○小林(進)
委員 あなたはまだ、
日本が負けたときに
占領軍が
靖国神社の
参拝を禁止したということに対し非常にこだわっていられるようだけれ
ども、あの戦時中に
靖国神社に
参拝することを強制せられ、弾圧をせられ、それをやらなかったために監獄へぶち込まれて獄死した、そういう
人たちが一体何万、何十万いたか、その苦痛を考えた場合には、これは禁止した方が当然なんだ。よく
占領軍は言ってくれたと思う。そのわれわれの宗教を弾圧し、この戦争に狂奔し、国のために命をささげる、その教育の資料にして
靖国神社というものをどんなに利用したか。
繰り返して言いますと、私も実は日蓮宗なんだ。日蓮宗でありますが、日蓮宗というのは法華経というのが絶対的な信仰の対象ですから、これが絶対に正しいんだから、これを信仰していればこの世もあるいは死んだ後も幸せになるというその教え一本にするのだ。これさえあればいい、他の宗教を信ずる必要はない、祭る必要はないというわけですから、私は日蓮宗になると同時に神だなもなくしちゃった、ほかの仏壇もなくしちゃった。これが弾圧の対象になって非
国民扱いを受けた。神だなもなくて、
靖国神社といったって、私
どもの宗教団体は
参拝しないのだ。それは、
靖国神社でなく、わが宗教、わが法華経をこの世に祭ることが、
靖国神社を
参拝し、すべての英霊を
参拝し、すべての
人たちをお慰めし、敬愛することになるのだから、これでいいのだというのが私
どもの宗教の教理なんですから、その教理にまっしぐらに進んでいるのを、
靖国神社の前に立って頭を下げないのは非
国民だということで、それはこの席上でも言えないくらいの私
どもは弾圧を受けた。
けれ
ども、私だって戦争にとられたんですよ、ちゃんと国のために働いたんだ、命だけは悪運が強くて長らえてきたけれ
ども、しかし戦争が終わるまで、
靖国神社を
お参りしなかったことだけで非
国民の汚名を背中にしょって、たった二つですか、まあ話は別になりますが、いま
一つは、私はどうしても美濃部
憲法の正しさを捨てるわけにいかなかった。この天皇機関説と
靖国神社を
参拝しないという二つのために非
国民のレッテルを張られて、そして戦時中苦難の道を歩いてきたという
自分自身の体験もある。だから、戦争が済んで、ああやはりおのれの宗教はよろしい、
靖国神社も
参拝しなくたってよろしいと解放されたときに、本当にどんなに私はほっとして生きがいを感じたか、いまでも当時のことが生々として感ぜられる。
それくらい
靖国神社というものは、宗教の上に国が権力で圧力を加えて、そして
国民を苦しめて戦争に狂奔せしめたという歴史があるのだから、その
日本国民を民主的な
国民にするために
靖国神社を
参拝することを禁じたというのは、
日本の軍国主義の思想を一掃し、
日本を民主主義国家に再建するためには実によき手段をとってもらったと私
どもは感謝しておる。そこにあなたと私の考えの相違点がある。
しかし二番目に、あなたは何も
靖国神社だけじゃない、ほかの宗教と同じようにこれを扱うという、その考えは私は賛成なんだ。私だってそのとおりだ。しかし私は日蓮宗ですよ。日蓮宗ですから、私は
自分の信ずる宗教と本山以外は
お参りしないのです。門徒宗だって、それは西本願寺も東本願寺も
靖国神社も行きますけれ
ども、わが宗教は、ほかの宗教のいわゆる本山とかそういうところは
お参りしないのだ。わがものが一番正しいし、わが宗教を拝むことによってすべてのもろもろを拝んだことになるという
一つの原則がありますから拝まないのです。拝まないが、あなたのようにみんなどこも行って平等に拝む、そのどこも平等に扱うために
靖国神社も同じ姿勢で、東本願寺も西本願寺も本堂へ行ったらお仏壇を拝むと同じように、
靖国神社もその
気持ちで拝んだら、そこに公式、非公式などとやかましい
論議をしなくてもいいじゃないかというその一点は、私は何かあなたの言われることがわかるような気がします。まあわかるような気がしますが、しかし、時間が来たと催促が来ましたから、私は、この問題はここで
結論を出すわけにはいきません。非常に本質的な問題ですから、また改めてひとつ言いますけれ
ども、半分はわからないが、一部分だけあなたのおっしゃったことはわかるということにいたしましてこれで終わりにしますが、いま矯正
局長がおいでになっているから、あなたに
質問することもあったんだが
質問時間がないから
一つだけ言っておきますよ、せっかくおいでいただいたのでありまするから。
私は学生のころから、学生のころと言ったって
昭和十年の卒業ですから、もう四十五年も昔の話だ。その当時から、
日本では監獄などという原始的な
言葉がまだ使われている、こういう
言葉は刑事政策上からもやめるべきであるということを盛んに教わってきた。ところが、けさ新聞を見たら、いみじくもようやく何か監獄という
言葉を
法律から削除するというふうな法案か何か審議会で答申が出されたように聞いておるのでありますが、この問題も長話をしていたのではいけませんが、それに
関連いたしまして、いまの刑法の原則はわからぬ。応報主義が主体になっているのか、教育刑、目的刑が主体で刑事政策が進められているのか。
それに
関連いたしまして、いわゆる刑期の問題です。不定期刑というやつは、私
ども古い話だから、いまこんなことを言ったら笑われるかもしれませんよ、笑うなら笑ってくださってもいいが、その不定期刑というものが一体どんなぐあいに生かされているのか。その中にも相対的不定期刑とか絶対的不定期刑とかいって、本人の改悛の情あらたかにして社会的適応性ができれば十年の刑期があろうとも一年でも半年でも出してやったらいいじゃないかというのが絶対的な不定期刑主義でしょうけれ
ども、ある程度改悛の情あり社会的適応性ができたらまあ三分の二くらい刑期を終わったら後はまけて出してやってもいいじゃないかというふうな相対的な不定期刑主義とか、いろいろありますが、現在の行刑の実際面を時間がないから簡単に聞かしていただいて、次の
質問の素材を私はちょうだいしておきたいと思いますから、どうぞ。