○公述人(楠敏雄君) 全国障害者解放運動連絡会議の副代表をしております楠と申します。
私は、両眼の視力がゼロの全盲であります。満二歳のときに医師の治療のミスがもとで両眼の視力を完全に失ってしまいました。以後三十数年間全く光のない世界で生きてまいりました。
私の属しております全障連——全国障害者解放運動連絡会議は、一九七六年に結成されまして、六年目を迎えています。私
たちは障害者
自身が主人公となって、障害者に対する差別や偏見に対して、みずからが立ち上がってこれをなくしていく、そして私
たちも地域社会の一員として生活をし、働き、
教育を受け、そして人間らしい生き方をしていくということを目指して運動を続けてまいりました。
私
自身は、現在大阪府立の天王寺高等学校という目の見える生徒
たちの一般の高等学校の定時制で英語の非常勤講師として教壇に立っております。やがて十年目になりますが、いま中学、高校を合わせまして、日本で、全盲で普通の学校の教壇に立っているのは、私ともう一人、合わせて二人しかいない、非常におくれた状態です。すでに欧米では数百名を超える視力障害者が教壇に立っていると聞いています。
本日は、
政府が進めようとしております
行政改革ということに関しまして、とりわけ私
たち社会的弱者といわれる
立場から、この私
たちに対しても非常に厳しい政策が
実施される。すなわち福祉部門の
予算が非常に結果として切り下げられているという点に的を当てまして、大きな疑問を抱いているということを主眼にしてお話をしてみたいというふうに
考えております。
さて、ことしは国際障害者年ということで、障害者に関する行事や、あるいはマスコミ等の報道がさまざま展開されてまいりましたが、私
たち障害者の側から見ますと、何ら具体的な前進がないままもうこの年も終わろうとしているという感を強くしております。
政府の具体的な施策を盛り込んだ国内行動
計画というものが、いまだ発表されていないというふうに聞いております。もともと国際障害者年がつくられた背景としましては、障害者や児童、婦人、老人といった、いわば社会的弱者といわれる
人たちが、非常に長い間不利益をこうむっていた。したがって、これを一月も早く是正する必要があるという見地から決定されたというふうに聞いております。したがって、いま確かに
財政難が言われておりますけれ
ども、施策が非常におくれていて不利益をこうむっていた私
たちまでもが、まともにその対象にされるということについてはどうしても納得ができないわけであります。
すでに御
承知と思いますけれ
ども、ここで、一九七九年に発表されました国連の国際障害者年行動
計画の中で、特に私
たちが強調しておきたい点、御理解をいただきたい点をあえて紹介させていただきたいと思うんです。
まず最初、この行動
計画の前文に匹敵します概念、行動
計画の基本的な原則という部分について重要な点を少し紹介してみたいと思います。たとえばこの冒頭で次のようなことが言われております。国際障害者年の目的は、障害者がそれぞれの住んでいる社会において、社会生活と社会の発展における完全参加並びに彼らの社会のほかの市民と同じ生活条件及び社会的経済的発展によって生み出された生活条件の改善における平等な配分を
意味する平等という目標の実現を推進することにある。こうした
考え方は、すべての国においてその発展の水準のいかんにかかわらず同様に等しい緊急性を持って取り入れるべきである、というふうに冒頭に書かれています。さらに後半の部分で、社会は一般的な物理的環境、社会保険事業、
教育、労働の機会、さらにスポーツを含む文化的、社会的生活全体が、障害者にとって利用しやすいように整える義務を負っているのである。それは障害者のみならず社会全体にとっても利益になるものである。ある社会が、その
構成員の幾らかの人々を締め出すような場合、それは弱くもろい社会なのである。障害者はその社会のほかの者と異なったニーズを持つ特別な集団と
考えられるべきではなく、通常の人間的ニーズを満たすのに特別な困難を持つ普通の市民と
考えるべきである。障害者のための条件を改善する行動は、社会のすべての部門の一般的な政策及び
計画の不可欠な部分を形成すべきである云々、というふうに、この国連の行動
計画では、障害者に対する施策のおくれというのを、社会や国の義務として一日も早く克服すべきであるということを主張しているわけであります。
さらに、各国がとるべき
措置の指針として出されました国内活動、その中で二、三重要な点を紹介したいと思いますが、たとえばこういうのがあります。障害者の
教育及び雇用に関し、起こり得る差別的慣習を除去するために現存する法律を見直すこと、あるいは障害者が社会から孤立したり隔離されたりする事態を生み出すことなく、その生活する社会の必要な地位にとどまったり、任じたりするよう援助し励ますために、諸事業や給付金について再評価すること、さらには障害者のための
住宅に関しては、施設生活に類似した環境をもたらす隔離された
住宅計画を廃棄すること、また在宅の障害者及びその家族に対する適切な援助を保障すること。このように、ざっと見ましただけでも、この国際障害者年の中では、障害者に対する政策を早急に充実させるよう強く求めているわけであります。
しかし、残念ながら、現在
政府が打ち出しております障害者関係の施策、福祉関係
予算を見るときに、こうした国連の指摘に残念ながら沿った形で進んでいるというふうには思えないわけであります。具体的な点を二、三指摘させていただきますと、たえとば、障害者が地域社会で生活していくためには、当然のことながら日常生活の介助というものが必要であります。トイレや食事等、生きるためにどうしても必要な介助であります。これを
政府は家庭、家族やボランティアなどに頼る、主としてこれを利用するということを打ち出しております。しかしながら、家族は仕事をしなければならない、あるいは高齢になってきた場合に、とうていこの障害者の介護を家族だけでは見切れないという現実があります。ボランティアにつきましても、私
たちは人の善意だけを頼って生きていくことはできません。したがって最低限の基本的な生活に関しては、やはり公的な責任で保障していただかなければならないというふうに
考えております。
現在、ヘルパー制度というものがつくられていますが、これはいま大体一週間に二回、一回につき二時間、これでは買い物と若干の洗たくをしただけでおしまい、それも週二回しか来てもらえないという状態では、非常に私
たち障害者にとっては不安で不安でたまらないということになります。したがって、私
たちとしては、介護をぜひとも公的な責任として、国と地方あわせて、より積極的に充実をさせてもらわなければ、私
たちは生きていけないということを痛切に感じております。
さらに、
住宅問題も私
たちにとっては非常に大きな課題です。民間の
住宅では私
たちにはなかなか貸してくれません。また家賃も非常に高過ぎます。ところが公営
住宅は、私
たち障害者が入れるような仕組みにはなかなかつくられていない。車いす用の
住宅も、接近ようやくあちこちでつくられかけていますけれ
ども、まだまだ圧倒的に数が少なくて、障害者同士が競争し合う、しかもそれは命がけの競争をしなければならないという事態に置かれているわけであります。この
意味で、この
住宅の問題も非常に大きい。あるいは所得の問題も、御
承知のように現行の年金制度では、福祉年金は、いま月三万八千円程度ということですから非常に少ない。最低、当面私
たちは、せめて拠出制の年金の水準程度まで保障していただかなければ生活ができないということになります。もちろん私
たちは、できることなら働いて、そうして自分
たちの具体的な力を発揮して所得を得、生きていきたいと
考えている。しかしながら障害者に対する雇用の機会というものも非常に厳しい現実にあることは御
承知かと思います。
身体障害者雇用促進法という法律がありますが、これがなかなか実効が上がっていない。とりわけ民間の企業、特に大企業になるほど障害者の雇用率が非常に低いということを聞いております。一・五%の法定雇用率に対して、民間のとりわけ大企業は、いまだに〇・九%足らずという非常に低い状態にあります。大企業の方々はもっと社会的な責任というものを認識し、自覚していただかなければならないし、
政府の方もぜひともこのことに対する積極的な指導を求めたいというふうに
考えております。
教育の面ですが、
文部省のいわゆる特殊
教育というものに対する姿勢は、世界的な流れに非常に逆行した、きわめて硬直したものであるように思えてなりません。いわゆる統合
教育といわれまして、障害を持った子供も、一般の
子供たちと一緒に
教育をして、そのための機械、設備、条件を整えていこうというのが世界的な流れとしていま進んでいるにもかかわらず、
文部省はきわめて画一的に、障害を持っている子供を養護学校へ、盲学校へというふうに振り分けてしまうという姿勢が目立っています。東京の金井康治君という子供は、もう五年間、地域の学校へ行きたい、自分の文字盤を指さしながら必死で訴えているにもかかわらず、いまだに行けない。宙ぶらりんのまま放置されているというふうな状態が続いているわけです。私
たちは、地域社会で生きていく、そのためにも小さいときから健常児とともに学び合う
教育というものが必要ですが、一方では受験競争がどんどん進行し、そして
教育の荒廃というものが極に達しているわけであります。
文部省も、そうして各方面の方々も、みんなこの
教育の荒廃を何とかしなければならないとおっしゃいますけれ
ども、実際には具体的な進展は見られないように思います。しかし、障害を持った子供が一般の
子供たち、健常児と学ぶことの中で障害児に対する健常児の理解が深まるだけでなくて、健常児一人一人の
思いやりの気持ちといいますか、助け合いの
教育、ともに育ち合う
教育というものが少しずつつくられつつある、この点にぜひ着目をしていただきたい。また本当の
意味で一人一人の個性や能力を大切にする
教育というものを、もっともっと充実させていただきたいと思います。そのためにも、一人の
先生が四十五人の
子供たちを見るということは、まさに非常な矛盾だと思います。四十人
学級制というものが
計画されていながら、これまた
行政改革のあおりの中で
実施が見送られると聞いておりますけれ
ども、これは早急に実現さしていただきたいし、もっともっと小人数で、もっときめ細かい
教育というものが保障されない限り、ますます
子供たちは落ちこぼされ疎外されていくのではないか、そしてその中に私
たち障害者はとうてい入り切れないということになるように思えてなりません。
まだまだ申し上げたい点はたくさんありますけれ
ども、いずれにせよ私
たち障害者は、いま毎日必死で生きょうとしています。寝たきりの障害者であっても、たとえ社会に対して具体的に役に立つということはできなくても、とにかく毎日必死になって生き続けています。この必死の生命、必死の生き方を、ぜひとも一人の人間として認めていただきたいというのが私
たちの切実な願いであります。
先日、どこかの講演の場で
渡辺大蔵大臣がおっしゃった言葉の中に、
大蔵大臣は
奨学金制度を例にしながら、能力のない者に金を使うのはむだであるというふうな
内容のことをおっしゃったように伺って、非常に私は怒りを感じました。もしそうした趣旨をそのまま発展させるならば、社会の役に立たないような障害者に金を使っても仕方がないということになるのではないでしょうか。
昨年私の友人がポーランドへ行ってきまして、いわゆるアウシュビッツといわれる、あの第二次大戦中の収容所を視察をしてきましたところ、そこにたくさんの松葉づえや義足が展示してあったということを聞いて非常にショックを受けました。第二次大戦中にヒットラーはユダヤ人と一緒にたくさんの障害者をガス室へ送り込んだということを聞いたことがあります。したがって私
たちは、理屈ではなくて戦争というものに非常な恐怖を感じます。その足音、雰囲気を聞くだけで、何か私
たちは本当に直接的にも間接的にも切り捨てられ抹殺されてしまうのではないかという危惧を非常に強く感じるわけであります。
したがって私
たちは、軍事力を強化して、そして防衛力の競争をして、そして直接戦争する意図はなかったにせよ、まかり間違えば本当に戦争の危機にいってしまうような、そういう政策ではなくて、本当に平和を実現するための努力というものをしていただきたいし、不公平な税制というものを改めていただいて、そしてこれまで不利益をこうむってきた私
たち、いわば社会的弱者、差別を受けてきた者
たちに対する福祉や
教育というものを、一日も早く、むしろ充実の方向で進めていただきたいというふうに
考えております。
以上で、私の公述を終わらせていただきます。