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小野明君 国語の素材というものは、それはあらゆる面から多方面的に、国語であれ
歴史であれ取り上げられてこなければならぬと思います。しかしながら、この高史明さんのこれが、いま
文部省の差しかえ指示に会っておるということに対して、作家の李恢成さんの
意見として次のような談話が載っておるわけですね。
これまで
日本の
教科書に、北であれ南であれ在日であれ、
朝鮮の作家の文章が載せられたことは一度もなかったはずだ。高さんのエッセイを通じて今の青少年が在日
朝鮮人のものの見方を知る良いチャンスだったと思うのに、
教科書から消えるとするなら残念なことだ。私自身、中学
時代に
教科書で魯迅の「故郷」に触れ、中国や中国人を知る契機となった。
文部省の
調査官は反省し、高さんの文章を復活させてほしい。
こういう談話が載せられております。私も「失われた私の
朝鮮を求めて」というこの文章は非常に印象深く受けとめたわけですが、「私にとっての
日本語」と、次のようになっておるのですね。
もしも今日、この
日本の大地から一切の
日本語が追放されるという事態が発生したら、いったい何が起こるだろうか。恐らくすべての
日本人が激しい決死の反対に立ち上がり、未曾有の大混乱が起こるだろう。何人もそれを疑うことはできない。
こういう書き出しになっているわけです。高史明さんの父親は
朝鮮語しか話せない、高さんの兄弟は
日本語を強制されていますから
日本語しか話せない。そういう作家であり一人の人間としての苦しみ、
日本の
朝鮮統治に対する厳しい反省というか、事実に立ったエッセイが
日本の高校の国語の
教科書から消えるということは私自身も非常にこれは残念に思う。ぜひひとつこれは、植民地
統治をされた
朝鮮人の心情を描いたものとして私は残すべきではないのか、自国語を失わされた者の悲しみの一文として私は残すべきではないのかと、このように思いますが、局長はどのようにお
考えでしょうか。