○大橋
委員 いろいろ御
説明なさいましたけれども、要するにわが国の年金
制度あるいは医療保険
制度も、このままの状態でいくと崩壊せざるを得ないという非常に危機意識が持たれております。この辺でもう少し総体的な立場に立って、根本的な、いわゆる抜本
改善をやる必要がある、これはもう識者の一致した
意見です。
私は、なるほど根本的な、いわゆる抜本的な
改善は必要だと当然思うわけでございまして、わが党といたしましても、年金
制度ないしは医療保険
制度の根本的な改革の政策はすでに公表いたしております。が、現実問題とこうした理想とはかなりギャップがあると思うのですね。たとえば、医療保険
制度にいたしましても、現実に十三兆円という莫大なお金が動いているわけですね。そういう
制度を、白紙に絵をかくような形での抜本的
改善はまず無理だと思うのですね。年金
制度しかりですよ。いずれにしましても、その
制度ができたときからの歴史があり経過があります。あるいは期待権、既得権があるわけですから、そういうものを無視して、いかなる
改善も私はできないと思うのですね。ということになれば、各党から出ているいろいろな政策の案があるわけでございますが、そういうもののいわゆる共通点といいますか、そういうものを探り出して、これならば何とかいけるのではないかというところに焦点をしぼっていかない限りは、いつまでたっても私はこの問題は
解決しない、こう思うのです。
たとえば、年金などは、わが党はいま言った期待権、既得権、それを尊重しながら、どうやればいいかということで二階建て年金
制度、すなわち基礎
部分において各
制度が共通できるものをまず確立しよう、その上に
制度間におけるプラスアルファを積み上げていくのだという二階建て年金を考えました。また医療保険の問題についてもすでに発表しておるとおりでございますが、特にきょうは老人保健の問題ですから、医療問題に入っていきたいと思うのでございます。
わが国の医療保険
制度は、御存じのとおり、国民皆保険
制度になったのは
昭和三十六年、それは地盤の緩いところに大きなビルを建てたような感じではなかっただろうか。言葉は汚いかもしれませんけれども、いわゆる欠陥だらけの医療
制度の上に皆保険体制を急いだ、ここに私は問題があるのじゃないかと思うのですね。
それからいやおうなしにそういう姿で進んでまいりまして、やはりこれは根本的な
対策が必要だ、抜本
改善が必要だという声が至るところから出てきたようでありますが、
昭和三十七年の八月ですか、
社会保障制度審議会が行った答申、この答申を機に、医療保険
制度の抜本的な検討
段階に入ったと言われております。
それから二年たちまして、
昭和三十九年の五月に、
厚生省のいわゆる抜本改革の可能性を検討するための試案要綱というものが、当時の小林厚生大臣に提出されたはずであります。そして、そこまで考えておりながら、その次の年の四十年二月には、
社会保障制度審議会、社会保険
審議会に、
厚生省は抜本
対策を諮問するのではなくて、単なる保険財政のいわゆる赤字
対策案を諮問しております。抜本
改善をやらなければならないのだとわかっておりながら、手がつかないわけですね。そして両
審議会からは、こんな場当たり的な
内容ではだめだと、きわめて厳しい指摘が返ってきているはずです。
しかしながら、御存じのとおりに、医療保険をめぐる医療費というものは、もうとにかく急増していきまして、保険財政上からも言われるところの抜本
改善は早期に
実施すべきである、こうなってきたわけです。まさに天の声になったわけですね。
そして
昭和四十一年に入って、いまの総理大臣である鈴木さんが厚生大臣をやっていらしたのですよ。そのときに、
昭和四十二年度を目途に抜本
改善を
実施するとの方針を明らかにして、各
関係団体からの
意見をどんどん聴取なさったわけですね。これはなかなか真剣に取り組んでいらっしゃるなと、私は一市民としてそういう姿を拝見いたしておりました。ところが、聴取をしたけれども、それがまとまらないうちに、いわゆる黒い霧解散が起こったわけですね。
昭和四十一年十二月二十七日、衆議院は解散して総選挙に突入するわけでございますが、実は私はその選挙で初出馬して当選をさせていただき、この
国会に来たわけです。そしてこの
社会労働委員会に所属して、現在では他の
委員会にまた入っておりますけれども、ほとんどこの社労で仕事をしてきたわけです。
ちょうど
国会に参りまして、
昭和四十二年は政管健保の累積赤字が二千億円、大変だということで
厚生省も案を出してきましたけれども、それは臨時特例
法案というものでしたよ。これまた場当たり的赤字
対策案であったわけでありまして、もちろん野党の厳しい反対に遭いまして、これは廃案になるのです。私はなぜこれをこのように詳しく言っているかというと、後の質問につながるからです。よく聞いておってくださいよ。これは廃案になるわけです。
ところが、引き続いて第五十六臨時
国会、いわゆる健保
国会というものが開かれたのですけれども、廃案になったその案がそのまま提案されたわけです。当然与野党が真っ向から対決したわけです。
国会は乱闘
国会にまで発展しました。しかしながら、結果的には二年間の時限立法ということで決着されたわけですが、このときの与野党の攻防戦で、社会党の当時の
委員長さん、書記長さんが更迭されるというようなお気の毒な事態も発生したわけです。
とかく医療問題、医療
関係というものは、医師と患者とそして支払い機関との利害が微妙に相反することから、その
意見の一致というものは非常に困難です。どこかにしわ寄せがいくわけですね。だれかがどろをかぶらなければならぬわけです。そしていわゆる三者三泣き、痛み分けというようなかっこうで決着されることが多かった。特に私が言いたいことは、医者の代表である医師会、それから支払い団体の大御所、
組合健保、健保連、この二つは
意見は大きく食い違うことが多いわけです。しかも、お互いに甚大な影響力を持っております。それだけに取り扱いが複雑ですね。
何はともあれ時限立法ということだったものですから、
政府も与党の
自民党さんもいよいよ抜本改正やらなきやならぬなと、ぐんぐん追い詰められてきたわけです。ところが、その時限立法が
昭和四十四年の八月、期限切れの時期になったわけですけれども、このときも抜本改正案は出ないで、単なる延長
法案が出てきたわけですよ。またしても責任追及、大混乱ですよ。しかし、結果的にはこの特例
法案が、本法、いわゆる
健康保険法の一部改正という形で、成立はしたのですが、そのときの厚生大臣が
斎藤さんです。もう亡くなられたですけれども、その厚生大臣が責任を感じて、いよいよ
社会保障制度審議会、保険
審議会に抜本改正を諮問するわけですよ。
そしてその両
審議会が答申を出したのが、
制度審が四十六年の九月です。社会保険
審議会は四十六年の十月ですね。これはまさに抜本改革の基本的な
内容、方向をも明らかに示したすばらしいものです。まさに抜本改正のレールは敷かれたと言っても間違いはないと私は思うのです。そういう中に、老人医療のあり方も当然その方向が明示されておりました。こういうすごいりっぱな答申が出たにもかかわらず、
政府はなお
対策に乗り出さなかったですよ。
そして、
昭和五十二年の十一月、
国会審議に各野党からも徹底的にそこの問題を追及された。そのとき、いまの大蔵大臣をやっている渡辺さんが厚生大臣で、わかりました、もう医師会とか何会とかかに会とか
関係なく、私の一存で抜本
改善の道を明示しますと言って、その追及に答えて出てきたその答弁、あるいは方向というものが、十四項目にわたるものでございました。その走り書きをいまここに持っておりますけれども、私は、時間があれば、この十四項目が果たしてどんなに
実施されていったかを聞きたいところですけれども、この十四項目一つ一つに、
実施時期、あるいは立法しなければならぬものには立法時期というものまでも明示されているわけです。いいですね。
特にきょうは老人保健問題ですからそれを申し上げますと、十一項目目に「
老人保健医療制度の整備」、これはまさに創設ですから、立法時期は「五四年度以降」としてあります。そして
実施時期も「五四年度以降」としてあります。ということは、五十四年度にはやりますよという強い
意思がこれには含まれていたことは事実です。しかしながら、その公約どおりには
法案は出てこなかったのです。前
国会の最終
段階に、延長されたその
段階でやっと出てきて、継続
審議。そして今度、いまこうした
審議に入ったわけでございますが、なぜこの約束は守られなかったのか、長引いたのか、まず聞きたいと思います。