○
中西(績)
委員 実際に
国立大学における
評議会というのは、
教授会の議を経て決まったもの、これが今度は
教授会に信任された
人たちが
評議会を持つわけでありますから、そこでもって決められたものが用いられて、そこで
諮問され、
決定をされるという形式になっているわけですね。だから、いかにあなたが言おうとも、この点は明らかになっておるわけなんです。
それで、なぜ私がこういう点について言うかと申しますと、このような
形態になってまいりますと、私が一番恐れておるのは
——いまあなたが言われたように、
評議会が持たれた、
設置をされた
理由として、この
大学の
複雑性ということを言っていますが、これを置いて、そこでもってまとまった論議をするということになっておるようでありますけれ
ども、そうなりますと、この
教授会の
存在というものが、
先ほどから申し上げるように、
人事に関する
事項、したがって、民主的な
人事をということ、それともう
一つは、
重要事項の中で特にいま問題になるのは
財政の問題ですが、こういう諸問題がすべてこの
評議会にゆだねられてしまうという結果になりやすい
内容を持っておるだけに、
学問、
研究の自由も
大学の
自治もここからは抹殺されるという
状況が出てくるわけです。そうなると、あなた
たちが意図しておる
教育内容だけになる。
教授会の問題としては、
指摘をしましたように、一番
最初にあなたが読み上げたように
教育内容にしぼられてくる。とすると、前
委員会で問題になりましたように、
放送法による制約との
かかわりをどうするかという
問題等についても、まさに私
たちが一番危惧するところに逢着をするわけです、帰着することになるのです。
なぜ私がこのことを言うかといいますと、一番いい例が
筑波大学じゃないですか。
筑波大学におきましても、
学長、副
学長及び
学群、
学類などのトップクラスの人々五十七名が集まってできておる
評議会があります。ところが、この
組織があるために、
教授会にかわるものとしては
教員会議になってしまっています。そのようにして
国立大学でありながらもそういう
形態をたどるようになり、ここでは
組織の
運営に関することだけを
審議することになっておりますけれ
ども、いろいろ
中身をずっと調べていきますと多くの問題がある。この前私が、たとえば
運営審議会になぜ
教学側から入れないかと言ったら、これは
学園のことを論議するところだからという
答弁がはね返ってまいりました。
学園のことを論議する際に
教学部門の
発言権がなければ、
特殊法人という位置づけになっておる
学園ですよ、その中に
教学部門の
発言権がないということになれば、これは一方的なものになっていくのははっきりしていますよ。そこが大事だからこそ、この前私が、たとえば
学識経験者、多くの人を入れるでしょうけれ
ども、大体二十人以内と言っていますから、しかしその中には、少なくとも
教学部門からある程度配置すべきだということを言ったのもそこにあるわけです。そうしなければ、ここでもう全部抹殺されちゃって、一方的に経営という中でだけしか論議されぬ、ということになってまいりますと、今度は
教学部門が、いま言う
評議会と
教授会という二本立てでいくという結果になりまして、それがどうなるかというと、さっき言ったまさに
筑波における
教授会と同じようなものになってしまって、
筑波には
教授会がないわけですから、
教員会議になってしまう、これを一番恐れているわけです。なぜ私がそのことを言うかといいますと、こういうようになってしまっているからですよ。いいですか、これはもう私、大変なことだと思っております。
ある副
学長は、
教員会議の
要求に対して「
教員会議は
執行部が提出した
案件を
諮問するところであって、かつての
学部教授会や
教職員組合のように
大学執行部に対して
要求を突きつけるところではない。その分限を逸脱した行為は、
学内の調和を乱し、
学内に対立や抗争を持ち込むものであって、そういう
職員会議の
あり方はこの
大学の
建学の理念に反するものだ。」、こういう
発言までなされております。
こう言うと、恐らくあなたは、
法律で
教授会というのではなくて
教員会議だと言っているからそうなっているのだというような言い方をするかもしれませんけれ
ども、いまここに出ておる、具体的に二重
構造になっておる
評議会と
教授会というものを考えてみた場合、すべてが二重になっていっている場合に、
複雑で集まりにくいとかなんとかいうことを
理由にすれば
評議会が一方的に動き出す
可能性だってあるわけですよ。こういうことを考えあわせていきますと、なお多くの問題をこの中には残しております。
ちょっと長くなりますけれ
ども、そこで、この
教員会議がいかに無力であるかというのは、いま言った副
学長の
発言によってまず第一に明らかにできます。
二つ目ですが、一番無力だということを教官の諸君が知ったのは、例の
県会議員選挙における
買収事件のときだったということを言っております。なぜなら、このときに
大学当局は独自の
調査機関を設けて
事件の究明に乗り出したが、その
調査内容は一向に明らかにされておりません。いまでも明らかにされていない。そこで
幾つかの
教員会議で物を言って、それを公開せよという
要求が何回かにわたって行われております。ところが、この
破廉恥事件について
大学当局の責任の所在を明らかにするように求めたけれ
ども、いずれにしても、すべてナシのつぶてに終わっております。
では、なぜ
調査内容を明らかにしなかったかが問題ですが、このしなかったのは、これは私の推測ですが、
教職員の中に恐らく
学生を
買収に駆り立てた者や
学生の間に手数料をもらって
あっせん屋を働いた者がいて、これは事実です、それを公開すると厳重な処分に臨まなくちゃならぬようになってまいります。そうなると、
職員会議なりそういう機構が確立をされていない、民主的な
手だてがされていないところでは大変だという
意見が出てくるために、これを全部圧殺してしまっております、抑えております。こうなってまいりますと、どこに
民主主義があるかということです。
時間がありませんからもう
一つ言っておきますけれ
ども、確かに、これは
筑波における公然たる秘密としてささやかれていることでありますから、私はあえて言いますけれ
ども、いま
筑波におけるそういう実態なり
中身というものを
経験された人を、この次の
放送大学学園の
理事長にまで推薦しようじゃないか、現に、名前を挙げて大変失礼ですけれ
ども、宮島前
学長を新設される
放送大学の
学長にという工作があるということは公然とささやかれている。
こういうことを考えてまいりますと、まさにこれは、いま言ったような
幾つもの事案、
内容をずっと
——まだたくさんありますよ、あるけれ
ども私は省きます。こういうような
状況を考えてまいりますと、
評議会、そして
教員会議、あるいは
教授会と名づけられるものが二重になっておる、その
構造の
意味はどこにあるかということを考えあわせていきますと、私は
大変危惧をするものです。これでは
民主主義がなくなる。ということは、この前私が
指摘をしましたように、
筑波大学は開かれた
大学として、財界なりあるいは
経済界なりあるいは
文部省なり、こういうところに開かれはしますけれ
ども、
肝心かなめの
国民に開かれる
大学になり得るのか、こういう非民主的なことがあって。
ですから、開かれるというその開かれ方が全然認識が違うんですよ、
文部省の皆さんと私
たちの場合には。
国民の言う開かれた
大学というのもそれですよ。特定の者が物が言える、たとえば
参与会が、この
運営委員会と全く同じように物が言えるようになっています。
参与会のメンバーを見てごらんなさい。
こういうことと考え合わせていきますと、私は、
先ほどから
指摘をしておるように、この
評議会と
教授会との
かかわりがどうしても納得できません。そういうものがなければまだしも私は納得します。あるいは納得するかもわかりません。しかし前例があるだけに、私は、どうしてもそこには納得できない。
ですから、そういうことになってくると、
学校教育法にいう
大学でなくなるというおそれがここには出てまいります。ということになると、
先ほどから、私が一番
最初から
指摘をしておる、
放送法が優先をして上がっていくという結果になります。この前、
湯山委員に対していろいろ
答弁されましたから、きょう私、もうそれは追及いたしませんけれ
ども、そういう点を大変私は懸念をしておるわけです。
ですから、あなた
たちは、たとえば
県議選の
問題等につきましても
調査をしたはずですから、その点とあわせ考えて、どうなっていったかということを明らかにしてください。それとあわせてこの問題についての
かかわりをもう一度はっきりしてください。