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栗林卓司君 常識だとおっしゃるので一言だけ申し上げておきますと、私は
通説に立って物を言っているのです。それは尊重していただきたい。四十四条がそうだという
通説はありません。ただ最近の傾向としてそういう説が私はふえてきたような気がする。
なぜそうなるのか。これは、
一つだけ申し上げますと、小林孝輔という教授の基本的人権論なんですが、いま私が口が酸っぱくなるほど言っている
立場で基本的人権をおっしゃっている人で、とつちの方が普通だというのは、宮澤さんの御説もそうです。このコンメンタールの書き方もそう。ところが、このコンメンタールで、四十四条で制限できると書いてある。その
意味ではコンメンタール自体がある問題を持っている。したがって、御説の
主張があることも私はわかる。
ただ、この小林教授の
意見、これはおかしいと思ったらおっしゃっていただきたいのだけれ
ども、素直に
日本国憲法の精神を受け継いで、あるいはそれに乗りながら基本的人権をつかまえておいでになるなと私は思うのだけれ
ども、まず言っているのは、
憲法の
保障する基本的人権、こう十一条にありますけれ
ども、これについて「
憲法の規定をまってはじめて生ずるという権利ではない。したがって右の
憲法の
保障の真義は、人間には法をもってしても奪うことのできない基本的権利が存するという観念を現行
憲法は認める、というにある。」。これは、
憲法が
保障する十一条の基本的人権、
憲法が
保障するというのは、見ようによっては
法律の留保に見える。そう読んでしまうことは、前文も含めて
憲法の精神とは違いますよということをおっしゃっているのです。
それで、途中抜き書きしますと、
かくて、現行
憲法によって、初めて、
わが国は、先進近代諸国にならって基本権の絶対
保障を持った。ここには、明治
憲法のようないわゆる「
法律の留保」はない。
法律による基本権の制限は許されない。また、基本権を「侵すことのできない永久の権利」として
保障した十一条、九十七条は、現行
憲法の基本性格を規定する条項であって将来の
憲法改正によって改廃することもできないと
考えられる。
私がいま申し上げているのは、こうおっしゃっている
学者がいますということです。
日弁連だけじゃなくて、こういう
御所論も含めてわれわれの
国会審議の対象にしなければ慎重に配慮したことにはなりませんぞという
意味です。
そこで、実はいま私が一番言いたかった
部分なんだけれど、この小林教授が引用されているのは、ハンブルクの州裁判所長官のW・レールという人の発言なんだけれど、こう言っているのです。
英米では基本権は
憲法以前のもの、大陸では
憲法以後のものである。基本権が英米流に生得のものであれば、それは
憲法とともに
現実化されるが、大陸では
法律にない権利は認められない。これが司法にも影響し、もし大陸で基本権に限界を認めようとするならばそれを示す
法律が必要であり、英米式に理性または時代の
社会的
要求が導く何らかの限界というわけにほいかない。大陸法的思考になじんだ
日本の
法律家が、漠然とした公共の福祉概念と基本権の制限に、困却するのも道理である。
私はこの混乱があると思う。で、
佐藤教授はどちらかというと大陸型の発想をしながらこの問題を説いておられる。
それで、いま
金丸先生がるるおっしゃった四十四条を抜き出したような法実証学的な解釈というのも
一つの見方です。ただ、そうやってドイツ流で読んでいくのが正しい
日本国憲法の読み方なんだろうか。
そこで前文に戻るんです。「その権威は
国民に由来し、その権力は
国民の代表者がこれを行使し、その福利は
国民がこれを享受する。」だれが見てもわかるようにこれはリンカーンのゲチスバーグ・アドレスです。「ガバメント・オブ・ザ・ピープル バイ・ザ・ピープル フォア・ザ・ピープル」、これを前文にしょっている
憲法を
考えていく場合、しかも
憲法の基本的人権というのはポツダム宣言によって初めて
日本にもたらされた実情、それ以上に現在の
日本人の法意識の中で
選挙権は間違いなく基本的人権として定着している事実、これを無視して、四十四条だけ抜き出して、これは
法律の留保なんです、参政権は基本的人権かもしらぬけれ
ども、具体的にどういう
選挙権を与えるかは
国会の裁量事項であります、そう
憲法に書いてあるではありませんかと言うのは私は読み違いだと言っているのです。そう思いませんか。