○岡田(正)
委員 じゃ、ちょっと
委員長、資料を……。
そこで、いま大臣のお手元に提出をいたしましたのは、この新
方針をいま大臣にここで改めて御確認をいただきましたけれ
ども、その新
方針に全く背いておるのではないかと思われるような意外な
事件が発生をしております。しかもこの新
方針を発表なさったときには、時あたかも難民条約批准の問題が
国会で論じられているときでもあり、その難民条約の批准も事なく終わり、ようやく国連の方にも認められまして、来年の一月一日から正式に
わが国において難民条約は効力を発することに相なったわけでございます。こういうようなあと一カ月先という大事な時期に起きた
事件でありますので、特にこの際お尋ねをするのでありますが、いま差し上げました資料は、横浜の入国者の収容所の中にタック・ホア君とバン・ブン・フ君というお二人の青年が、現在強制退去処分に基づきまして収容されておるのであります。ところが、この二人というのは、だれが考えてみましても、いま差し上げました資料をごらんになりましても、この五月二十二日の法務
委員会で御発表になりました新
方針の在留特別許可を与えるべきインドシナ流民の要件を明らかに充足していると認められるものでございます。これは非常に重大な問題でありますので、本問題につきまして四点にわたり冒頭に当局の御意見をただしたいと思うのでございます。
〔
委員長退席、熊川
委員長代理着席〕
さて、資料に基づいて申し上げますが、資料を差し上げておりますから少し早口で申し上げたいと思います。
まず、この該当者の二人のうちバン・ブン・フ君でございますが、この人は祖父母以来三代目の華僑でありまして、彼は一九五五年十二月九日にベトナムにおいて次男として出生をされた人でございます。御両親の名前は省略します。
次に、きょうだいはその人を含めて十人もおります。現在、両親と八人のきょうだいたちはベトナムの経済区で強制労働をさせられております。一人のお兄さんは香港におきまして難民と認定をされ、在留資格を与えられております。また、おばさん一族の六人は現在オーストラリアに難民として認定をされ、いま定住をいたしております。両親、きょうだい、そのおばさんとは、現在本人は手紙で連絡がとれているという
状況であります。
彼はベトナムにおいて、それぞれ小学校、中学校、高等学校をりっぱに卒業をいたしております。
十七歳になった一九七二年に、両親から、軍隊に入り戦争で死ぬくらいならベトナムを出なさい、平和になってから帰ってくればよいと説得をされまして、両親の言に従って一九七二年の八月、貨物船で香港に密入国をしたのであります。香港におきまして約一年半ほどビニール工場で働いておりましたところ、一九七四年の十月ごろ、父から台湾でこの際勉強してはどうかというお勧めを受けました。そこで、彼は香港の旅行業者にお願いをいたしまして、台湾へ渡ったのでございます。ところが、ベトナム戦争の激化によりまして、ほどなくして父からの送金もとだえ、一九七五年四月にはサイゴンが陥落したことを知り、もうベトナムには帰れないということを彼は知ったわけです。
彼は、サイゴン陥落によりまして、父からはもはや送金の期待ができないということを
理解をいたしましたが、父の意に従いまして何とか勉強を続けたいと考えまして、耐乏生活をしながら、一九七五年の七月、台湾の連合考試を受けまして僑生大学の先修班に入学いたし、わずかな蓄えで食べつなぎながら一九七六年の三月まで勉強を継続しておりましたが、これ以上資金が続かない、不可能という状態になりました。
そこで、彼は
日本で自分の将来を築くことを決意いたしまして、身の回り品を売るなどして旅費をこしらえ、一九七六年の四月、第一回目の来日をしておるのであります。ビザの更新のためその後二回ほど台湾に渡った後、一九七八年十一月三日から今回の逮捕に至るまで、
日本国内に不法残留をしていたものであります。
彼は、逮捕されるまでは土方をやっておりました。これは本人が言っておることでありますが、夜、水商売などをしていては自分という人間が将来だめになってしまうというので、昼間の仕事をすることを思い立ったというのでございます。
彼は、給料日に食事をいたしまして、その後道路を歩いておったところ、
職務質問を受けて逮捕された。本年の六月二十九日、入管令、外登法の違反で起訴されまして、八月二十日に
判決が出ました。それは懲役七カ月、執行猶予三年であります。十月十三日、彼に対して退去強制令書が発付されたのでございます。
彼は、逮捕時におきまして、ベトナムの身分証明書、出生の証明書、両親、おばからの手紙などを全部提出をしております。入管は当然のことながら彼がベトナムの難民であることを知っておったはずであります。彼が特在の
条件を満たすことも知っておったはずであります。
彼は横浜入国者収容所で「流民」の本を読みまして、
安藤神父に手紙で連絡をとりまして、十一名の弁護団の援助を得て、ことしの十月二十六日、法務大臣に対して再審情願を申し出をしたのであります。
という経緯でありますが、これを簡単にまとめてみますと、バン・ブン・フ君は、第一に、彼には台湾に親族とか親しい友人などは全くおりません。第二は、台湾では国交の
関係等によりましてベトナムにおる両親たちとは連絡をとることができません。第三は、彼は全く台湾で生活をする気持ちは持っていなく、
日本に定住することを強く希望をいたしております。第四に、彼は在留特別許可を付すべき典型的なケースと認められるのであります。なぜならば、両親、きょうだいが現にベトナムのサイゴンに居住し、一人のきょうだいは香港で難民として定住をしており、おばの一族はオーストラリアに難民として定住をしておる。彼はまさに難民であります。適当な行き先があるはずがありません。であるのに、なぜ強制退去をさせられるのか、私はその理由を知りたいのであります。
大臣のお手元にもいま差し出しましたが、ここに本人が書いた
日本語の手紙があります。これは実にりっぱな文章でありまして、われわれ
日本人が顔負けをするような文章でございます。ちょっと読んでみますと、
安藤神父さん
きょうも先生は私のような不幸な難民、流民問題に取り組み、苦労されていられると思います。衷心より感謝いたします。
私は、バン・ブン・フでございます。一九五五年十二月九日、ベトナムでチョロンというところに生まれ、十七歳まで育ちました。学校はチョロンの華僑中学校を卒業いたしました。
一九七二年七月ごろ、ベトナム戦争の真っ最中、父母の勧誘により命がけで香港に密入国、避難をいたしました。一年半ほど労働をそこでいたしました。
一九七四年十一月ごろ、父母の言うとおり、私も勉強を続けたいので、台湾に行って、僑生大学先修班に入学をいたしました。
一九七五年四月三十日、ベトナムではすでに共産軍が支配しつつあり、共産主義になじめない私は、母国の将来に希望を失い、送金もとぎれて学校も続けられなくなり、父母との書信は一切なく、消息を聞くことができなくなり、悩みも大きく、生活も苦しくなりました。
一九七六年の四月ごろ、台湾旅券を持って
日本行きの観光ビザを申請し、第一回目の
日本人国をいたしました。
一九七六年九月ごろ、同じ手続を申請、第二回目の
日本入国をいたしました。
しかし、
日本に行ったり来たりで、父母、きょうだいを助けることはできませんでした。
家族のために、平和で自由な国
日本に住めば、父母、きょうだいと書信の往来だけでも自由にできますし、薬品等もベトナム家族に送ることもできますので、一九七八年十一月三日、三回目の
日本入国を果たしました。
日本に住みつく決意で、今度は初めから不法残留になるつもりでした。
日本ではパブ、レストラン、土方等を勤めました。
約二年半ほどその生活をしています。家族との書信を受け取ったり、薬品を送ってやりました。
一九八一年六月六日、私は池袋の警察に逮捕されましたが、二十日間警察署に勾留されました。
一九八一年六月二十九日、東京地方
裁判所刑事第十七部三係(外国人係)において、私に対する外国人登録法違反、出入国管理令違反
事件につき起訴されました。
一九八一年八月二十日、第一審
判決が言い渡された。私の結果は懲役七カ月、三年間の執行猶予の有罪
判決でありました。
一九八一年八月二十日、私は入管に移されました。私は
日本在留希望を申し出たが、九月三日、入国審査官より入管令違反の認定を受け、私はこの不服申し立てをしたが、口頭審理の上九月二十二日、特別審理官の判定があり、さらに私は法務大臣に対する
異議の申し立てをしたが、九月二十八日、横浜収容所に移されてしまいました。
いままでの収容所の生活は毎日失意の中で日を送っていましたが、今日では
安藤神父さんのよい消息を唯一の頼りとして生きております。
以上、申し上げましたが、私の父母、きょうだいが一日も早く自由のある国を探して出ていくことができるよう力を合わせてがんばることが私の人生においての何よりも重大な
義務だと感じています。最近オーストラリアのおば(これは難民で香港に入ってオーストラリアに行った人ですが)の手紙を受けましたが、ベトナムの家族がオーストラリアに移住する手続を申請したが、旅費がなくて移住ができないという内容でありました。
安藤神父さんも御承知のとおり、台湾はいまベトナムとは国交が断絶しています。もし私が台湾に強制送還されれば、父母、きょうだいは虐政共産統治下なので、人間の地獄のようないわゆる経済区といった強制労働場に行かされることは明白な事実であり、人間はだれでも家族と結びついて生活をしたいという本能を持っていますが、私の場合には会いたくても会うこともできず、助けてやりたくても助けてやることができない宿命を持っているのであります。でも、自由の
日本に住めば、せめて遠く離れた父母、きょうだいの消息でもひそかに聞くことが許されるのです。
私はいま頼るべき人もなく、だれ一人
相談の相手になってくれる人もいません。また、このような私の事情を代弁してくれる方もいません。
以上申し上げたように、私は絶対に台湾には帰ることはできないつらい立場でありますので、
日本の法務省当局が人道的な見地で
処理してくださるように私の進路を指導してくだされば、私の人生が続く限り、この自由の国のありがたさを感じながら生きたいと思います。
以上申し上げたことをよろしくお願いいたします。
安藤神父さんには一度面会したいのです。私の事情を代弁をしてください。
きょう私は品川の入管に移されました。法務省の裁決する在留許可と不許可は十八日までに決まるということです。だから一日も早く面会に来てください。
これが十月十二日に彼が収容所の中において書いた手紙でございます。この手紙を読まれまして大臣は一体どういうような感慨をお持ちになりますか。この点もお尋ねをしたいと思うのであります。
さらに、いま一人のタック・ホア君でありますが、これは南ベトナムの旧サイゴン市、現在はホー・チ・ミン市でありますが、サイゴン市内のショロンで、両親の名前を省きますが、長男として一九五二年一月十九日出生をいたしました。両親はお二人とも華僑であります。
父は、彼が五歳のとき、一九五七年に死亡されました。このため、彼は年少のころより働くことを余儀なくされまして、夜間の高等小学校に通っておったのであります。彼には現在、生存する親族としてはお母さん、お姉さん、そしてお父さんの違うお姉さんの三名がおり、右三名はいずれもベトナムのホー・チ・ミン市に居住し、生活をしておるのであります。
なお、入管が彼の退去強制先と決めた台湾には、彼の親族は全くおりません。また、親しい友人もおりません。
彼は、華僑
国民学校あるいは高等小学校あるいはベトナム語の学校等をそれぞれ卒業いたしております。
彼は、卒業した十五歳のときから、お父さんがおりませんから一家の柱としてサイゴン市内の電気屋さんで働いておりました。
一九六八年になると、ベトコンがサイゴン市ショロン地区にもゲリラ攻撃を行うようになり、年を重ねるごとにサイゴン市内におけるゲリラ攻勢が激化しました。彼の一家にはお父さんがおらず、彼が唯一の男性であったために徴兵を免れておりましたけれ
ども、人民自衛隊が組織されたため、一九七三年になると彼にも右人民自衛隊への入隊が強制されるという事態になってきました。
お母さんのタン・ホアンさんは、ベトナム戦争は遠からずして南ベトナムの負け戦になると
判断をし、彼が人民自衛隊に入隊してベトコンと戦ったら、仮に生き残ったとしても銃殺等の極刑を受けることは必至であると考えて、彼をベトナムから脱出させなければならないと決意をしたのであります。そしてお母さんは、ラオスのビエンチャンの旅行業者を通じまして旅券を入手し、彼を説得してベトナムを脱出することを決意させたのであります。
母親の説得を受けてベトナム脱出を決意した彼は、一九七三年の十一月、メコン川を船で渡りましてカンボジアに脱出し、飛行機でラオスのビエンチャンに向かったのであります。彼は、旅費を蓄えるためにビエンチャンの中華料理店で働きながら、ベトナムの
状況をうかがっておりましたが、一九七五年四月、サイゴンはついに陥落、ベトナムに帰ることは不可能となりました。そこで、彼は、
日本に渡って新生活をしたいと考えまして、一九七五年六月ラオスを出国し、タイ、台湾を経由して、一九七五年十月ごろ観光ビザで
日本に入国したのであります。
彼は、観光ビザを数度更新した後、一九七六年四月ごろ韓国に一度出国し、観光ビザを得て同じ月に
日本に再入国、そのまま不法残留者となったのであります。右の間、彼は中華料理店で働きまして、病身のお母さんに薬やお金をせっせと送っておったのであります。
ところが、一九八〇年の二月十四日、入管により逮捕されまして、同年の四月十四日、退去強制処分を受けて台湾に一度送還されました。
しかし、彼は、台湾には親族も友人もおりません。国交も断絶しております。ベトナムの手紙の連絡もできない状態でございましたので、一九八〇年八月ごろ台湾
政府より旅券の発給を受けて、九月再び
日本に入国した。観光ビザで入国した彼は、一九八一年の一月台湾に出国、四月にまた観光ビザで
日本へ入国。
彼は、四月入国後、病身の母親に薬を送り、あるいはまた自分自身の生活のためにも中華料理店で働いておりましたが、本年の八月十七日ごろ、入国警備官の捜索により逮捕された。
彼は、逮捕されて入管で取り調べを受け、十月十三日、資格外活動をしたということにより退去強制令書を受けたのであります。
彼は、入管の横浜収容所に収容中でありますが、右収容所の中にありまして「流民」という在日インドシナ流民に連帯する市民の会の本を読みまして自分も流民であることがわかり、
安藤神父に連絡をとり、ことしの十月二十六日、弁護士の皆さんの応援を得て、いまお手元に差し出しておりますような法務大臣に対する再審情願の申し出をしたという経緯であります。
〔熊川
委員長代理退席、
委員長着席〕
これを一度まとめてみますと、このタック・ホア君は、彼は台湾旅券の発付を受けた者でございますけれ
ども、台湾には親族も友人もおりません。出国しても適当な行く先がないというべきではないでしょうか。そして、彼の場合は親族がすべてベトナムにいるため、台湾にいては国交の
関係で親族らとの連絡がほとんど不可能となる点は重大な問題であります。彼は、昨年退去令を受けて、ほどなくして新しい旅券を入手して
日本に再入国していますが、これは彼が台湾で生活できないからにほかなりません。逮捕時に、彼はベトナムの身分証明書、出生証明書、母親のベトナムの身分証明書の写し、父親の死亡証明書、母親と姉からの手紙などを入管に提出をしております。したがって、入管は当然のこと、彼がことし五月二十二日の法務
委員会において特在を付与すべきインドシナ流民に関する要件を満たすインドシナ流民であることがわかっていたにかかわらず、なぜ彼にも退去令を出したのか、ぜひとも伺いたいのでございます。
以上が二人の
事件の経緯でございますけれ
ども、いまこの二人は再審情願書を法務大臣と主任審査官に対して提出をしていますが、この審査に当たっては十分に人道的な配慮をして、国際社会において尊敬されるような
判断をしていただきたいと思うのでありますが、大臣の御
見解を伺いたいのであります。