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戸叶武君 いまの答弁はきわめて明快で、やっぱり
宮澤さんがシャープな頭と経験を通じていまの鈴木内閣に陰の方から非常に貢献しているということはよくわかることであり、前は、余り聡明過ぎるので
宮澤さんはいつも逃げちゃうんじゃないかと言われたけれども、このごろはどうしてどうして、積極的にやはり
日本の主体性確立のためには泥でも体でも張っていこうという意気込みが出ている点においては、いまの世界の危機の中における
日本の外交、防衛のあり方をこの機会に自主性を確立しないと大変なことになるという私は危機感を持って受けとめておられるのだと思いますが、いまの集団
安全保障の問題も国と国との
関係において、地域との
関係においてなかなか複雑であるのは事実であります。しかし、約二年間にわたって衆議院の方における憲法論争が奥野さんやあるいは社会党の稲葉君なんかでやられましたが、どっちも旧憲法的観念で、昔の高文を通った時分の御用学者の解釈から一歩も出ていないから、
日本の憲法論というのは国会において
一つも前進してないのだと思います。
やっぱり
宮澤さんあたりが、ああいう感情論的な揚げ足取り論でなくて、多元的な国家観が大きく世界の政治学者の衷心を揺すぶっているときに、しかもそれがきわめて実証主義的な総合的な角度から、問題の流れの中からタイミングを逸せずに問題を具体的に展開しているときに、何か
日本では昔の緋縅のよろいを着て、人形箱から出てきたようなお侍さんがやあやあという形の、こういう憲法論争をやってたらいつまでたっても日が暮れるのが早くて、いつでも
日本という国はああいう論理的な低迷の中に埋没して、社会科学の方法論というのがまじめに検討されていないんじゃないかと私は外国からあきれられるんではないかと思いますが、あなたは余り私のように毒舌を言うのを得意としない逆な方ですからはっきりは言いませんが、私は本当にまだ憲法改正論あるいは憲法改正の必要が来たとは認められないんで、こういうようなときどき思いついたような形で、不用意な形における整備されない憲法論が展開されると、
日本の政治家の頭脳程度はどこいらなんだろう。これは世界の、私はいま
国連大学の学長なりあるいは副学長なりとも懇意でありますが、もっとはるかに進んだところにおつむの方は行っているようですが、あなたはこれでも心配ないと思いますか。いまの内閣はなかなかやっぱり常識的な慎重さは持っているけれども、論理の面においてはいつでも霧の中を歩いていく風景で、チャップリンの
最後のあの霧の中の写真よりも少しお粗末じゃないかと思うんですが、どうですか。
自然科学は相当な発達をしたが、
日本では社会科学における実証主義の方法論というものをもっときちんと整備していくような
一つの社会科学というものが成立をしなければ、マルクスやレーニンの革命理論を引っ張ってそれが科学的な社会主義だなんと言ってもこれは化学的社会主義であって、本当に非常に権力志向型の論理の展開であって、ヘーゲルが真っすぐにいるのか逆立ちしたのかぐらいの違いで、私はやはりこの時勢の流れに沿うて、それに対応するような世界新秩序を求めるという気魄がこの社会科学の中にも躍動しないと、この二、三十年の動きを見ると、社会党もちょっとお粗末ですが、本当にこれはどうかしちゃっているんじゃないかという、一番コンサーバチブな一番動きのとれない
状態が、自民党と社会党もひっくるめていまの
日本の政治社会に横溢していると思うんですが、これは腐らないためにこういうふうにおつむをかたくしてしまっているのでしょうか。
日本の教育の根本からもう少し実証主義的な、これがこうなってこうだというプロセスの実証主義的な具体的な提示によって問題展開をされる
一つのきっかけをつけないと、国会における論争というものはつまらないからスイッチは切っちゃおうやという、各家庭じゃ余り聞かない風が出てきたのじゃないですか。政治から国民が遊離したということを非難する前に、とにかく何かこれは聞かなくちゃならないという魅力と
内容的な権威を伴
わないような、議運だけでもって駆け引きをやるようなことをやっているから、今日、国会は実際眠っているのか生きているのか、植物人間になったのか、わけのわからないような
状態で、自分たちの活路というものを見出さないと思います。
そこで結論的に、やはり民主主義に徹して、政権というものは長期にわたる政権移動がなければ、どこの国でも必ず腐敗してしまうんです。スウェーデンの総理大臣が二十年間政権を維持して、何の非難の打ちどころがなかったが、やっぱり選挙の洗礼を受けていままでの気分を一掃しなければならない。イギリスでは内閣制度をつくったウォルポールが、内閣制度を整備した人だと言われているけれども、あのときはいまの
日本よりひどくて、とにかく金をもって買収するわ、勲章はやるわ、全くイギリスの政治がもうこれでは救いがならぬというときに、ピットが敢然としてやはり国会を通じて、言論の力で、堂々とやはりウォルポールの二十年政権を倒したのです。いまの
日本にはそういうことをするやつはばかで、まあ当分マージャンかあるいはゴルフのかけでもやって、しこたまおいしいものでも食べていた方がいいというような風潮になって、国を憂うる気概というものが政治家の中にもなくなってしまったのじゃないか。
私はこの数日前までも朱舜水の碑を建てるために——もうたくさん時代じゃなくて、マルクスだとかレーニンだとかあるいはスターリンだとか毛沢東だとかもうたくさんだから、そういうような観念的理論でなく、王陽明学あるいは朱子学というようなものもそれぞれのやっぱり取り柄はあるけれども、もっと民族全体がモラルを確立して、道義生命力を日中両国でやはり躍動させなければアジアの復興はあり得ないという形で、非解放地域に入って、木に鈴なりのようになっているあの一番ラジカルと言われた土地であいさつをしてまいりましたが、中国はマージャンなんかやっているやつはいないです。マージャンやっちゃいけないと言うんじゃないんです。ゴルフをやっちゃいけないと言うんじゃないんです。しかし、いまのような形のこの退廃ぶりで、中国は黙ってとにかく
日本から学ばなければならない。人のことをとやかくあげつらうよりもみずから現実路線を一歩一歩積み上げていこうというので、やはり
一つの三千年来の道義生命力の躍動に中心を置いて、モラルの確立、人間性の確立、それから植物を愛し、人間を尊重して働けば、そこに生活に楽しみがわくというようなものを現実につくり上げようという意気込みは素朴であるが、私はりっぱだと思います。彼らが言うことは、われわれは
日本の攘夷党以上に、長髪賊の乱なんかは外国のアヘンを入れることを反対して死にもの狂いの戦いをやったが、結局は負けてしまった。しかし
日本は、この中国の悲劇を見ていて、そういう素朴なかたくなな態度じゃなくて、攘夷党も、あるいは蘭学をやって開国を
主張した佐久間象山のような人も百八十度旋回して、政治の中枢部が腐ってしまってはどうにもならないんだ、中国は、宗の国もあるいは明の国も清の国もみんな中枢から腐ってしまって、志士仁人が生まれても崩壊は内部から来たのだ、これを気をつけなければならないと言っていますが、
日本では完全に内部が腐り切ってしまったように見えますが、それまではまだ行っていませんか。
宮澤さんはどんな診断を下しますか。