○戸
叶武君 ではまた後の機会に。よその人からも当然これは出てくると思いますが、
日本のお役所というのは守備範囲がどこからどこまでかどうもわれわれにはわからないところがありますので、やっぱり専門専門もありますから、専門家が出てきたときに、次には午後という時間もありますから、そういうこと、当面の問題はやはり一応そろえてこれに対処しないと能率が上がらないんじゃないかと思います。
いずれにしても、隅田川や
ロンドンのテムズの川がきれいになってあの臭さがなくなって魚もすむようになったので、エジプトのナイルの川なんかもずいぶんきれいになって、早く戦争が終わったら
世界一の観光地をつくろう、ナイルの川のあの中島あたりに
世界一のホテルをつくろうというような考えも深いようですが、やっぱりわれわれは今後において、油の問題でがっくりときて、中東の問題では油びたりになってしまったのでありますけれども、今後において、砂漠の中から石油が出てきたという奇跡の中にアラブの
人々の近代国家をつくり上げようとする意欲、そこにはいろんなちぐはぐなものはあると思いますけれども、これはやはり
理解するだけの特に
外交関係においては陣容を固めてもらいたい。私たちが会った範囲内においてはすばらしい意気込みを持って問題と取っ組んでいるのでありますが、たとえばあのチュニジアにおける、チュニスにおけるカルタゴの遺跡というものでも、カルタゴの遺跡と言っても掘り上げたものはほとんどない。カルタゴを残虐に滅ぼした後、そのまま気候がいいのでローマの人が植民した、それを掘り返しているのにすぎないので、カルタゴはこの下にいまだに眠っているというのが正しいのかもしれないし、民族闘争の苛烈な戦いの中に見る影もなく破壊されているのかもしれませんが、やはりアラブ、イスラエルの戦いは、遠藤周作さんがキリストを描いているように、あの苛烈な皆殺し的な民族闘争のいやな思い出をユダヤもエジプトも繰り返している中に、あの砂漠として滅んでいくような運命もあったのだと思うので、いつも私はピラミッドを見て、スフィンクスを仰ぐときに考えさせられるのは、あの辺の王様にだけはなりたくない、王様になったら、死んだら金を——ツタンカーメンはわからなかったから金がついていたけれども、どろぼうが入ってすぐに墓の中から死骸を掘り出されて、金をはぎ取られる。それをどろぼうが市に出して、今度は次の王様が死んだらそいつにかぶせる。死んでからまでこれだけの侮辱を与えられなければならない王様になぜなったんだろうということをいつも私は奇怪に感ずるのでありますが、本当に民主的な
基盤の上に立って、他民族を殺略して
自分の民族だけ生き残ろう、うまいことをやろうなんて考えている者は死んでも浮かばれないような
一つの苦しみをなめていかなけりゃならない。
やはり私はいつも考えさせられるのは、民族闘争のあれほど苛烈な、モーゼの戒めをも裏切ったような諸民族の中にいまだにそれが最後まで怨念として続いているのを見ると、早くこの
世界から脱出しなけりゃならないというのがアラブもイスラエルでも心ある人の共通の理念で、アジアにおけるルネッサンス、アジアにおける宗教革命は、宗教やイデオロギーというものを乗り越えて、もっと明るい文化なり政治というもの、私はいままでにないようなものをあの苦悩の中から生んでいくのじゃないか。そういう
意味において、今度の
イランあるいはアフガンに起きた諸問題は、ソ連、
アメリカに対する反省を促すだけじゃなく、破壊はやすいけれども近代国家をつくることはいかにむずかしいかということをアラブの人にも現実に教えるいい教訓の場じゃないかと思っております。
そういう
意味において、とにかくエジプトの人も
日本に対しては非常に好意を持っています。やはりモハメッド・アーリーが明治天皇のようにすばらしい、まあ、近代国家への
方向づけをやった王様であったが、しかしながら六千年の歴史を持っていたエジプトが、
日本と比較してどうしてこうもおくれてしまったかということをいま反省して、われわれは考えているのだということを言われたときに、やはり私はエジプトやイスラエル、宗教的な民族的ないろいろな
立場はあるでしょうが、あの辺における良識ある
人々というのはいままでのような観念じゃなくて、新しいルネッサンス、新しい文芸復興をどういう形でつくり上げなけりゃならないか、平和の
基盤をどうやってつくらなけりゃならないかというのを真剣に私は考えているんじゃないかということの感銘を非常に深く受けてきたんです。それが証拠にエジプトの
人々も、われわれは西洋とアジアと分かれたときに中東と言われているけれども、西の方に住むアジアの民族であり、
日本は東の方に住むアジアの民族である、やはり西洋における中世のあの暗黒時代のような、あるいはわれわれの古代における殺略を事とした民族闘争のようなものをなくさせて、やっぱりもっと安らかな
世界をつくり上げなけりゃならないということを感じさせられているという言葉の中には、言葉の
意味じゃなくて民族そのもののざんげが込められている。いまのカーターが、
アメリカというプライドがなくて
自分たちの過去のことは言いたくないが、われわれも
自分たちが悪いことをやっていたということ、反省しなければならないということを、一国の
アメリカの
大統領でそういうことを勇気を持って話す人が出たということは、私はカーターさんも、先祖は馬車引きか何かわかりませんけれども、やっぱりいいところあるなと感じたんですが、いいところは何でもいいからソ連のものであろうが、アラブのものであろうが、
アメリカのものであろうが取って、
日本人の胃袋のように何でも食あたりしないでおいしいものは食べるような脳みそを
日本人は持たないと、好ききらいが多いと変な変質者が出るようになるから、なるたけ変質者を政治の
世界にも
外交の
世界にもつくらないで、ノーマルな人間を今後つくって、そうしてもっと明るい住みよい時代を迎えたいと念願します。答えは要りませんが、特に
外務大臣やこの
環境庁の人は絶望を感じないで、いや、まあ絶望を感ずるようないやなことが多いと思うけれども、三度も四度も同じようなことを繰り返してさらに前進しないこのアセスメント法案なんかというものと取り組んでいると、本当にいやになってしまうと思いますけれども、飽きないで、ひとつ粘り強くやっていってもらいたい、そういうことを期待して私は質問を終わります。