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参考人(西本三十二君) 西本であります。
今日、世界的に見て、先進国でも発展途上国でも
教育上最も大きな関心を寄せられておるのは
放送大学であります。それは、科学技術の高度に開発されつつある激動の時代にふさわしく
大学教育を大いに革新させるとともに、それを契機にして十八世紀から十九世紀、二十世紀にかけて発展してきた
教育制度、
学校制度、これは主として教師と生徒とのフェイス・ツー・フェイスの密接な
関係、それから図書館を重視してプリンテッドメディア、書物を
教育の上で非常に重視するということ、そうして四つの壁で仕切られておる教室の中でやるというような閉鎖性の非常に強い
学校教育という、そういう固定観念に縛られた
学校教育、
大学教育、
教育制度というものを見直し、変革するために
放送大学は大きな
役割りを果たすものであるというのが、
放送大学が諸外国において、また
日本においてもここ十数年来考えられておる最も重要な問題なのであります。
政治家として
放送大学を最初に提唱したのは、すでに皆さんも御
承知のことと思いますが、英国労働党の党首ハロルド・ウィルソンであります。第二次世界大戦中、ウィルソンは英国の挙国一致内閣で炭鉱の国有化を実現するなど戦時内閣で大きな実績を上げたのでありました。戦争が終わって、海外に出ていた、また前線から帰ってきた兵士たちの中から
大学教育に対するあこがれの非常に強いことを感じ取ったのであります。また第二に、戦後の高度の科学技術の発達に伴って、労働者を初め国民のすべてが
大学レベルの
教育を必要とするということ。そして第三には、その後、英国において急速に発達した
テレビというものの
教育的可能性というものを認めて、この激動の時代に必要なのが
放送大学であるということを痛感したのであります。
ウィルソンは、その後、政府の役人をやめました。彼はオックスフォード
大学を卒業し、
大学で
学生を指導して、戦時中は役人としてホワイトカラーのエリートであったのでありまするが、一九六三年、いまから約十八年ほど前に労働党に入党して、そうしてやがて労働党党首に選ばれ、そうして一九六四年に総選挙がありましたが、その前の年の一九六三年にグラスゴーで開かれた労働党大会で
放送大学という、すなわち
ユニバーシティー・オブ・ジ・エアという構想を発表したのであります。ところが、これは
イギリスにおいても非常に耳新しいことであって、労働党自身もこれを労働党の重要な
教育政策に取り上げるということにちゅうちょをしたのであって、ウィルソンの個人的と申しますか、創意工夫であるというふうに初めの間は考えておったのであります。
それで、一九六四年の総選挙で労働党は多数党になりました。しかし、それは野党よりもわずかに三議席多いだけであったのであります。しかし、それでもこのウィルソンは、皆さんも御
承知かもしれませんが、ジェニー・リーという、労働党の領袖であって国民保健政策を実施した有力な議員の未亡人でありまするが、この人を
文部省の政務次官にして
放送大学の推進に当たらせたのであります。そうして第二次ウィルソン内閣においては、さらにジェニー・リーを国務大臣としてもっぱら
文部省の
放送大学推進に当たらせてきたのでありまするが、御
承知のように、
イギリスというところはオックスフォード、ケンブリッジによって代表されておるように、アカデミズムと申しますか、いわゆる象牙の塔式な
大学ということを尊重する風潮の強い国でありまするから、労働党の人々も、もちろんそれから保守党の
人たちも
放送大学というのに対しては余り
理解がなかったのでありまするけれ
ども、ウィルソンとジェニー・リーの非常に強力な推進によってこれを実現することに努力したのでありまするが、やがてそれが
オープンユニバーシティーということになって、ウィルソンの考えておったことの約五〇%ほどしか実現しなかったのであります。
先ほど来、お二人の
参考人から
オープンユニバーシティーのことについて
お話がありましたが、少し
イギリスの
放送大学それから
オープンユニバーシティーの変わったいきさつについては、まだ御
研究の足りないところがあるように思うのでありまして、これは後ほど質疑応答のときにまた
機会を得ていろいろ
お話し申し上げたいと思うのであります。
そして一九七一年には保守党の政権でありました。そのときの
文部大臣はサッチャー夫人であります。いまの英国の首相でありまするが、保守党のサッチャー夫人とそれから労働党のジェニー・リー女史、これはベバンの未亡人でありまするけれ
ども、この二人は英国の
国会においては女性議員として、女傑と申しますか、闘士と申しますか、非常に強力な人であって、この二人の間の
放送大学、
オープンユニバーシティーについてのいろいろの
関係は、話せば非常におもしろい問題があるのでありまするけれ
ども、これはきょうの本筋ではないので省くことにいたしまするけれ
ども、
政治家の皆さん方にとっては非常に興味あることであろうと思うのであります。
そこで、私はただいま配っていただきました表によって、ひとつこの
オープンユニバーシティーというものがどういう機能を英国において果たしておるかということを第一表においてごらんいただきたいと思うのであります。
第一表は、一九七一年から昨年まで、志願者、入学者、それから卒業生というものの表を、これを
オープンユニバーシティーから直接取り寄せて昨年の
放送教育学会で発表した資料でありまするが、一等最後のところでペンで書きましたところをまず見ていただきたいんでありまするが、ともかくもこの十年間に卒業生が約四万人出ておるんであります。そうしで、
オープンユニバーシティーというのが、われわれの考えておる
放送大学あるいはウィルソンが考えたところの
ユニバーシティー・オブ・ジ・エアというのが半分しか実現できなかったにしても、年々これだけの効果を上げておるのであります。これが世界の
教育者の非常な興味を引き、発展途上国においても特にその
オープンユニバーシティーを見学に出かけていくと、あるいはアメリカでさえもニューヨークに、このオープン・
ユニバーシティー・ファウンデーション・イン・ニューヨークというようなのをフォード・ファウンデーションの協力によってつくって、アメリカの
大学においてさえもこれを活用しようというような動きが出ておるのであります。
もともと
オープンユニバーシティーの始められたときには英国人に限ると、二十歳以上の英国人であって
——二十歳というのは、
イギリスの
大学制度は
日本と違いまして、
大学入学が二十歳なんであります。英国人に限ると言っておったのが、六、七年後に海外においてもこの
オープンユニバーシティーの
教育活動を広げようとするような方向に進んできたのでありまして、ある人は、これは英国が昔大英帝国として植民地を世界の隅々にまで持っておった、あの植民地の失地回復のために
オープンユニバーシティーによって英国の文化、
教育を平和のうちに進めようとして大きな期待を持っておるのだというように言うのでありまして、この表につきましても後ほど質疑応答の時間に詳しく説明申し上げたらいいと思うんであります。
第二表は、これも皆さん方すでに
文部省から配られました
パンフレットによって御
承知であるのを拝借したのでありまするが、その最後のところに、
日本ではともかくも
放送大学において勉強しようとする者、
学生の数が四十五万二千人あるというんであります。
日本は英国の二倍の人口を持っております。
大学の数は短大を入れるというと四、五百に上るんであります。
イギリスの
オープンユニバーシティーは英国における第五十番目の、
大学として発足したのであって、
大学数が少ない、
学生も少ない、少ないから
オープンユニバーシティーに来るのが多いという見方もありまするし、しかし
イギリスは
日本ほど
大学教育を国民が受けようとは余りしないと、それに反して
日本人は
大学教育を受けたいと。
日本人は、最近の調査によりまするというと、八〇%以上の人が中産階級であるという自負心を持っております。中産階級として生活に多少余裕があれば子供を
大学に送りたいというのは、これは親心であります。そこで……