○円山雅也君 いま私は、事実認定の問題と量刑の問題をあえて取り上げましたのは、私の少なくとも修習生時代を振り返りますと、あの二年間、いわゆるドイツ観念論の法解釈学の、重箱の隅をつつくような物すごい細かい
法律論の勉強をさせられました。だけれ
ども、そういう細かい
法律論のあれは学術論文を書くにはいいのでございますけれ
ども、実際の裁判にぶつかった場合には、
先ほどから
大西さんも言われているとおり、ほとんど
裁判官として頭を使うことは事実の認定と、
刑事裁判へ行けば量刑の問題ということで、だから研修所に対しての、いまはもちろん変わっているかもしれませんが、あの当時、いわゆる大学で足りない
法律学をもう一回ここで仕込むんだというようなお考え方が非常に強いのではないか。つまり、それに偏り過ぎているのではないか。
だから、いわゆる
裁判官の幅というか、真実を見抜く、つまりAの証人とBの証人とどっちがうそを言っているのだというような、どっちが本当なんだろうかとか、それから、たとえば情状でもって法廷でさめざめと泣くと、ころっとだまされちゃって、それでもって執行猶予をつけたら、後で出てから被告人がお互いにおしりをつつき合って笑っていたなんというケースも出てくる。だから、むしろそっちの方がかなり今後の教育に
ウエートを占めて考えていただく。方法は私もわかりません。さようにむずかしい問題でわかりませんが、
裁判所の
裁判官に対する教育の方法として、ぜひひとつそっちの面も重視をしていただきたいという意味で、あえて事実認定と量刑の問題を例に挙げて御
質問申し上げた次第でございます。
そこで、その結果、確かに私の
裁判官の三年半ぐらいの経験でございましたけれ
ども、そのころを振り返りまして、つまり判例をうっかり忘れて判決したために上でもって判例違反でひっくり返ったとか、または
法律の理論構成を間違えたために上でひっくり返ったとか、これはもう
裁判官としては致命的な間違いだというので、それについては恐れおののいて、もう間違いないような判決を書こうとする。ところが事実認定で、たとえば上へ行ってその事実がひっくり返ったとすると、いやあれは二審で新しい証拠が出たんだから、一審の
段階での証拠だったら別にどうってことないんだ、二審の新しい証拠でひっくり返っただけなんだというので余り感じない。または、一審で懲役三年とやったのが二審で執行猶予がついても、つまり量刑が明らかに違ったといっても、いや量刑の問題は各自考え方があるんだからというので、余り
裁判官は感じない。
それよりも、もっとこんなちっちゃい
法律論、ちょこっとした理屈を間違えたことが、そこを指摘されると、もうまことに頭の悪い
裁判官の最たるものみたいなレッテルを張られたようでもって恐縮する、どうもそういう発想。ところが、
先ほどからここで論議しているように、一番大切なのは事実の認定なんだし量刑なんだが、その大切のところで敗れても大して気にしなくて、その上に乗っかるところの上層の二階、三階の方で敗れるとえらいこと気にするというのが、何か
裁判官全体の雰囲気みたいなふうにその当時受け取られました。
そういうふうに育てたのは、結局はあの僕らの時代の
司法研修所の重箱の隅をつつくような、そっちばかりがもう
裁判官の
——そのころ
裁判官になるかならないかは、
司法研修所の成績で左右されましたからね。しかも、その
司法研修所の成績というのは、いわゆる重箱の隅をつつくような学問の優劣で決まったものです。しかも教官の採点でも、量刑の差とか、事実認定の多少のあれはまあそれぞれの考え方だと、
法律論ででもあったらこてんぱんにやられちゃう。どうもそういう教育に偏重してはいないか。だから、いまでもそうあっては困るんだなあというふうに思いまして、この際こういう研修費がよけいについたときでございますから、ぜひともその点を御考慮をいただいて、その面にもひとつ御配慮をいただきたい、こうお願いをする次第でございます。その辺について、一言
事務総長から伺いたい。