○草川
委員 実は、そこが非常に重要な、食い違う点になってくるわけですよ。
私は実は、個人的なことを申し上げて恐縮ですが、社会労働
委員会にも籍を置いたこともあるんで、十全会
病院問題を何回か取り上げておるわけです。十全会
病院も、今日社会的な大きな関心を呼んで、非常に批判をされておるのは、実はいまおっしゃったような発想があるんです。これは非常に重要なんですよ。
本来の
寝たきりの、
植物人間というのですか、老人も同じでございますけれ
ども、後代の人間なり
家族にしてみれば、本音を言うならばめんどうなんですよ。厄介で厄介で仕方がない。そのために一家が悲惨な思いになるという例があるわけです。これは老人病も同じなんです。だから、とにかく十全会へ頼めば、十全会は一括して受け入れてくれる。そのかわりにもう
寝たきりで注射の打ちっ放しで、大体十カ月で
患者は亡くなっていくわけですよ。約三千近いベッドがありまして、一
年間で千五百人くらいが死んでいくわけですから、私
どもあえて、非常に
言葉が悪かったのですが、老人処理工場だ、こう言ったわけです。その老人処理工場で亡くなった
方々は、隣にもうちゃんとお寺まで鉄筋コンクリートであるわけですけれ
ども、流れ作業でお寺まできれいにお参りしてくれるんだから。流れ作業になっておるんですよ。だけれ
ども、その遺骨をとりに来るのはわずか三分の一ないというのです。三分の二はほうりっ放しだというのです。実はそういう発想に近づくものですから、
医療の
あり方をもう一遍考えようじゃないかというので——株の買い占めとかいろいろな問題があったのですけれ
ども、十全会は非常に大きくなったわけです。
ですから、
寝たきりの
植物人間というのは、本音を言うならば、どこか一カ所に収容してくれるならば
家族は大喜びだと思うのです、その限りにおいては。これはもう私は率直に認めるのです。だけれ
ども、それが安易に行われるとするならば、人間性の尊厳というのは一体どこへいくのか。あるいは中には
寝たきりの
植物人間でも、七年たって回復をしたという例もあるわけです。あるいはアメリカだと十二
年間病院に入院をさしておいて助かったという例もあるわけです。だから、これはやはりいろいろな
病院に
それなりに預けるとか、あるいは基本的には在宅で、自分のうちでめんどうを見ながら、訪問
看護だとか繰り返し繰り返しやることによって、あるいは
病院も、あの棟には
植物人間の方が見えるけれ
ども、みんなでひとつ見守っていこうではないかとかいうことが実は
医療の尊厳につながっていくわけです。極端なことを言うならば、めんどうだから五十人集めよう。そうしたら、今度は北海道でもつくろうじゃないか、九州でもつくろうじゃないか、どんどん集めようということになっていったとするならば、いま一カ所にまとめて
看護するのは非常に効率的な
看護だとおっしゃいましたけれ
ども、確かにそれは、十人より五十人まとめてめんどう見ようということは、付添
看護婦がその分だけ少なくなることかもわかりませんけれ
ども、私はこれはいかがなものかと思うのですよ。これは非常に重要な
問題提起だと思うのです。
今度は
厚生省にちょっと
専門的な
立場からお伺いをしますけれ
ども、脳外科の
先生方としては、一カ所に集めることは、学術的な意味でどのような見解になるのか、意味があるのか、これをお伺いしたいと思うのです。