○戸
叶武君 観念的なイデオロギーと偏見によって排他的な形における
外交を行う
時代はすでにダレスのコンチネントポリシー、歴代の
大統領がどうあろうとこのダレスはと言わんばかりにダッチの根性でもって、あの人は長い間
一つの封じ込め政策を踏襲してきました。これがために
アメリカは私は大変損をしていると思います、柔軟性がないので。そうしてあれほどりっぱな
世界平和秩序をつくり上げるための
国連をつくっても、
国連自身が十分な機能を果たし得なかったのも、
アメリカと
ソ連の戦時中における軍部の圧力を中心としての、お互いだけは正面衝突しないで内々お話し合いをして、そうして戦時中のヤルタ軍事秘密
協定を基礎として、核兵器を持っている国だけで軍縮の問題でもなんでも話し合おうというような暗黙の密約が成立しておったがゆえに、私はいままでこの国際的な社会における
ルールというものが権威のない問題になり、バランスのとれたという名のもとにおいてアンバランスを生じ、競争の結果相互不信を増大して動きのとれないところへ来たことが今日の国際的な
ルール、新しい
一つの秩序、ヤルタ
体制の解消によって打開しなきゃならないところまで追い込められたという認識の上に立っておるものでありますが、これはなかなかデリケートな問題で、政府が一気にいま私の
質問に対する答えはないと思いますが、いまの病めるブレジネフが
アメリカとお話ししたいというのを打ち出したのは、ブレジネフの病気いかんを問わず、やっぱり
ソ連はこの機会に
外交転換をやらなければ
世界じゅうにも迷惑をかけるし、
ソ連もこれがために非常に孤立化していく危険性がある。
アメリカだって変わらざるを得なくなるだろう。それならば先に
自分の方が、ポーランド問題のごとき難問題に対していつまでも解決のつかないというような形で続けるより、ここで
アメリカの出方いかんによって問題を急激に打開しないと、打開するチャンスを失ってしまうじゃないかというところまで来ておると思うんです。
このときに、
フランスなり
日本なりの決意というものが非常に重大だと思いまして、この間から二回にわたって私は
答弁は要らぬと言いながらも、政府
自身がこの動いている
世界の潮の流れ、地下三千尺の水の心をくみ取るだけの
配慮がないと、本当のおざなりの形でマンネリでいくと、
日本自身は何を
考え何をやろうとしているのかという私は
各国から非常にばかにされるんじゃないかということを心配して、とにかくでき得ることとでき得ないことがあれば、やっぱりその問題に対して正確な実証的な認識の上に立って
見通し等をやり、決断できないような
政治はいまの
時代に必要がないんですから、そういう形においてダイナミックな
一つの転換の機会を見失ってはいけないと思いまして、特に私は
苦労人の
外務大臣と鈴木さんには、もしいまのような彼らと同じような地位を授けられて重大な責任を負わされたとき、
自分たちならどうしようかということを
考えるときに、だれがやっても大変なことだと同情に値するのですが、同情じゃなく、このときにこそステーツマンシップというものが発揮されなければならないときだと思います。
このときに、いま
日本の国家基本法としての憲法は、マッカーサー憲法などというのは大きな間違いで、少なくとも第二次
世界戦争の後の惨たんたる状態を見て全
世界の
人たちが、
国連憲章の中の宣言にも見られるように、再び広島や長崎のようなあんな悲惨な原爆戦争あるいはパールハーバーのようなことがないようにという悲願を込めて、私は戦争を食いとめる
機関としての国際連合がなされ、その憲章にのっとってその
国連のモデルとして私は
日本国憲法は定められたものだと思います。したがって、
日本国憲法の九条というものは
国連憲章の精神を具体的に継承したものであって、私はあれだけの
一つの宣言がなし得る
学者は、
日本においても私はいままでの
憲法学者においては不可能なことだと思います。天皇の問題に対しても、象徴という表現は、聖徳太子の憲法十七条の研究を十分した上で、古い聖徳太子の
時代とは次元が異なりますけれども、元に攻められたときの危機の場合において、やはり
日本の素朴な武士と、
日本に渡海してきた惑うなかれという精神をもって難局に対処しようとした、
中国の老荘の学の流れをも入れた、庶民の中に気力を蓄えてきたところの禅の無学祖元のような
人たち、こういう
人たちが一体となって聖徳太子以後における和のなき
世界に和を求めた
時代よりもさらに厳しく、「珍重す大元三尺の剣 電光影裡に春風を斬る」、首を切るなら切ってごらん、青竜刀で討たれてもそれで切ったと思うのは間違いで、春風を切るぐらいで、私の心を切ることはできないと、福州でうそぶいた祖元のような精神というものが、
日本の素朴な武士道の中にも入ったので、後年における官僚軍閥のサラリーマン的な物の
考え方と違って、烈々たる私はそこには
伝統が流れておったと思うのです。
いまもしも
日本が
国連憲章を無視して、
国連の外堀を埋めるような憲法改正をやるならばやってごらんなさい。たちどころにその政権は大衆の怒りの中に埋没して死にます。滅びます。
日本人の根性を甘くなめていちゃいけない。金もらいの右翼擬装と違って右も左もなく、
自分たちの祖国を守り、
世界の人々を守っていこうというだけの悲願を込めた
日本憲法の精神というものは、
国連憲章がいま無視されかかっていても絶対に
国連は消すことはできません。ヤルタ
体制は解消しても、
国連はやはり全
世界の国民の防波堤です。そういう
意味において、いまこの機会に
日本の憲法改正論というのは、迎合するところの安直な法理論の中に立って、明治憲法的な無条件降伏の原典をつくったような憲法を再びつくるならば、
日本の国は永久に滅びます。こんなばかなことがやった政府はやがて全
世界の
人たちから笑い物になります。笑い物の見本になります。
いま慎重に
考えていくならば、自民党の中においてもいろいろな形の人があると思うけれども、われわれの祖国だけを守る、祖国をまず守り責任を持たなけりゃならないけれど、全
世界の迷惑を
考えないで、他の国の傭兵になるような
一つのしぐさにおいて、外圧に従ってよろめいていくような、酒酔っぱらいなら酒酔っぱらいで済むが、魂がとにかくよろけていくのは、これは
一つのノイローゼです。そういう形の不健全な民族によってはその国は保てないと思うのでありますが、最近の新聞を見ると、いろいろどうも
総理大臣や
外務大臣のところを抜きにして、あるいは新聞記者だって命令によって書くんじゃないけれど、このごろは空気が濁ってきているものだから、濁った空気に妙な巻き込まれる危険性がありますが、新聞の毎日毎日を見ていると、本当に足で、魂で木鐸として物を書いているのかどうか、何番さん何番さんってどこかお通夜の女じゃあるまいし、そういう形でへばりついているボスどもの御機嫌伺いのために物を書いているのか、足を使わないのか、魂を使わないのかわからない面がありますが、今後においては私たちはいやでもこういうふうに挑発を受けるならば、政府に向かって堂々の憲法論争を展開する。
いままではがまんしておったけれども、こういう点は
与野党挙げて、十分に
日本憲法の精神というものをわからないで、三百代言的な論理、哲学を持たず憂いを持たず、国民の望むところをその中に表示しないで、国の最高
機関で多数決で決めればそれでもって憲法改正にもつながるものだというようなたわけたことを言っている限りにおいては、憲法の精神を理解したことにはならないのですから、私は最高
機関としての国会というものをそのように悪用することはならぬということは、尾崎行雄
先生は明治憲法のもとにおいてもわれわれに対して玉座から砲弾を撃ちつけるようなことは許さぬと言ってあれだけの憲法擁護の運動に挺身した。だからこそ
ミッテランさんがこの間国会に来ての
演説の中においても、
日本の
政治家で引用したのは尾崎行雄さんだけではありませんか。あのときの字句は必ずしも整備されたものではありませんけれども、あの気魄、あの抵抗力、あの人民の声をたたきつけていく根性が
日本民族の中に失われてしまって、おれは最高
機関の国
会議員であるから、多数決によれば、最高
機関が決めたことによるから問題はこれで処理できるんだというような薄っぺらな哲学のない、文明史観のないへなちょこ理論がこのごろはやっておりますけれども、民族には民族のもう少し魂と根性があってほしい。
やっぱり
ミッテランの中にはがまんにがまんをして、社会主義だ何だということにこだわらないでいるけれども、戦争の前に戦争をぶっとめようとしたジャン・ジョレスが殺されていったあの思い出ということは永久に忘れない。そうして平和をたっとぶ平和革命の社会主義の一筋の道を十二年あるいはより以上にがまんにがまんをしてきているが、いまもなお粘り強い忍耐によって政権を一気にとるなどというばかげたおっちょこちょいのやり方をしないところに
政治家らしい
政治家としての面目があるんだと思いますが、これはどうも与党に聞いてもつらいと思うんですが、これはここまできたらどうしてもいやだけれども、
櫻内さんのような人は、多少われわれが怒って罵倒しても怒らないだけの心の準備ができている人だと思いますが、もっていかんとしますか。