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竹本委員 銀行法がいよいよ衆議院における最後の審議の過程に入ったと思うのでございますが、この
法案がまとまって今日ここに至るまでにはずいぶん長い道のりがあったと思います。その間
大蔵省は、
銀行局も
証券局もあるいはその他の部局も一体になって大変な御努力であった、非常な御苦心があったと思いますので、その点に関しましてはまずもって深く敬意を表しておきたいと思います。
ただ、いずれにいたしましても非常に長丁場でありまして、私が最初に予算
委員会で質問したのは七年前、
金融制度調査会で
答申が出てからでも二年、去年の、
法案がややまとまってからでも小一年、そういうことでこれはずいぶん長い方の記録ではないかと思うように、大変長い道のりでございました。先ほど
委員部か事務局かわかりませんが、こういう資料をもらいましたが、五月六日現在のベストテンとして審議時間が大蔵は百十六時間十五分、予算は百十二時間五十二分、その他は大体五十時間。こういうことで、ベストテンという言葉はちょっとおかしいと思うのです。ワーストテンではないかとばくは思いますが、少なくともこれはロンゲストテンではある。そういう長い長丁場をえらい御苦労を願ったということで敬意を表するわけであります。
そこで、新聞等が
銀行法に対していろいろな批評を下しております。一部には三方一両損だというようなことを言っておる。しかし私に言わせますとこの
法案がまとまれば三方一両得である、まとまらなかったらそれこそ一両損である、こう思うのですね。新聞というのはおもしろく書きますから、必ずしも適正でないかもしれませんけれども、いずれにいたしましても、これは関係各
方面、
銀行界も
証券界も、もちろん
大蔵省も非常なベストを尽くして、それぞれが譲るべきところは譲ってまあまあ
一つの成果を得たのであるという
意味において私は評価をしておるということを申し上げたいのであります。
ただその場合に、私どもが感じとして受け取ったことを申し上げますと、
一つは
大蔵省に対して民間の不信感というものが相当強いということをちょっと感じました。それからもう
一つは、世の中はどこでもそうでありますが、この問題をめぐっていろいろの論議の過程でずいぶんわからぬことを言う者もおるものだということも感じました。
そういう
意味でちょっと私の感じたところで
大臣に伺ってみたいと思いますのは、たとえば監督規定がいろいろ変わったということになっているわけでございますが、天下の公器である
銀行というものが一定の枠内において
大蔵省の監督を受けるということは当然である、また監督規定という以上は最悪の場合にも備えていろいろなことを書いておくのが当然である、そういう
意味において監督規定が厳しく見えるということはむしろ当然であって、余りなまぬるいものでは監督規定にはならない、そういうふうに私は思います。
それからもう
一つは、監督規定が多いから削れというのでもとの原文に返ったようでございますけれども、民主主義というものは、どこまでは
大蔵省は監督する、それから先はもうやらないんだという自粛といいますか限界を明確にしておくということの方がむしろ民主的である。やるべきこととやってはならないこととの限界をはっきりしておいて、ここまではちゃんとコントロールがあるけれどもそれから先は自由に創意を発揮してもらいたい、こういうのがむしろ進歩的な
考え方である。そういう
意味で、条文を細かく書いておいたものを削り落としてしまったということはめんどうくさくなくなった面もあるけれども、むしろ自分たちの守備範囲というものが明確にならなくなったという
意味においてはそれこそ一歩後退したかもしれない。いずれにいたしましても、監督規定に対する理解というものが一部には足らないというふうに私は思う。
次に、もう
一つはディスクロージャーの問題もありますが、これらの問題も一体だれのためのディスクロージャーであるかということについての理解が一部には足らないと思うのですね。
銀行自身のためにも、自分たちはこういう努力をしている、こういうふうにいま経理の
状態はなっておる、収支の決算はこうなっておるということを少しでも、より多く一般に窓口を広げて教えるとか知らせるとかいうことは
銀行に対する信頼を増すゆえんであって、知られたら困るというなら困る方が悪いので、大体自分たちの姿というものを正直に、オープンにするということの方が正しいあり方である。それが
銀行に対する信頼を拡大するゆえんであって、むしろプラスになる。そういう
意味から言えば、ディスクロージャーは何か自分たちが痛いところを次々にえぐり出されるというような感じで受けとめること自体が間違っておるのであって、ディスクロージャーは、もちろん預金者にも安心してもらうし、また国民から信頼されるということで
銀行の社会的な信頼も大きくなるという
意味において非常に結構なものである、こういうふうに私は思っておる。
それからもう
一つ、ついでに申しますが、第一条に公共性の問題が入った。公共性の問題も、文章があるかないかということにかかわらず
金融機関の今日の大きな支配的
影響力を考えれば、
銀行の公的な使命というものは当然でありまして、文章があるから
国債をたくさん持てというわけでもなさそうだし、また文章がないからといって
銀行が反社会的な行動ができるものでもない。
そういう
意味においては、長い間いろいろ論議が行われましたけれども、余り生産性はない。むしろ私どもが、感じから言えば若干認識不足と申しますか誤解と申しますか、そういうものがあったのではないか。むしろこれをこの機会に大いに取り払ってもらいたいと思う。
この点についてまず
大蔵大臣のお考えを、印象で結構ですが承りたいと思います。