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二宮文造君 これはまた後日この問題について、もっと細かい問題についてお伺いしたいと思います。
時間の関係もありますので、次に霞が関一団地の官公庁
施設の
計画区域のあり方、これについて
質疑をいたしたいと思うんですが、この問題については五月の十三日、前大臣のときでございますが、本
委員会で一応質問をいたしまして、重複をすることを避けまして、ちょっと長くなりますけれども、
住民の方の要望書がございます。これは
要求書となっておりますが、要望書がございます。しかも、これは
昭和四十三年十二月に当時の坪川
建設大臣に出された要望書でございます。該当
地域は旧三年町の方々なんですが、しかし、
規制の枠のかかっている範囲内ではその他の
地域もございますが、おおむね
住民の方の受け取り方はこれと同じなんじゃないだろうかという感じがしますので、いささか長くなりますけれども要望書を全部読ましていただきたい。そうするとこの全貌がはっきりしますので、その意味で読ましていただきたいと思うんです。
要求書
私達は千代田区永田町一丁目四番及び五番の
住民であります。
私達の大部分は
昭和二十六年以前、右地番が麹町三年町一番地と表示されていた頃から、ここに土地を需め
住宅を建てて二十年前後も暮して参ったのであります。
当初、私達は区役所その他において
調査致しましたところ、公簿上も土地については何等の瑕疵も見当らず、建築についても特段の制限を受けていない
地域であることを確認致した上で、土地を入手し建築を
完成したものでありまして、予見せらるべき障害は全く無かったのであります。
すなわち
昭和二十五年十二月二十二日、商業
地域として決定せられていることも、この間の事実を証明しておるものと思料されるのであります。
したがって、この
地域に当時としては相当の対価を投じて
宅地を購入した私達
住民側には、過失或は責めらるべき落度は無かったものと今日尚信じてやまないものであります。
事実、国
会議事堂、首相官邸等を除いては、現在見られるような
道路、官衙、地下鉄丸ノ内線の駅等もなく、僅かに現大蔵省がファイナンスビルとして米人等に多少の出入りがみられた
程度で閑静な
住宅地として好ましい
生活環境を具える一面、溜池、虎ノ門、新橋、日比谷、有楽町等オフィス街、商店街にも徒歩で至便の距離に位置し、
都心屈指の
住宅地として自他ともに評価されていた
地域であります。
その当時他
地区によくみられた停電、断水等の事故も全く無く、路面の舗装、地下排水溝等も
整備され、
住民それぞれ静穏な
生活を営んで来たのであります。
昭和三十年前後になりますと、終戦時の衣食に不自由な
生活も漸く充足されて参りまして、
住生活の安定面に
都市生活者の関心が向けられ、徐々に土地所有者が若干の空閑地を利用して、アパート、店舗等の新築により所得の増大を図る機運がたかまり、かてて
都心地を活用して中高層ビルを建築しようという趨勢に伴い、私達の中にも他
地区一般にならって、この
地域内の自己所有地内に三階以上の鉄筋、或いは鉄骨建物を建てて理財の途を講ぜんとする者、或いは家族構成の変化に応じて本格的に建物を増改築せんとする者が少くなかったのであります。
ところがこれらの企図を実行に移す過程において、まことに意外なもろもろの事実が露呈されて参ったのであります。
すなわち、私達が長年の間住みなれた旧三年町一帯の
宅地が、いつのまにか、「官公庁
施設の
建設」(
昭和二十六年六月一日、法律一八一号)によって、厳重な建築制限を受けていることが判明したのであります。
私達はことの重大性に愕然たるものを覚えると共に激しい怒りを感じ、
建設省、東京都議会、千代田区議会にこの建築制限を撤廃するよう要請をおこなうなど運動をすすめた結果、次の様なことが次第に明らかとなって参ったのであります。
前記法律は、
昭和三十一年法律第七一号で改正され、あらたに、第五条の三が追加され、同条によって、「一団地の官公庁
施設の境域内」においては、「容易に移転し、又は除却することができる
構造のもの」で「階数が二以下で、かつ、地階を有しない」建物でなければ私有建物は一切新築、増改築などが許可されないことになっていたのであります。
そして、「一団地の官公庁
施設」は、
都市計画法による
都市計画として決定されることになっており、
昭和三十三年十二月二十三日、
建設省告示第二二五四号として、
建設大臣が「東京
都市計画一団地(霞ケ関団地)の官公庁
施設」の決定を告示し、千代田区霞ケ関、永田町、隼町、三年町、平河町などの地内約一〇一ヘクタールが、その境域として決定されていたのであります。
この決定はさらに
昭和三十九年一月二十七日、
建設省告示第九八号によって変更せられ、境域の変更が行われたのでありますが、私達の住む首都
高速道路西側については、依然として境域内にとりかこまれたままになっておるのであります。
かさねて申上げれば、私達は、全く何もしらされないうちにいつのまにか自分達の所有地に重大な権利制限が加えられていたと申すほかないのであります。
私達の土地の利用と、その価値について決定的な損害を及ぼすような
都市計画が私達に一言一句の
発言の機会すら与えず、公聴会も開かれず、聴問の手続きを行うこともなくして決定されるということは、行政手続きにおける民主主義の保障を著しく蹂躙するもので、重大な疑義の存するところであります。
けだし、「通知」と「聴問」なくして
国民に対する重大な権利制限を課することは、憲法三一条違反の疑いがあります。
又このような権利制限は、所有権の価値の一部を没収するものであって、もしこの没収に補償が伴わないならば、憲法二九条三項に違反する疑いが濃厚であります。
それだけではありません。
建設大臣は前記法律第九条の二によって一団地の官公庁
施設の造成について、これを実行する権限と責任を有しながら、ひとたび前記のような重大な権利制限を私達
住民に課したまま、実に十有余年間に亘り、これが造成を
事業化しないまま放置して来たのであります。
かりに、前記のような権利制限が許されるとしても、それは早急に団地造成の
事業が実施されることを前提とし、その間の僅かな期間に限ってのみ
住民の側が公共のためにその権利制限を甘受すべきことが要請されうるものと考えるのであります。
十有余年もの久しきに亘って「蛇の生殺し」のように建物の建築制限を課したまま放置しておくなどということが許される道理がありません。このような歴代
建設大臣の怠慢は、
住民に対する不法行為であって、国は
住民の損害を賠償する責任を負うべきであります。
この十有余年の間、私達
住民がどのような辛苦を経験しなければならなかったか(中略)
都市開発に伴う収用の補償問題に関連して、私権者に対する
開発利益の還元が論議されておりますが、私達に関する限り、
開発利益は
騒音と排気ガスとを除いては、何も還元されてはいないのであります。しかもその原因がすでに詳述した「官公庁
施設の
建設等に関する法律」に基く権利制限と、積年に亘る
事業化の放置とに存することはもとよりいうをまたないところであります。
かくして、私達
住民は
建設大臣に対して、次の二項目をただちに実施されるよう要求する次第であります。
一、旧三年町一帯に対する「一団地の官公庁
施設に係る
都市計画」決定の取消し
二、今日まで積年に亘る権利制限による損害の賠償
以下、五十三名の署名捺印が付されております。
しかも、これは四十三年の十二月でございます。しかし、何らの一片の応答もなく今日すでにまた十二年を経過しようといたしております。したがいまして、五月の私の
発言になったわけでございます。
建設大臣は、改めてこの事の重要性というものを十分にお考えをいただいて、官公庁を
整備することも大事でしょう。しかし、二十何年、三十数年近くにわたってこれほどの苦しみを与え、いまだに二階以上は許されないわけですから建てかえもできない。しかし、買い取りにも何の交渉もない。こういうままで、悪い
生活環境の中で自分の家で苦しんでいる人がまだこのおひざ元にあるということを、まず私は大臣の頭の中に置いていただきたい。そして、以後質問を続けます。
したがいまして、三十三年から考えますと、二十二年にわたりまして放置されて、いまだに網がかぶされたまま未買収になっている
面積は幾らですか。