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森井委員 そこで、そういう多数の遺体が漂着をしたことについて
調査をしてみますと、こういう事実が明らかになっております。
それは、昭和二十年九月十五日、広島にあります当時の名称で三菱重工業広島機械製作所、いまは広島造船所等になっておりますけれ
ども、ここで働かされておりました徴用工の方が二百四十名にわたって祖国へ帰ることになった。九月十五日です。これは陸路でございますから、荒れ果てた広島駅から出発をしたものでございますけれ
ども、そして北九州方面に到着をした。具体的には戸畑港から木船によって祖国への帰還をしようとした。
ところが、当時のことでございますから、そのときは波静かな海であっても、途中で大あらしになった。戸畑を出たのは九月十七日。これはちゃんと目撃者もいらっしゃいまして、明確になっておるわけでございますが、その十七日、十八日といえば、枕崎台風が襲ってきた一番ひどいときです。ちなみに申し上げますと、この人たちは、
先ほども申し上げましたように、三菱重工業広島工場で過酷な労働を強いられて、非常に苦労をした被爆者です。一人残らず被爆者ですよ。それが九月十七日に、一刻も早く帰りたいということから、危険ではありますけれ
ども木船で出発をした。そして台風に襲われたというケースです。そして皮肉なことに、日本人としては申しわけない限りでございますけれ
ども、台風が来たから、壱岐にあります芦辺町の芦辺湾内に船もろとも避難をしております。ところが上陸をさせない。警防団等が朝鮮人の皆さんを上陸させるなということで上陸をさせない。やむなく大あらしの中で船で過ごそうとしたけれ
ども、船が転覆をした。こういうことが各種の証言で明らかになっています。
それから、徴用工の皆さんといえば、単に広島、長崎だけじゃありません。御案内のとおり全国の炭鉱その他いろいろなところで強制労働をさせられておるわけでございますけれ
ども、そういった方々が祖国へ送還をされることになった。もちろんこれは当時の内務省の通達によりまして。内務省の通達ですけれ
ども各省協議をしておりまして、もちろん
厚生省も一枚かんでおる、一枚どころが非常に重要な部分にかんでおりまして、内務省の警保局あるいは管理局、
厚生省は健民局、勤労局といったところが一緒になりまして、そういった強制移住をさせられた朝鮮人の徴用工の皆さん方を朝鮮に送り返そうじゃないかという通達を出した。その通達には二つの意味があります。
一つは、送り先は釜山であるということ。九州じゃありません、釜山まで送り届けるということが
一つ。それからもう
一つは、送り届ける場合に、必ず引率者を事業所の責任においてつける。この二つが骨子であります。そういった形で、いま申し上げました三菱の被爆徴用工だけでなくて、全国的に送還が始まったものと思われます。
ですから、そういう意味からいけば、大部分の方は無事お帰りになった。木船を使われて行かれた方が中心になって大きな人的な被害が出たということでございまして、枕崎台風から約一カ月置いて阿久根台風というのがございました。ここでも大量の遭難者が出ておられるわけでございます、お気の毒にたえませんけれ
ども。
申し上げましたように、現地の人々、
調査に行った方々の証言によりますと、壱岐の場合は、船は湾内まで来ている、芦辺湾まで来ているのに、まだかつての憲兵の威光等があった時代ですから、敗戦が八月十五日でございましょう、九月の十五日ですから、一カ月しかたっていない。大台風でようやくどうにか避難できそうだというので入ってきたその湾内、上陸を拒んだ。これは数々の証言がございます。遺骨を発掘した皆さんの話を聞きますと、親子がしっかりと抱き合って、ですから、お母さんらしい遺体がかわいい子供さんを抱いたままの状態で埋葬してあるというような涙ぐましい話を聞きました。一体こんなことをほっておいていいのかという感じが私はいたします。
ちょっと話に出ましたから申し上げますが、最初は三菱と交渉されました。これは後で申し上げますが、未払い賃金その他補償の問題があるものですから、むしろ重点がそちらにいって、補償の問題と片づけて外務省も、
先ほどの答弁のようにいままでの交渉のあっせん等をしてきておられる。ついでに申し上げますが、三菱はもうけんもほろろです。そんなことはあずかり知らぬ。よく外務省が言葉に使います、もう日韓条約によって
請求権は放棄したんだからと。こういうことで、三菱は一切の債権も債務もありませんという形になっています。これも後で申し上げますが、ともかくそういうひどい仕打ちの中でこの問題が推移をしてきておるわけでございます。
どうでしょう、ここまでの事実は、どこか間違っておりましょうか。