○
横山委員 大分それは問題がありますよ。実際、領事
条約十七条を発動してその執行をやるとなりますと、国内法及び本人の出頭義務からいけば、それについておどかされる、すかされる、そういう問題について官憲の介入の問題がなしとはしないとなりますと、領事
条約十七条が国内法が何もない、そこがまた問題を生じてくるおそれがあると私は思われてならないところであります。これは検討を願います。
わなの理論ですが、ずいぶん私も見てみました。ソレルス
事件だとかシャーマン
事件だとかあるいはラッセル
事件だとかカディス
事件、
アメリカにおけるわなの抗弁という問題についていろいろ検討してみました。
先ほど前田さんは、
アメリカにおいておとり
捜査が許されており、
日本では完全におとり
捜査をやったから無罪というわけにはまいらぬ、近似性があるのだという理論を展開をされました。しかし、
アメリカにおける
判断基準、わなの抗弁として主張ができ、それが無罪にできる
要件、つまり
判断基準というものをいろいろ考えて整理をしてみますと、結局は、ソレルス
事件では、実行のため機会または便宜を提供したにすぎない場合は有罪だ。しかし、
犯罪計画が
政府の官憲によって作出され、かつ、潔白な人物の心中に犯意を植えつけ、実行
行為を誘発した場合は別の問題、つまり無罪に近い。法の
趣旨は、潔白な人を扇動してよいと言ったわけではない。被告人の
犯罪性向と
犯罪計画がこれに関連をする。被告人は潔白な人間での立証をせよ、いわゆる挙証責任が被告人に
相当あるぞ。わなについては、問題
処理の権限と義務は
裁判所にあって陪審員にはない、こういう理論。
シャーマン
事件では、自白の強要や非合法な捜索と同様に、秘密性と戦術は異論のある
捜査手段。潔白な人を違反に誘う立法ではない。わなは官憲の創造的
活動の産物である場合にのみ生ずる。つまり、官憲が創造的
活動の産物としてやったわなについては無罪である、軽率な潔白者は無罪である、軽率な
犯罪者との間に一線を画す。つまり、潔白者で軽率であったという人は無罪に近い。
犯罪者で軽率なやつは、もう
犯罪歴があるんだから、おまえはそうはいかぬぞ。要するに、わなにかかった人が、最初は拒否する、その次には逃げる、その次にはためらう、その次にはついに降伏した、こういう経緯があればわなの抗弁は成立する。つまり無罪に近い。
いろいろ補足
意見がありますが、ラッセル
事件では、詐術があっただけでは訴追は棄却しない。わなの理論が働くのは、
政府の詐術が被告人の心中に
犯罪計画を植えつけた場合のみだ。カディス
事件では、潔白な人を誘発をした場合、あるいはまた、被告人が
犯罪性向を持ち、すでにそれをやっておったというものと区別をしろ、こういうことで裁判官が陪審員に言う言葉が非常に興味を呼ぶわけであります。
この
資料によりますと、「「わなの抗弁」に関し、裁判官が陪審員に説示する形式は、通常次のとおり。」「ある者が、既に、法に違反することにつきその意思を有し、行うつもりになっている場合においては、単に
政府側の者が(当該
犯罪が犯されるための)便利な機会と思われる
状況を提供しただけでは、「わな」を構成しない。もし、被告人が当該
犯罪を犯す事前の意図と目的を有していたのかどうか、そのような
行為をしたのが
政府の
捜査官又はその代理者によって誘引され又は説得されたのかどうかについて合理的な疑いがあるときは、被告は無罪とされねばならない。」
こういうものと、それから
日本における判決を比較対照をしてみますと、確かにあなたのおっしゃるように——私の手元にありますのは、最高裁の昭和二十八年の小
法廷ですが、判旨は「他人の誘惑により犯意を生じ又はこれを強化された者が
犯罪を実行した場合に、わが
刑事法上その誘惑者が場合によっては
麻薬取締法五三条のごとき
規定の有無にかかわらず教唆犯又は従犯として責を負うことのあるのは格別、その他人である誘惑者が一私人でなく、
捜査機関であるとの一事を以てその
犯罪実行者の
犯罪構成
要件該当性又は責任性若しくは
違法性を阻却し又は公訴提起の
手続規定に違反し若しくは公訴権を消滅せしめるものとすることのできないこと多言を要しない。」
えらいむずかしく書いてあるが、要するに、
麻薬取締法五十三条のごとき
規定があってもなくても、おとり
捜査をやった者は、警察官なり何なりは教唆犯または従犯として責を負う。負うか負わぬかは事実
関係になるのですけれ
ども、負うと思われる。けれ
ども、
捜査官をおとり
捜査をやって処分はするけれ
ども、
犯罪やったやつはそれとは
関係ない。簡単に言うとそういうことですね。
私は、この最高裁の判旨にちょっと疑問を持つのですよ。いろいろ理由が読んでないからわかりませんが、これだけの議論だったら、
アメリカのいま読み上げたやつの方がいいではないか、極端に言うと。極端ですよ。潔白な者にいろいろやって、それでついに陥落せしめたというような
やり方をしたならそれは無罪だという論旨と、この最高裁の判旨からいうと、教唆または従犯した警察官は罪だ、けれ
ども教唆されたあるいは加わった者がやったことについては罪を罰するぞ、簡単に言えばそういうことになります。
アメリカの方が進歩的じゃないかとさえ思われる。私は、この最高裁の二十八年の三月五日ですか、これに対して疑問を生ずるわけです。
そこで、おとり
捜査の論文、解説の最後にこういう文章があります。「最後に、
麻薬取締法五八条が「おとり
捜査」までを許容したものと解すべきかを問題にしなければならない。さきの
憲法理念からすれば消極的に解するのが妥当であろう。」つまり、
麻薬取締法五十八条がおとり
捜査を許したと積極的に解すべきではないという論旨ですね。「
麻薬事犯
捜査の特殊性から
捜査の端緒を得るために他に方策がない場合に限って、
捜査機関に許容されたもので、他人の犯意を誘発することまでも許容する
趣旨ではない。」私はこの
結論に賛成でありますが、
法務省の御
意見はどうですか。