○
佐藤(誼)
委員 指導しているのですから効果が上がるだろうということでやっていらっしゃると思うのですが、しかし事実は、いま申し上げたように、二度の
指導通達を出したけれ
ども、減るどころかふえている。このことが客観的に見れば通知
指導が効果を上げていない、こういうことの証明だと思うのですね。これからどうなるかということはこれはわかりませんよ。ただ趨勢的に見れば、まだ多くなっていくのじゃないかということが、私から言わせれば推定されるだけです。これはこの通知
指導のあり方を追求していくためには、主たる
原因というものの探り方、それに基づく
指導のあり方に必ずしも適切さを得ていると言えないのではないか、これは二度にわたる通知を出しても累増しているという事実がそれを証明しているのではないか、私はどうもそう言わざるを得ない。
そこで、いま
局長は、環境が物質的に恵まれている反面、心の豊かさを忘れているのじゃないかという
趣旨のことを言われました。これは現在
文部省の
考え方の基本にある
考え方だろうと私は思うのです。すでに進められている豊かな心を育てる施策
推進会議、これは
文部大臣の肝いりで出発したと聞いておりますが、その
文部大臣の発言の要旨の中に「より基本的には青少年をとりまく環境が物質的には豊かに恵まれている反面、青少年の心の豊かさを育(はぐく)む面においては、不十分な
状況にあることが大きな
原因となっているのではないかと思われます。」こういうことですね。私は、このとらえ方はあながち否定をいたしません。そしてまた、重要な
分野だとも思いますし、またこれは高度経済成長と非常に絡む形でそういう側面が出てきたのだろうというふうにも思います。またそういう点で、この心を育てる
云々ということを私は否定するものではないのです。
しかし、この今日の非行、暴力の
原因というものを、豊かな心が欠如しているから、心の面が欠如しているからという、こういう対応だけで果たして効果を上げることができるのかどうか。むしろもっと深いところに、第三の時期と言われる今日の非行、暴力の問題がひそんでいるのではないか。そのことをまず探り当てる必要があるのではないかというふうに私は思うのです。
そこで、時間もありませんので、私の見解を最初に述べて、後で御意見を聞きますけれ
ども、いま申し上げたように高度成長に伴う物の豊かさ、心の貧しさがその
要因になることは
考えられますが、しかしより根源的には高度経済成長、つまり一九六〇年−一九七〇年ごろですか、それとともに肥大化した学歴
社会、能力
主義に基づく差別と選別の
教育、それに荒れすさぶ受験競争など、つまり今日の
教育の荒廃と言われるもの自体にその
要因があるのではないか。だから、そういうもっと根深いところに
原因がひそんでいるのではないか。それが一口に言うならば心の問題、物の問題というふうに表現されるかもしれませんけれ
ども、そこのところを深く掘り下げていかないと、一片の通達や何々々では解決できない問題があるのではないか。
たとえば、いま私は受験競争ということを申し上げましたが、今日の受験競争は上級の学校に入学するために起こるものではないのです。
高校から
大学に入るためではない。つまり、それは前提ですけれ
ども、よい学校、一流の
大学に入るために競い合うところが今日の受験競争の問題点なんです。これは数字が明らかに示すように、
高校から
大学への進学希望者が五十八万五千人と聞いておりますけれ
ども、大体
大学の募集定員と同じ、浪人が十八万五千人としても、
大学に入るというだけであれば一・三倍なんです。そんなに厳しい競争があるはずがない。ところが一人平均三・四四校受験している。よい学校、よい
大学、つまり格差を求めてせめぎ合う。その結果、四・五倍の入試地獄が出てくる。つまり、これは
大学に入るための競争ではなくて、有名校、一流
大学に入るためのせめぎ合いなんです。そこはだれが見ても明らかだと思うのです。
そうすると、それは当然学校に格差があり
云々ということが前提になってきますから、それでは、そのだれもが入ろうとする学校の格差を助長し、知育偏重の能力
主義を生み、受験競争を熾烈にしたものは何であるのか。私はいろいろ
要因があると思う。しかしその中で、高度経済成長とともに進められてきた、言うならば経済界からの
教育に対する要請、これは私は忘れてならない側面だと思うのです。いま私、詳細なデータを持っておりませんけれ
ども、例の経済審議会でマンパワーポリシーその他いろいろな答申を出し、それが
政府に対する要請として出てき、
政府の
計画が
文部省に流れてくる。こういう
一連の経過があったことは、その間の前後の関係を見れば明らかです。いま細かいことは言いません。
ただその中で、私は一、二の
資料を提供しますけれ
ども、いま申し上げたようなあの経済成長のときに、
政府が
昭和三十五年十二月、例の
国民所得倍増
計画というのを出した。これは経済成長に伴う経済界の要請とうらはらの問題だったと私は思いますけれ
ども、その中に「人的能力の向上と科学技術の振興」という項がある。この中に次のことが書いてある。「従来、
日本経済において、労働力が経済成長の阻害
要因となることはなかった。それは、
わが国が豊富なしかも安価な労働力にめぐまれていたからである。しかし、長期的にみれば労働力増加率の鈍化が予想され、しかも将来における科学技術の進歩、産業構造の高度化は、労働力の質的向上を強く要請することになる。」という、「質的」という
言葉を使っている。次に、続いて「この際
わが国における長期的課題は中等
教育の完成である。しかし、この
計画期間中最も重要なことは、科学技術者および技能者の量的確保とその質的向上である。」、最後にこういうことがある。「経済成長との
関連で
人間能力の開発活用に関する各種の問題を検討し、その対策の方向を明らかにする。」、こうあるのです。つまりこれは何か心経済成長のために
教育に求めるものは知育偏重の能力開発だという、そこにマンパワーポリシー、能力
主義、こういうことが経済界の要請として
教育界にできていることは明らかだ。これは時間がありませんから、その
資料は明らかにしません。
そこで、続いて
昭和四十年の中期経済
計画をずっと見ていきますといろいろとございます。肝心なところだけちょっと読みます。この能力
主義の
考えの上に立って、「しかしながら、ハイ・タレントとしての資質を有する者の比率は、おのずから限定されているものと
考えられるので、これらの者に対する高等
教育はその質が低下しないよう配慮し、重点的選択的に行なわれなければならない。かかる観点から、」以下
云々という高等
教育のあり方について言及しております。つまりそれは何かと言えば、まさに能力
主義に基づく知育偏重、さらに加えてのこの四十年は、本当の一握りのハイタレントの養成、それを頂点とした学校の、われわれから言えば格差の構成を前提にしたそういう
一つの振興策になっている。
ですから、このことから言えることは、経済界から
教育界に対する、まさに高度経済成長とともにこの能力
主義に基づくところの知育偏重の
教育、さらにそれをパスすることによって上級に進み、しかも一握りのハイタレントを養成するという、そういう学校格差を生む
要因というものはこういうところに重要な
要因があったのではないかというふうに私は
考えるわけです。裏を返せば、能力がすぐれて受験競争に勝ち残っていった者がハイタレントになって、やがて将来が約束される。そうすれば、だれだってそのハイタレントとして選ばれ、そしてすぐれた
大学を出、すぐれた就職をするというその道にせめぎ合うのはあたりまえなんです。そういうところから
学校教育が、いわゆる知・徳・体、体力や倫理観、そういうものよりも能力としての知育としての数学とか英語とか国語だけに重点を置いた受験中心の
教育、そして点数によって、つまり能力によって選別していく。そして選別されたすぐれた者は
大学に行くという今日の受験
教育、受験競争。そして詰め込み、背番号管理、そういう学校の生徒の管理、そしてまた五段階評価、偏差値、さらに内申書と続いていくわけですけれ
ども、友人の集団よりも、だれかが落ちれば自分が上がるという
人間集団の姿がそこに出てくると思う。そういう中で、一定の基準に達しない、能力が伴わないと言われる、ついていけない落ちこぼれがたくさん出てくる、こういう問題が当然出てくると思う。
これは詳細は省きますけれ
ども、たとえば授業が
理解ができないということについての
調査がずっとありますが、これは三重県の
教育研究センターの意識
調査です。小学校高学年で半数以上が落ちこぼれだというふうに答えている教師が六六%、中学校の数学では半数以上が落ちこぼれだと言っている教師が八〇%、
高等学校では三割が
理解できないと言っている。そういう受験競争の中でせめぎ合って、どうしてもついていけない
子供を落ちこぼれとし、しかもそれは一、二の落ちこぼれではない、半数以上がついていけない。そこから灰色の学校生活が出、
人間関係が薄れ、荒廃していくという土壌が生まれてきているのではないか。
そして一たん家に帰れば、どの親だって
子供の幸せを願うし、そのためには簡単に言えばいい
大学、そのためにはいい
高校、いい小学校、幼稚園、塾。そして親は自分の歩いた道からいって
子供に対し、おまえ、いま勉強しなければいい学校に行っていい生活できないよ、そういう押しつけの善意というものが鋭く
子供の背中にのしかかってくる。つまりこれが
子供から見ればおせっかい。しかし大変な重荷。そこにあつれきがあり、親子の断絶という
状況も出てくる。
だから、私はいろいろこういうことを
考えますと、確かに心の問題ではあるけれ
ども、今日の荒廃の
原因とも言うべきこの灰色の青春、受験競争のるつぼ、これは経済界の要求、
教育、そういう
一つの制度的な面からそういうものを助長する
一つの
要因があったのではないか。また、それに適応するために親が
教育ママになったりすることを責めるわけにいかぬのです。そういうところに今日の非行なり暴力の大きな
要因がひそんでおったのではないのか。
皆さんの
指導の中にも不適応という
言葉がありますけれ
ども、いまのような落ちこぼれの
子供、つまり不適応という
言葉だろうと私は思いますけれ
ども、この中に二つ出てくる、無気力な
子供、これは何事にも集中できないという
子供です。これはたくさんいるのです。これが登校拒否でしょう。それから反発的、攻撃的に変わっていく
子供。同じ不適応です。これは
指導を受けつけないという
子供、親も教師も。これが校内暴力なり家庭内暴力というものの温床になっていくのじゃないか。
私はそういうことを
考えたときに、結論から言うならば、単に心の問題とか、時間をかければそのうち成果が上がるのじゃないかということではなくて、今日の
教育の荒廃と言われるその
原因がどこにあるのか、それといまの非行、暴力は深く底辺でかかわっているのかいないのか、このことを詰めながら本当に地についた
指導をしないと、非行や暴力の問題は解決ができないのではないかと私は思うのです。
そこで、時間がありませんから、引き続いてもうちょっとだけ言わせてもらいます。
文部省の通知の「
児童生徒の非行の防止について」という中で、
児童生徒が
学校教育に不適応を生じ、以下
云々とならないように、そして、
児童生徒が
指導内容について十分
理解し、興味と関心を持って意欲的な
学習ができるように、児童の豊かな個性や能力に応じて
云々、こういうふうにありますね。このことは私は否定しません。しかし、こういうことを言われても、つまり私
先ほど言ったような受験競争のるつぼの中に投げ込まれているいまの学校の実態からいって、こういうことはやろうと思ったってなかなかできないですよ。それはもちろん教師の能力と意欲の問題を私は否定いたしませんけれ
ども、基本的に今日の受験体制そのものが大きな問題になっているときに、あえて言うならばこういう一片の通達を出されてみたってなかなか解決できないのがいまの
状況ではないか。
さらにあの通知の中に、教師が一体になって
云々とあります。それはそのとおりだと思います。しかし、今日の学校というのはまさに管理型の学校になっている。専門職としての
指導集団という形でつくり変えていかなければ、そして校長はその専門職
指導集団の
指導的な長であるという位置づけをしていかないと、本当に一体となった生徒
指導の教師集団はできてこない。管理型の学校になっている。しかも教師は父母あるいは地域の受験の圧力に押されている。したがって教師は病気、自殺が多い。
この間も皆さん御承知のとおり、県立流山中央
高校の校長
先生が自殺をしました。これはその板挟みだと私は思うのです。こういうことが読売の社説の中に書いてある。私は非常に重要だと思うのですが、「しかし管理を強めることは、リーダーシップを発揮することではなく、逆に教師との意思の疎通を阻み、学校を沈滞させるものとなりかねない。真にリーダーシップを発揮するとは、教師集団との信頼関係を作り上げ、その結果、生徒
指導について教師全員をどれだけまとめられるか、どれだけ教師に自由な
教育の場を用意できるか、にある。」、こういうことを言っている。私は賛成です。こういう条件をつくり上げないで、上から管理し、
子供は受験の中に投げ込まれて、背番号で押しつけられていって、競争させられて、家に行けばまた親からやられる。
子供は逃げ場がないのです。しかも学校に行けばペーパーテストでやられる。
子供には体育がすぐれている
子供もある、芸術がすぐれている
子供もある。私もかつて教員をやったけれ
ども、教室の中ではだめだけれ
ども、グラウンドに出ると生き生きしている
子供がたくさんいるのです。そういうものを認めてやらないところに今日の
教育の問題があるのではないか。私はそういうことを
考えますと、この非行あるいは暴力の問題は根が深いし、もっと本腰を入れてこの問題に取り組まないと、二十一世紀に向けてわれわれの将来の世代を担う
子供たちが本当にわれわれの期待する
子供に育っていくのかどうか、私は、今日の文教政策、
教育行政の最大の課題だと思う。ちょっと長くなりましたけれ
ども、ひとつ
文部大臣の所見を伺いたいと思います。