路をお歩きになればすぐわかるはずでございます。
健康に及ぼすガスの影響の中で、特に注目しなければなりませんのは、非常に微細な、顕微鏡でわかる
程度の大きさの粒子状物質でございます。それが
昭和四十四年から五十五年までほとんど同じ、変化することなく推移しております。
昭和五十年前後に社会問題化いたしました光化学オキシダントは、最近
被害届け出
人口数は減少しております。及び異常に高濃度の光化学
大気汚染の発生回数は減少しております。これは気象条件の地球的規模の変動との関連で
考えなければなりませんので、この最近二、三年の
状況をもって光化学オキシダントは
解決したと言い切ることは私はできないと思います。
いまでもちょっと御注意いただければ、目で見える光化学反応の発生している状態は東京の空に見えるわけでございます、温度がちょっと高くなりますれば。ただ、皆さんがなれてしまいましたから、光化学反応、オキシダントが起きているなということについて、数年前ほど関心をお持ちにならなかったにすぎないと思います。四月終わりから五月以降、先生方がちょっと東京の空をこの
国会から眺めてくださいまし、色が変わった空が見えることがありますから。そして一方、植物
被害の
報告はいまでも出ております。すなわち光化学オキシダントはやはり何らかの影響を人間及び生体に対して与えていると思われます。
この短い御説明をしただけでございますけれ
ども、これだけでも、二酸化硫黄だけで
大気汚染を代表することは不適当であるとお思いになっていただけないでしょうか。
繰り返しになりますが、
昭和四十年前後の期間、行政の
立場で二酸化硫黄に注目したことは、当時としてはある
程度やむを得ないと理解できます。
補償法の
制度を触発いたしましたのは
四日市市の
被害救済であり、その
被害が二酸化硫黄との
関係で十分説明できましたこともありましたので、当時の
補償法で
大気汚染の代表として二酸化硫黄を取り上げたことは納得はできませんけれ
ども、理解はできます。このことは
一種の緊急の行為ではなかったかと私は思います。
人間は二酸化硫黄の
大気汚染だけに暴露しているのではございません。そして、健康
被害がもしあるとするならば、二酸化硫黄だけではございません。性質の違った
汚染物の混合したものに暴露していることによって影響を受けているはずでございます。
以上、
改善されましたのは
大気汚染物質中二酸化硫黄と一酸化炭素でございます。繰り返して申します。これは胸を張って自慢をしていいものでございます。
二つのものは
改善いたしました。しかし
大気汚染全体を
考えますと、決して
改善したんだと言い得るかどうか、判断をする必要もないほど明らかなことではないでしょうか。
環境庁の試算によりますと、
わが国の二酸化硫黄の
排出量の減少の理由を大きい順から並べてみますと、
昭和五十年と
昭和五十五年との比較ですけれ
ども、第一、省エネルギー効果、第二、除去率の増加、第三、燃料転換、そして第四が産業構造の変化でございます。行政が直接
関係する
対策である燃料転換と除去率の増加を合わせたよりも、産業内の努力の方である省エネルギー効果と産業構造の変化と合わしたものの方が効果が大きかったわけです、
SO2の除去率につきましては。
私は、この産業活動に対してやはり注目をする必要があると思います。現在までのところは、産業、
企業の方々が努力をされた、
企業自助によって努力をされたのでございましょうが、これから起きる燃料の種類やその利用方法の
状況の変化、経済の構造変化、そして産業努力の変化等々によりまして、二酸化硫黄の排出は努力次第によってどうにでもなるということを私
たちは注目しておかなければならないものでございます。どうにでもなるということは、同時に窒素の酸化物、
浮遊粒子状物質の排出も同様に変化するであろうということを思います。たとえば省エネルギーへの努力が少しでも緩められますならば、
排出量は急速に増加いたします。また、LNGが大量に使われる大火力発電所ができましたら、これは世間の人が、発電所ができたのだから、これは
補償法による
費用を払ってくれるだろうとお思いになりましても、ゼロのはずでございます。一方、窒素の酸化物はそれなりに出てまいります。もし産業が活性化いたしましたとき、
対策に少しでも緩みができましたならば、
昭和四十年代初期の絶対量に近い各種
汚染物が、総量として排出されることは予想できるところでございます。
補償法についていろいろなことをお
考えになるのならば、将来の問題として、
汚染物の将来変化に対して、ある
程度の注意深い観察または予測をしていただきたいと思います。
それから、次に申し上げたいことは、
大気汚染の影響についてでございます。
いまの
補償法で取り上げております
疾病は、二酸化硫黄
汚染で説明できることは、
吉田先生がすでに御説明になりました。しかし、繰り返して申しましたように、
大気汚染の影響はこれだけではないのです。
国会ですでに何回となく
附帯決議の中に指摘されておりますことを、やはり常に再留意していただきたい。その実行可能性云々ということは、また別の場で論ぜられるところでございましょうが、きょうはその指摘だけをさせていただきたいと思います。ことに
窒素酸化物と
浮遊粒子状物質と
疾病との
関係説、
病気との
関係説、きょうは
国会の決議の中に触れていないことに触れることにいたします。それは
一つは遅発性影響をどう
考えるかでございます。
遅発性影響と申しますのは、
大気汚染に暴露されてから
発病されるまでの時間のずれのことを申します。現在
指定されております
病気であっても、
汚染が出て数年で出る
病気もあるでしょう。
汚染に暴露されてから十年ないし二十年たって
発病される
病気もあるでしょう、きょう
指定された
病気でさえ。しかし、そのことをいまの科学は明らかにし得ていないのです。伝染病の潜伏期と同じような
程度において、潜伏期を正しく見ているわけにはいかない。ということは、
空気がたとえきれいになったとしても、なったことがすぐ直ちに効果を示すということは、残念ながらこの
補償法に示されております
病気のような
病気におきましては、いま学問的に説明をすることはできないと思います。もちろんそれにつきましては、
中公審の部会
報告の中でも、暴露期間についてのみ割り切りをされておりまして、暴露から
発病までの時間については余り触れていない理由がそこにあります。
次には、これはある
程度失礼とは思いますけれ
ども、この
機会を利用させていただきまして申し上げることをお許しください。
私は、
補償法のことについて論ずるこの会では、
補償法において取り扱うものは、明らかに日本において実証された結果のみについて補償を行うものであるということはよくわかります。しかし、最近
補償法の検討を、
SO2の減少とともにあわせて検討せよという声が各方面から出てきておることも
承知しております。しかし、この
法律は、
大村さんがおっしゃったように、
患者さんにとっての最後の救いでございます。この
法律がある以上、検討するのならば、
補償法の強化のための検討であってほしいと思います。そして、強化のための内容の充実を図る検討であってほしいと思います。その内容の充実の
一つに、不可逆的に破滅的な
疾病の多数出現の前に、あらかじめ予見的に
疾病を考察しておくことも必要ではないか。
これから申し上げますことは、絶対にあってはならないことを申します。しかしながら、もし出たときにどう
考えているかということでございます。それをたった一言で申し上げます。それはがんのことでございます。
がんの
研究が最近急速に進歩したことによって、環境性物質にがんという
病気の原因が求められるということは少なくとも証明されるようになってまいりました。個人において、がんになってしまってから証明することは、ただいま
補償法に載っております
疾病と同じように、恐らく非特異的
疾患の範疇時に入るでしょう。これは、職業病においてのみ特異的
疾患として取り扱われるでございましょう。だけれ
ども、今日論ぜられている
補償法の中におきましては、恐らく非特異的でございます。そして、そのようなものの中で、いま私
たちが
大気汚染として
考えておるものの中で、がんとの
関係について考慮しておかなければならないものは、学問としてはすでにわかっております。芳香族炭化水素、微量重金属、アスベスト等々、発がんと
関係のある物質につきましての
研究が進められております。場合によりましては、一部の物質につきましては、
地域住民集団について、この中の物質とがんとの
関係があるということが認められていることが、日本には
報告がございませんけれ
ども、外国にはあるものもあります。
がんを
補償法の上でどう考慮するかは、きょうあしたの問題を私は言っておるのではございません。
補償法というものを
考えるときに、最も悪い例をとることによって、
補償法の内容の充実を図るということでございます。
またもう
一つ申し上げてみますと、かつて外国でエピソードとして問題になりましたロンドンスモッグ等において、それから日本におきましても、
昭和四十年以前において見られました、急激に
空気が悪くなってくるいわゆるスモッグという表現であらわされる状態が起こったときの過剰
死亡者、老人その他の
人たちが死亡した例は証明されているわけです。この過剰
死亡者に対してこの
補償法は何ら言及しておりません。これはどうお
考えになるつもりでいらっしゃるでしょうかということでございます。
少し発言が長くなりましたから、結論的にまとめてみます。
大気汚染と二酸化硫黄だけで説明する時期は、
補償法としてもすでに古過ぎないでしょうか。
中公審の
報告書も言っておりますし、
国会の
附帯決議もありますから、
窒素酸化物等のあるいは
浮遊粒子状物質等の考慮は、
地域指定の見直しの際にぜひ考慮の中に入れていただきたい。もちろんそれが科学的資料に基づくことは、
吉田先生のおっしゃったとおりでございます。直感でおやりになることはもうやめていただきたい。科学的資料に基づきまして、十分な検討を加えることによって、この問題を処理していただきたい。
二番目、
国会の
附帯決議におきましてしばしば申されておりますように、これだけ自動車の普及があるということは、都市複合
汚染に対処するためにも、
補償法との
関係で窒素の酸化物についての健康
被害、ことに
病気についての究明が必要であると思われます。
大気汚染の問題が工場地帯の問題から都市の問題へと発展してきた大きな動機は、自動車の増加にあると思います。その
状況は、自動車交通公害防止法といったものをつくることさえ必要になってきた時代ではないであろうかと私には思われてなりません。それを
補償法との
関係で言えば、
窒素酸化物、芳香族炭化水素、重金属等々の
汚染とその人体への影響のほか、
国会決議にありますように、騒音、振動の影響を
補償法の上でどう
考えるかということに通ずると思います。
光化学オキシダント、酸性雨というものによりますところの財産
被害あるいは生業
被害というものに対して
補償法はどのような発展をされていくのかということを私は見守りたいと思います。
大気汚染にありましては、二酸化硫黄以外の
汚染物による潜在性のある
被害者がまだあるような気持ちがしてなりません。また、暴露から発がんまでの潜伏期間の長い
病気があるような気がいたします。その辺についての検討は、一番
最初に申し上げましたとおり、あしたの問題ではありませんけれ
ども、これに対処するぐらいの気持ちで、もし御検討願えるのならば、
補償法の御検討をしてください。ですから、繰り返しになりますけれ
ども、以上申し上げましたことは技術的に非常に困難であり、
補償法の場でそんなことを言うより、まずおまえが
研究をしっかりやってから来いというおしかりを受けることは覚悟の上であえて申し上げたつもりでございます。それは、
補償法が果たしております予防的側面に私は大きな期待を持っているからでございます。
以上、繰り返し繰り返し申し上げましたように、本日直ちに云々ということと、将来の長期にわたる展望の中の今日の検討というものをやはりやっていただかないと、こういう問題につきましての早急な
解決、早急な
対策変更ができるような環境問題ではありません。
対策も
研究も長期を目標にして、そして近いところを取り扱うというのが環境問題の本質ではないかと私は思います。
おしかりを受けることを覚悟で、最後に一言申し上げさせていただきます。先生方の前で申し上げるのは大変失礼ですけれ
ども、こういう環境
汚染は
救済よりも防止が一番大切なことなのです。もしも、そのことを十分自覚しないで
補償法のみを取り扱っておりましたならば、これは免罪符になりかねません。この
補償法を絶対に免罪符にしていただきたくないというのが私の気持ちでございます。
どうも失礼しました。ありがとうございました。(
拍手)