○
戸叶武君 もう少し過ぎてからの方がヤルタ
協定を問題とするのにはタイミングがいいと思いますが、それは、飢えたるポーランドを救えという声は必然的に、
アメリカがどんなことを決めようがヨーロッパじゅうの世論となり、フィンランドからノルウェー、スカンジナビア半島からバルト三国にまで及び、私は東欧にも、ソ連に対してもっとココムの強化よりも緩め、もっと自由な
立場をしなければ窒息してしまうという要求の中に、飢えたるポーランドを救えという人道主義的なスローガンのもとに、食糧暴動が恐らくはこの十一月か十二月かに起こる危険性がある、それを防ぐために私はヨーロッパじゅうの、大きな
世界の声となると思います。それは、ポーランドも知っているしソ連も知っている。ソ連のかいらいとまで言われる軍事政権においても、最終的なものにいくと、結局はポーランドは死にもの狂いで、ヤルタ体制を解消しろと。
われわれはヨーロッパの中国に民族が国家をかつてからつくっていながらも、置かれている
地位のおくれから、ドイツのナチにおいては虐殺され、戦争のどさくさに、帝政ロシアだけではなくて、ソ連からは強制労働によって奴隷のごとく使役されて、民族は分断されてしまっている。民族自身の統一ということがポーランドの生きる道である。ポーランドの労働者も農民も、これなくしてはやはりポーランドの生活の独立ができない。あのナポレオンに敗れたときにフィヒテがベルリン大学で言ったように、あれだけ
フランス革命の前夜において進歩的な見解も持ったが、あの敗れた後における虚脱状態のベルリン大学において、学問の独立と研究の自由なくして、大学の自主性なくして民族の独立は果たし得ない、民族独立なくして一国は成り立たないという、痛烈な大学の学長としての
演説をやっております。あんな
演説はないです。フィヒテがぶち込んだのは、魂なきドイツは再び民族として統一への失格者になる危険性があるぞという形に対しての憂国の私は本当の赤誠だと思います。
そういう意味において、私は、ポーランドは寒さに向かってくるときに、ちょうどロシア革命後におけるロシアが、農業政策に失敗しただけでなく、飢餓に襲われたときに、
世界じゅうから飢えたるロシアを救えという人道主義的な呼び声に応じてソ連を救う大衆的な運動が起きたように、もっと私はイデオロギーを乗り越えて純粋な形でポーランドを救い、中国からも
日本からも、余り米なり何なり——余り米でなくても一粒の麦でも何でも送って、とにかくポーランドの飢餓を救って暴発を防がなければならないという形は私は出てくると思うんです。ソ連や
アメリカがどんな権謀術策をもってもこの怒涛のようなヒューマニズムというものに打ちかつことはできないです。それが起きてからでは間に合わない。いまのときに、ソ連でも
アメリカでも、もう少し考えをし直さなければ、力ずくでいっては、地獄へ
両国も行くばかりです。
世界から孤立します。
〔理事大石武一君退席、
委員長着席〕
いま、気の毒で気の毒で、ソ連や
アメリカの外交を見ちゃいられないから、私は余りひどい自滅の仕方をさせたくない。この辺でやっぱり反省を促して、平和共存以外に
世界の生きる道はないんだということを、
アメリカのインテリがもっと勇気を持ち、労働者も大衆も勇気を持って、ソ連もそうです、共産主義のああいう体質によって、おくれた形の体質で近代国家はできようはないんだ、ちょうどいいときなんで、そういう古ぼけた全体主義的な権力国家、官僚国家、そういうものから脱出して、やはり遅まきながら議会制民主主義によって、みんなして話し合い、お互いの
立場立場を
理解していくような声が
世界から上がってくるときに、
日本が遠慮しているけれども、
日本の一億と中国の十億、
世界の四分の一が、いままでのような発想よりコペルニクス的な転換をして、真理は権力に勝つんだ、この信念を持って、小ばくち打ちのようなマージャン賭博や麻薬やゴルフ賭博なんかをやらないようにして、もっと民族が質素で清潔になっていかないと、
世界から
日本は
相手にされなくなると思うのです。
条約上の解釈だけでは、解釈学からは何も生まれない。
朱舜水の偉さは、私はこの間、浙江省に呼ばれて碑を建てに行った。三百年ぶりでふるさとへ帰って、南京攻略に失敗して以来、絶望して水戸光圀の知遇に甘んじて
日本に帰化した朱舜水は、朱熹(朱子)の正流であるけれども、朱子学や王陽明学などというものにこだわっていない、体験を通じてもっとその時々に必要な実践の学を探究したので、その門下生の中からは朱子学に対抗した陽明学者を幾人か輩出させている。王陽明学のいいところ桑子学のいいところも——いいところと言ったって古ぼけた孔孟の思想でなくて、もっと親を大切にし、家庭もりっぱな家庭をつくり上げていく、そういう生活の基礎から立て直していかなきゃならぬという形で、陶淵明の五柳
先生の伝なり、あるいは白楽天の酔吟
先生の伝なりを通じて水戸光圀に本当の学問を教えたのであります。
いま中国で、マルクス主義とかレーニン主義とか、毛沢東とか周恩来路線とかについて、議論は中国では文字の国だから勝手だ。しかし、辛亥革命の原点に帰るというのは、民族全体が炎のごとく一体となって燃え上がり、自分の間違いは謙虚な態度で改めて、民族の中に
流れている道義的生命力を政治の現象面に、興亡の歴史にこだわらず三千年の文化、道統を躍動さすべきである。それには教育だ、緑だといって、百年の計は木を植えるにしくはなし。それだけでなく、百年の計は、貧乏人でも勉強ができるような、
日本のインチキ教育と違って、本当の教育を大衆に、
政府が責任を負うようなものをつくり上げなけりゃならぬというところへ発想の転換が来たということは、苦労したかいがあって、中国は、
日本の明治維新の後におけるああいう官僚、軍閥の、薩長藩閥の明治
政府の自由民権をつぶしてきたものと違って、中国革命の進展過程において幾多の試行錯誤はあったけれども、現在、内部調整
段階において発想の転換が試みられつつあると思います。辛亥革命の原点に戻れとの反省がその
一つです。
外務省の国際法の
先生もなかなか条文解釈がうまい。条文解釈から生きた政治は生まれない。物をクリエートするものは生まれない。御用学者だけだ。
日本で戦争に負けた後に国民主権の憲法をつくる能力を持った憲法学者はいなかったじゃないか。行政に逃げて、官庁の何とか
委員とかなんとかやっておれば、大学教授よりは収入が多い。御用学者だ、全部が。こういう形で明治維新においてアンシャンレジームを打ち砕いて、国民の手に政治が奪還できると思うものが、薩長藩閥と宮廷におけるところの茶坊主によって自由民権が圧殺され、プロシア的な国家体制、あれよりもひどい国家体制ができて、惨めに負けてだれも責任を負う者がなかった。天皇だけが泣きながら人間天皇を宣言して、二度とこういう辱めを民族に受けさせないために責任をかぶったのだと私は思います。道義的な意味において、やはり
日本民族の表徴として、山本玄峰老も、妙心寺の管長を務めた人だが、進駐軍の将校に問われたとき私と同じやっぱり見解を述べております。楢橋君が立ち会っているからわかっていたはずです。こういう聖徳太子なり弘法大師なり、あるいは中国から来た無学祖元なり朱舜水なり、中国と
日本は幾多の間違いを起こしたけれども、政治の中枢部が腐敗したがゆえに、いかなる志士仁人が出ても、滅びるものは滅びていったけれども、その中で民主化されない国家体制のもとにおける志士仁人はむなしく、文天祥にしても朱舜水にしても皆去っていったんです。しかし、その中における三千年の文化、道統は烈々として
流れているんです。お母さんはしっかりしています。家庭における
中心です。親孝行を知らぬやつはだめです。魯迅の家に行っても、田舎でのお母さんがひねもすやはり質素な生活で働き抜いたのです。文字もろくに知らない人でしょう。だから、やはり魯迅のような人物も生まれたのです。
私は、安部磯雄
先生に質素なる生活、永遠の心という教えを受けましたが、大逆事件や何かいろいろな波乱万丈の中にいて、一貫して社会主義の道を守った安部磯雄さんには特徴的なものはないけれども、実証主義的な政治形態を早稲田の伝統につくった点においては、大山郁夫教授と同じく、小野梓
先生と同じく、非常に私はりっぱなものが残されていると思います。
高文試験に通った秀才は、秀才に違いないが、どうぞもっと凡人になってください。大衆とともに苦悩し模索し、凡の哲学に徹して、みずからエリートなどとうぬぼれないで、そうして大衆とともに新しいものを創造する。
母なる大地、自分を産んでくれたお母さん、ふるさと、それを大事にできないやつが
世界に対して責任を持つことができますか。祖国のために命をささげるというだけの祖国に対する愛情と責任感を持たないやつにだれが政権を与えますか。いまのような不自然な政権、議会制民主主義の本来の精神に帰るべきです。いい機会です。
どうもこの冬、暖冬異変で、もっと寒けりゃゴキブリを殺してしまったんだが、暖かかったばっかりにゴキブリはふえるばかりでどうにもなりませんが、この辺は、人だけに責任を持たせずに、田中さんでも何でもそれぞれの、いいとは初めは思ったのだと思いますが、周りの連中が悪いことは田中さん、いいことは自分のことにして——三木武吉は偉いやつだけれども、それを言いました。おれは人間をつかまえる前に金をつかまえちゃったので政治家として失格者だ、
戸叶君、金より人間だなあ、おれは政治家としての失格者になったのはそれだと。
私は、名指しはしないけれども、何人といえども祖国のために、人類のために考えを持たない悪党ばかりではありません。夜沈々としてもがき苦しみながらいる人が、田中さんあたりでは、あのお母さんはりっぱな人じゃなかったですか。傷ついたらいつでも自分のところへ帰ってこいというだけの愛情を持った人じゃないですか。あれほど私は人のために尽くすという精神に徹したお母さんの精神というものが最後の救いだと思います。大地と母親を大切にすることのできないやつにモラルはないです。
伝統は、新しいものを生み出す生命力を躍動させる力が欠けてしまいます。いま大きな台風の中に
日本はあるので、そういう意味において、私は
条約の問題も、一
条約課長は熱心な方でよく勉強しておりますが、問題は
総理大臣、
外務大臣、そこいらの人たちがもっと
日本の歴史の中において、
世界史の中でいま
日本人があざ笑われるか、小ばかにされるか、本物かにせものかと試されているときです。憂国の志士は民族の将来を考えたときに、私はもう少し政治の中にコペルニクス的な発想の転換が必要だと思います。
私はいつも失恋したやつに言うんです。逆立ちしてみろと、のぼせた血が下へ下がってくるからと。いま、どうも失恋してやけを起こしているような人間と同じように、頭へ血が上っちゃって、逆立ちすりゃ血が下がるから治るのに、そのことも忘れているんですよ。
どうぞ、もっと
日本人は能力を持っているのだから、暗記でも、あるいは今日の電子工学の根本でも、
日本人というものにはかなわないと
フランス人でもスイス人でも言うのは、でっち奉公した時分から暗算やそろばんや四書五経を勉強したのは、卒業証書よりも、神経よりも頭脳よりも、肉体の中に技術と一緒にひそんでいるんです。それがいま近代化された
日本においてまだ完成はされていないけれども、大きな新しい原動力になっていると思うんです。教育だけはいまのようなでたらめな教育はなくさしてください。マージャンは全部やめろというわけじゃない、家庭マージャンぐらいはいいでしょう。けれども、今日の麻薬、ばくち打ち、そういうものがばっこしていくところに
日本の未来がありますか。何で恐れているんです。何でそいつらの手先をしなけりゃならないんです。本当に私は憂うべきであって、もっと
総理大臣なり
外務大臣はつらい、おれなんか頼まれてもちょっといま御免だと言って逃げる方に回るかしれないが一竹林の七賢人は何もかも知っていました。しかし、時がまだ自分らが出しゃばるときではない、世間が迎えてくれない。竹林の七賢人は凡に徹したのです。四季を求めて詩を吟じ、歌を歌い、竹林におって同好の士と交わりを結んだ。
アメリカあたり賢人グループというのが行っているそうだけれども、本当のことを
アメリカに告げているんでしょうか。御機嫌をとっているんでしょうか。そこいらはしかと確かめられませんけれども、大来君あたりが行くと本当のことを言っても通じるようだけれども、どうも
外務省の先輩あたりはやっぱり御丁寧な注釈つきだから通じないんだと思うんです。そこへいくと、われわれと感覚が違うけれども、いまのマンスフィールド夫婦なんというのは率直に物を言っております。グルーさんよりも率直です。グルーは
日本にほれ過ぎた。率直だけれども、あれは
アメリカ人が言っているだけで
日本人が何も、私と同じ年だけれども、いまの大使の言うことを参考意見として聞けばいいのであって、こういう動きが
アメリカにありますよ程度で聞くだけであって、大使がこう言ったから、大使の言うとおりにしなけりゃいかぬなんというへ理屈はないんです。奴隷の考えです。
アメリカ人は率直に物を言うんです。ハーバード大学がだめになったら今度はエール大学がやっぱりすばらしい
一つの国際法の中においては人材を出しつつあります。
どうぞそういう意味においてがまんすることが第一、短気を起こさないで戦争に引きずり込まれないでいくこと。この後十年平和を保っていくならば、
アメリカと
日本が臥薪嘗胆して、復讐さすためじゃない、
世界にわれわれの過ちと同じ過ちを犯させないために
協力して、光は東方よりの実践を、東洋的ルネッサンスをシュペングラーが予告したような、トインビーがそれを受けとめているような形のものをつくり上げねば、具体的事実以外に真理は浸透しないんです。いま苦しんでいるかしれないけれども、もう少しがんばらなければやっぱり
総理大臣の資格も
外務大臣の資格もない、あるかしれないけれども後世でもって史家によって裁かれますよ。司馬遷の史記のように、きんたま抜かれても、宦官と同じような友人を弁護したがゆえにやられても司馬遷の史記の中には本当のことが書いてあるじゃないですか。私はそれを学びたい。国会に依然としてへばりついているのは、この目で事実を見、どういうプロセスを経てこうなったかという歴史の必然の
流れというか、それに対してどういう目的意識を持ってそれを打開したか、その実証主義的な政治学を、近代社会科学の中におけるその
方法論を、哲学を、体をもって受けとめていくことがわれわれの
一つの政治家としては未完成のまま、しかし実証主義的政治学の伝統を守る点においてはやっぱりデューイやラスキやそういういままでの先覚者があるので、名誉も要らぬ、
地位も要らぬ、
演説屋にすぎないと見られてもいい。
本当のことをたたきつけて、後世の人にわれわれ国会の記録の中に、自民党の方が私は相当な教育を受けた人もあるし、恥を知っている人もあるから、特に参議院においては、ばかげた憲法改正などという社会科学の
方法論も、政治経済の文化にわたっている経綸も、文明史観も哲学も持たない、官僚のなれの果てと言われたくないだけの私は常識を持っていると思うんです。フランクリンのような常識人、三権分立よりもコモンセンス、それが
アメリカの民主主義においては大切なんだ。法治国家的な窮屈な法理論でなくてコモンセンス、
日本人は良識と言わないと
承知しないだろうけれども常識、大衆の常識、健全なる常識、
アメリカもそれが崩れてしまった。ソ連も何とか博士というのがやたらに幅をきかせてきた。なかなかいいのもいるけれども、つまらないのもいる。こういう形で
世界自身が新しいやっぱり発想の転換を求めているときに先取りをするというのは、碁でも将棋でも下手でも先手必勝というのがある。後から人の顔色ばかり見て、あんまがつまずくような形で、自分もつまずくまで学ぶ必要はない。
やっぱり
アメリカにもソ連にも思い切ったことを本当に言い、
アメリカの第五列、ソ連の第五列のような、自分の祖国はどこであるかということを忘れたようなやつに政権は絶対に来ない。大衆は知っている。労働組合委任のメンバーになって賃上げには
参加するけれども、なぜ投票が少なくなるか。それは労働組合の幹部に聞いてみたい。大衆は英知がある。しかし、いまの財界人だって、いまのような混沌たる政治ではかなわぬ、自分だけがよけりゃいいという形にはいかないなということはやがて悟ってこざるを得ない。愛知君あたりでも基準通貨の問題に対して福田さんなんかとは違った角度で、やっぱりあの魔術を解かなくちゃだめだと。高金利によって、フローレンスの高利貸しみたいなことをもって法王庁を堕落させたり、カイザリズムを持ち込んで共和制をぶっつぶしたり、北ヨーロッパの暗黒時代を見て、ニーチェが神がいないと言ったのは天才と気違いのあいのこだと言うけれども、本当の事実を見て、暗たんたるルネッサンスの恥部を見て、スイスの山の中から澄んだ眼で出ていったニーチェが神を認めることはできないと言うのはあたりまえのことだ。神様が金に化けてしまってどうにもならない。これがルネッサンスの暗黒面であって、モナリザの顔を見てごらんなさい。ノイローゼの顔です。
日本の皇后さんの顔を見てごらんなさい。もっとふくらみのある、ロシアの国
会議員が、やっぱり成金のロシア美人の貴族婦人の絵よりも、モナリザの憂うつな顔よりも何というこだわらないおおらかな屈託のない顔だろうといってびっくりして褒めてくれた。これはやっぱり美術鑑賞に対する人間本来のものがあるんだと思うんです。音楽や美術を通じて、
世界にはインターナショナルというのはないけれども——
もう時間だと言うから、まだ六日と八日がありますからまたこの次にいたしましてこれでやめますけれども、いま私は本当に泣きたい。号泣したい。田中正造ならば直訴したい。人民に直訴するんだ、田中正造みたいに。天皇に哀願したんじゃない、天下に警鐘を乱打したいというのが田中正造の真意です。私はいま国会を守る自由民権を口とし、民主主義を口とする人は多いけれども、だれが人民のために、——人民と言っちゃいけないと廖承志君が言った。私は烈々たる愛国者だと言って、一九六〇年に北京に行ったとき彼が言った。
戸叶さんの
日本の国で使っている言葉は国民だから、国民と翻訳を改めてくれと。廖承志君の偉さはその人の心をわかってくれることです。言葉じりで物を言っているんではない、気魄だ、人間の。中国にはそれが通ずるものがある。
いま、まとめろと言うが、まとまらないものがまとまっている証拠なんです。これが混沌の哲学というものだ。私は、
演説というけれども、言論の自由が国会の生命であって、内閣から小さいことを引っ張り出して新聞に物を書かせるようなのは外道だ。最高機関としての国
会議員の権威はどこにあるんだ。役人と事前の慣れ合い質問みたいに、新聞記者に頼んでの質問みたいな、発表のままのようなことをやっていてはだめだ。発するところ傍若無人、あたりに人なきがごとし。天下国家を論ずるときには自由濶達に物を論ずるだけの気魄がなければ、国会はなきに等しいものだと私は思うのであります。国会の生命を奪還するためにあえて
演説をやっているんだ。
演説が何が悪い。叫ばなくちゃならない。
日本人というのはやっぱり文字解釈だの言挙げする。「敷島の大和心を人問はば 朝日に匂ふ山桜花」、ずばりと言っているじゃないですか。その短い歌の中に
日本人の心をうたっているじゃないですか。歌挙げしているのです。私は、古代の
日本人のようなもっと屈託なく、さっき
田中寿美子さんと女流歌人の額田王の話をしたけれども、ああいう屈託のない女性は
世界には少ない。
もっと大らかな
日本人にならないと、けちけちして何だが砂糖の甘さに集まってくるアリのような、ゴキブリのようなものばっかりになっては、やはり民族は小さくなっちゃうと思いますから、それであえて私はデモステネスじゃないが、波に逆らうがごときディスカッション、ディスカッションと言ってもフリーディスカッションを求めて、お互いに言論を練磨し、お互いに本当のことを言い合い、ときにはつかみ合いしたっていい。宋襄の仁を行うのじゃなくて、
相手に頼んで人を刺すなんていうことをやっているから殷の国も滅ぶし、壮士一たび去って帰らずという決意は殺し屋なんかに頼むのじゃないんです。自分の体当たりで、気魄で
相手を倒すこと、それでなければ国は滅びる。そういう意味において、もう少し国会が小物集団でなくて、
日本の民族の憂いをここでもって語り合う
場所にし、
世界の人々も新しい議会政治のあり方を探求している。ECだってそうです。もっと屈託なく、ざっくばらんの話をやっているんです。
日本だけですよ、こんなばかげた、国会は事実上死んでいるじゃないですか。
時間だと言うから、この次の六日、八日というのがありますから、とにかく死なないうちは極楽へは私は行くつもりで闘っているのです。警告です。
終わります。