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楢崎委員 要するにこの嘆願書の
内容は、簡単に申し上げますと、大久野島という毒ガス島の旧軍物資を正規の手続によらずに不法に当時の帝国人絹が持ち去った、だから
調査をして国に返しなさいという趣旨であろうと思うのであります。
この請願書の付書がことしの九月一日に出されております。その付書においては、いろいろ請願をやったけれどもさっぱり取り扱ってくれない、だから「
昭和五十三年〜五十四年〜五十五年、予算及
決算の内閣提出国会の議決は公文書偽造であり、憲法第二十九条違反事件である故、憲法第九十八条の
規定により無効である。」と
指摘をしております。
したがって、わが
決算委員会としてはこの請願を看過することはできないと思うわけで、できれば
決算委員会の責任と義務において、この
指摘している
内容についてその信憑性を速やかに徹底的にやる必要があるのではないか。そういう意味で私のところにも再三請願が参ります。
決算委員会の仕事にまで言及をされた
内容でありますから、私も私なりに調べたわけです。私なりに調べたところを御報告して、取り扱いについてあと
委員長の御判断をお願いをしたいと思います。
この請願書にあります陸軍
東京第二兵器廠忠海分処というのは、非常に有名なところであります。これは忠海町の沖合い二キロメートルのところにある周囲四キロメートルの大久野島というところ、ここに
昭和二年に
東京陸軍造兵廠忠海研究所が置かれました。そこでドイツ、フランス式のイペリットの実験
製造が開始されたのであります。これが
東京第二陸軍造兵廠忠海
製造所と発展したものでありまして、日本における唯一の毒ガス兵器を
製造する工場を持った毒ガス島であります。ここではイペリットなりルイサイト、青酸あるいはホスゲン、そういった致死性の強い毒ガス、そのほかに催涙、くしゃみガス等が
製造されていたわけであります。このほかに火薬、爆薬の
製造及びガス弾の
製造も行っておったわけでありまして、そういういろいろな
製造の設備も当然そこにあったわけで、またその毒ガスや火薬弾の原料となった
多量の薬品も貯蔵されていたわけです。私もABC兵器を過去何回か取り上げまして、この毒ガス島の問題も取り上げたわけですが、その当時の仕事の携わっておった人がこの毒ガスの影響を受けて補償が続いておる該当者がいまだに約千五百人くらいある、こういういわくつきの島であったわけであります。
私が調べた経過を御
説明したいと思いますが、まず請願書を出された伊勢本氏側の関係者に対して私が
調査した結果を申し上げますと、この帝国人絹というのは終戦間際までマル呂、つまり火薬の
製造もやっておった。それでいよいよ終戦になって、そういうことですから仕事ができなくなった。この伊勢本氏側によりますと、連合軍の毒ガス処理
作業に従事して旧軍物資を不法に処分してやみの
利益を上げたというものであります。
帝人三原工場忠海
作業所というものが編成されまして、
昭和二十一年四月一日から
作業を開始し、
昭和二十三年三月三十一日、この大久野島毒ガスの処理
作業は終了した。
その間、伊勢本氏側によりますと盗品ということになるわけですが、その盗品が日本通運三原支店によって、夜間、大久野島よりまず三原へ、そして貨車で大阪駅、大阪駅からトラックで武田製薬、第一製薬の倉庫に運び込まれた。運搬者の証言もあります。それに伴う日通の日誌等もあるようでありまして、それは検事総長にすでに出されておるということであります。大久野島より帝人三原工場倉庫へこの品物を運んだ運搬船は徳一丸二百トン、万盛丸百二十トン、こういう船で運んだ。これについては証言者が多数あるようであります。いずれにしてもはっきりしていることは、忠海分処の倉庫から約一千トンの保管物資が消失した、こういうことであります。
伊勢本氏は、
昭和二十一年六月ごろ町
会議員として繊維関係労働者の賃上げ交渉のために当時の商工省の始関伊平氏に会った際に大久野島の旧軍物資不正処理の話を始関氏から聞いて、忠海に帰って
調査の上、その翌月、七月でしょう、全町内会長、隣組長を忠海劇場に集めて町民大会を開いて、帝人に対し返還要求と衣料等日用品の払い下げ要求を行ったというものであります。そのときに帝人が持ち去ったというこの事実を町助役の福永徳一郎という方、もう故人でありますが、この方がはっきり言明した。
それを聞いた帝人側は衣料等を忠海の倉庫に返し、米田豊という人が中心となって、事件の発覚を防ぐために賄賂工作に出てきたというのであります。伊勢本氏には百五十万円、漁業組合には十五万円、婦人会関係には十五万円、町内有力者等に数万円、
合計百数十万円がばらまかれた、こう言っております。
このことを聞いた当時の谷川昂という内務省の警保
局長、故人でありますが、この谷川さんは
昭和二十二年の五月ごろ帝人社長以下役員五名を
局長室に呼んで、伊勢本氏立ち会いの上で
局長が仲介、証人となって、国や県に対して何らかの返還を帝人側は行うこと。伊勢本氏の方は立ち会っておりますが、盗品サッカリン売却代金三十億円の一割、三億円を町に寄付するように要求をそのときされた。帝人側はこれに対して、余りもうけてはいないけれども、とりあえず町の不足予算分二百万円をすぐ送る、あとは相談をしようということで谷川
局長が処理をするから了解をしてほしい、こういうことで話がついたというのであります。
賄賂を取ったと言われた伊勢本氏は、その金はもちろん返すとともに、
昭和二十三年七月二十八日、検事総長に対する告発文を持参して上京をし、参議院
決算委員長室で山田節男参議院議員と面会をした。その夜、伊勢本氏が泊まっておった
東京都神田神保町二丁目東越館に大屋晋三氏が、そのとき出された名刺がここにありますけれども、大屋さんの名刺を出されて尋ねてこられた。旅館前の喫茶店で会談をした。そのとき大屋さんは参議院議員でありますから、そのときは会長になられておったと思うので、帝人社長も同席をされた。大屋さんは、事件は認めます、帝人の所有する物資なり、土地なり、お望みのものをあなたに差し上げるからどうか助けてくれ、従業員、家族、下請関連者全国で十五万人以上になるから、この人たちを救うためにもよろしく頼むというふうに懇願をされた。伊勢本氏は、自分は要らないんだ、従業員が困るということであればよく考えてみようと返事をしてそのときは別れられたそうであります。なお、検事総長への告発文は、総長のところへ持っていったところ、地元の方に出してくれということであった。
その後、町長の話では、帝人が二百万円を送金したと言ってきたという話が残っております。町側としては、これでは少ないと再三大屋氏のところに抗議に行っている。これは
昭和二十四年から二十五年にかけてです。二十六年ごろになって大屋氏が約束を守る気持ちがないと伊勢木氏は判断をして、検事総長あて告発書を正式に提出したというのであります。二十六年夏になって、広島の高検検事正から二度呼び出しを受けたけれども、検事正は、事実なら大変なことだから正式に取り上げますとそのときは言われたそうですが、その後いろいろ問い合わせした結果は毎回、いま
調査中だ、そういうことを言われるだけであった。
これが私が調べた伊勢本氏側の
説明であります。
よく考えてみますと、問題というのは、この伊勢本氏側の請願書というのはあくまでも帝人が正式の許可なく勝手に旧軍物資を処分したという前提に立っての
説明であります。だから帝人側にもしその大久野島の旧軍物資を正式に払い下げられたことを証明するもの、もう一つは払い下げ品に対する対価支払いを証明する、たとえば領収書等があればもう問題はないことになるわけです。
それで私は、今度は帝人側の関係者を呼んで調べました。当時の資料を探してもらいましてここにあります。帝人側の資料を見ました結果、以下のようなことが判明した。
帝人は終戦後直ちに忠海
製造所の建物、諸
施設及び薬品の払い下げを受けて、製塩を中心とする化学工業を経営することを計画した。これに基づいて
昭和二十年十二月二十四日、
東京支社幹部が商工省無機化学課の佐枝
課長、霜永技師と折衝した。この折衝を証明する資料はここに現存しております。それで終戦連絡中央特殊
事務局、
大蔵省、広島県その他と折衝を続け、
昭和二十一年一月十五日、同
製造所の化学工業への転用を正式に申請した。その書類も残っております。
二十一年二月二十三日、忠海で
会議が行われ、同
製造所保有の薬品の大部分を帝人に払い下げる方向で話し合いがまとまった。その話し合いの方向を裏づける資料もあります。
昭和二十一年三月二十九日、広島県知事と帝人の間で毒ガス処理についての協議が成立した。その知事との協定書もあります。ただ、ないのは一番肝心の払い下げを正式に許可したという、それがないわけですね。もう一つは、払い下げを受けていれば当然お金を払わなければいけない。その対価支払いを証明する領収書がない。三十数年前になりますから、探したけれども見当らない。
これは私の判断でありますけれども、この前後の帝人側の資料を連結させますと、これはそういう重要な資料が、領収書なり払い下げ証明書がなければおかしいということを類推はできると思うのです。これは類推になります。しかし、その肝心の払い下げ証明書と領収書がないということも事実であります。伊勢本さん側は、あるはずがないのだ、これは盗品だから、こうなりますと水かけ論になる。それで、これは刑事事件としても民事事件としてもすでに時効である。裁判でシロ、クロを決めるということもできない。たとえばもし帝人側にその気があれば、これは企業としてはイメージもダウンするし、重大なことだから名誉棄損ででも訴えられれば裁判に持ち込んでシロ、クロがそこで出てくるであろう。それがない以上は、私としてはこれ以上調べても決定的なあれが双方ない。伊勢本さん側にはそれなりの証言者もたくさんいる。帝人側には帝人側で肝心なところが抜けておる。しかし経過から言うと、どうもあったには違いないと推測はできる。
したがって、これから先この問題をどうするかという点については、どうぞひとつ取り扱いについて
委員長の方でしかるべく
理事会に諮るなり、
委員長の御措置にお任せをしたい。こういうものがいつまでも宙ぶらりんであることはよくないし、ずっと
昭和二十三年ごろからこの種の請願が続いておる。これがいままでほうっておかれたのも一つは問題であったと思うのですけれども、速やかにひとつ、この措置に対する取り扱いを決めていただきたい。
以上で終わりたいと思います。