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山田耕三郎君 私は、この発言に先駆けまして、「中国残留孤児のルーツ「大敗走」
昭和二十年夏・満州」、ジャーナリストの佐瀬稔さんの書かれましたものを読みまして、当時を回想いたしまして、眠れない一夜を過ごしたその翌朝の朝刊でこの記事を拝見いたしましただけに、印象はきわめて鮮烈なものを持っております。
これは日清、日露の両戦役を経て、他国の領土であります満州において、日本が権益を拡大をし、事実上の領土化への明治政府以来の大方針の延長線の上で、いわゆる酷寒の辺境に送り込まれました満州開拓団、満州開拓団青少年義勇隊、これらの皆さんやその
家族が、軍が存在をするのにもかかわりませず、その軍隊に守られることもなく、何の戦力も持たないままで国境線になだれ込んできたソ連軍や土着民の急襲に逃げ惑い、女性は彼らのなすがままにじゅうりんをされ、あげくの果てはある母は乳幼児を捨て、さらにある親はわずかな食糧との交換に幼子を売り、ざんきの思いで大陸を彷徨し、自責の念に耐えかねた人は発狂をし、あるいはみずからが命を断っていく道を選ぶ等、この世の生き地獄が大変達者な筆で表現をされておりました。
このような中で残留孤児が生まれたそのルーツを明らかにしておいでになるのでありますけれ
ども、先般の肉親捜しに帰ってこられましたときの孤児の皆さんの真剣な訴え、思い合わせて、われわれとしては簡単に見過ごすことはできません。たとえば一人の人は、日本が栄えたから帰ってきたのではありません。故郷を離れた者はすべて故郷を思うものであります。決して迷惑をかけませんから名のり出てくださいということを真剣に訴えておられました。為政者たる者、その責任はまことに大きいと思います。
私も、
昭和十六年から三カ年間、関東軍に身を置き辺境の守りについておりました
関係で、その情景は手にとるようにわかります。あのような強大な軍隊があって、なぜ敗走する非戦闘員の婦女子の皆さんを守れなかったのだろうか、いまもってこの
行為は理解をすることができないのでございます。しかし、結局は、国家も軍隊もこの
人たちを守り得なかったということだけは事実です。
だからこそ、こういうことを知っておる国民の皆さんは、政府の言うままになっておってはいけないという人もあってもよろしいと思います。いろいろの意見が出てくるのもまた当然だと思います。それらを甘えるというような簡単なもので解決することはやっぱり慎まなければならないと私は思うのでございます。
〔
委員長退席、理事安恒良一君着席〕
このような経過を経て、そのときに日本に帰ってきた
人たちも、また帰ってこられないままに自己の
意思に反した人生を歩くことを余儀なくされた三十七年間の間に機会を得て帰ってきた
人たちも、みんな過去を持っておいでになるのであります。ある婦人は申されました。私は新聞も読みません。テレビも見ません。過去を思い出すというようななまやさしいものではありません。私にはいまもってその傷口から赤い血がどくどくと流れ出ておるような気がいたします。そして、すべての
人たちは世の中をはばかりながら人目を避けてひっそりと暮らしておいでになる
方々もたくさんおいでになります。
われわれがかつて老人に対する福祉
医療を政治の場面に実現をしていったときには、こういう
方々に対する償いの気持ちもそこには確かにありましたと思います。そしてこれらが全国のそれぞれの地区で実施に移されましたときには、すべての為政者は、すべての責任者は、明治、大正の困難な時代を生きてこられました皆さん方に対するせめてもの贈り物でありますこの
制度のもとで、余生を安楽に送っていただくことができたらというあいさつが、通常の姿になっておったことをいま思い起こしておるのでございますけれ
ども、迎えました国家の財政の状態が今日のようでありますから、財政的な配慮から一部食掛金を課するということで無料化の
制度が終息をしようといたしておりますのでございますが、このようなささやかな贈り物がいま厚生
大臣の時期に失われていくということを私は忍び得ないのでございますし、これには賛成をいたしかねるのでございますけれ
ども、こういった
人たちが含まれておるその老人福祉
医療制度について一部負担を課していくということはやっぱりやらなければ仕方がないと
大臣はお
考えになりますか、その辺を
お尋ねをいたします。