○
佐藤(誼)分科員 そこで具体的に、巌川
小学校の統廃合について、その経過と問題点を述べて
質問を続けたいと思います。理解を深めていただくために、若干長くなるかもしれませんが、経過と
実情をひとつ
文部大臣よくお聞きいただきたいと思うのです。
いま申し上げました巌川
小学校は、山形県西田川郡温海町立の
小学校であります。温海町は、
昭和四十五年四月
過疎法の成立とともにその適用を受けた町で、人口約一万四千人であります。町内には当時
小学校が十校ありまして、その中の巌川
小学校を廃校し、隣接の温海
小学校と鼠ケ関
小学校に吸収統合することをめぐって起こった問題であります。なお、この巌川
小学校は、
昭和五十三年度、つまり統廃合が具体的に事件として発生した当時は、
生徒数百九十名、六
学級で、温海
小学校、鼠ケ関
小学校に次いで町内で三番目の大きい規模の
小学校であります。
この巌川
小学校の統廃合を含む温海町の統廃合
計画は、
過疎法の適用を受けた
昭和四十五年九月ごろから進められたのであります。しかし、住民の反対も多く、当初
計画を手直しを行い、
昭和四十九年九月に第二次
計画を作成しております。
その後、
昭和五十三年一月、温海町の統合審議会に諮問し、答申を得、当該各部落で座談会をやりましたが、
相当反対があり、学区内の各部落から存続請願の意見書もかなり出されました。その中で、
昭和五十四年一月、町当局は臨時町議会に統合条例案を提案し、学区民百五十名の反対陳情の中で可決しました。その後、地元を中心とした反対運動が広がり、年度末が近づくにつれて地元反対住民と当局との連日の徹夜交渉が行われたのであります。
その結果、
昭和五十四年三月二十四日、双方で確認書を取り交わしました。この確認書は六項目ありますが、きょう
質問することに関連する一、二を述べておきますと、五十四年「四月一日より現巌川
小学校々舎に温海
小学校分室(仮称)を設置し、その期間は一年以内とする。ただし、今後については住民の理解と合意を得て行う。」この内容が
一つ。その他ありますけれ
ども、もう
一つは「温海
小学校、同校分室、鼠ケ関
小学校のいづれに通学するかについては保護者の自主判断とする。」こういうことで確認書を取り交わして、今日から言えば、一応そこで暫定的に決着を見たわけです。
その後、五十四年度は、旧巌川
小学校、事実上廃校になった形でありますから、旧巌川
小学校学区の
児童は百八十人ですが、温海
小学校分室、つまり旧巌川
小学校の
校舎に通学している
児童はその百八十人中八十六名、そのほかの九十四名は温海
小学校、つまり本校と鼠ケ関
小学校に分かれて通学することになりました。
三つに分かれたわけです。
その後、地元反対住民、つまり巌川
小学校を守る会と町当局、
教育委員会との争いは絶えず、また同じ部落で、スクールバスで温海
小学校、鼠ケ関
小学校に通う者、また徒歩で分室に通う者に分かれ、それに、
学校行事をめぐり本校と分室のトラブルが絶えない
状況が続きました。
昨年十二月末ごろから、おおよそ一年たったわけですが、また分室存続問題で交渉が始まり、
昭和五十五年二月一日、学区住民約百二十名、二十六時間に及ぶ徹宵交渉でまた確認書が交わされて、事実上一年という分室がさらに存続が決まったのであります。そういう長年にわたる、約一年間のいろいろなトラブルの中で、これは五十五年二月三日の地元の新聞ですが、ついに
教育長は辞表を提出したわけであります。
この巌川
小学校の統廃合は、いま述べた経過でも明らかなように、かなり無理に進められたものと言わざるを得ませんし、このことは当局側も当初からわかっていたように思います。それは広報「あつみ」つまり当局側が出す広報ですが、
昭和四十六年一月二十五日、よほど前です。この中に次のことが書いてある。
最後のくだりを見ますと「
学校の再編などに着手するときは、
地域住民と充分に検討し納得の上で実施するのが常道でありますが、今回は国の歩調に合せるために、この常識的な手続きすらふむことのできなかったことは、甚だ残念であった。」ということを言っているのです。いまのことから約八年ぐらいたちまして、
昭和五十四年一月の臨時議会に統合条例案を提出する町長の
趣旨説明の中には、「学区に反対者は
相当あるが、合併止むを得ないと
考えている人も多数あるので学区には申訳ないが断腸の思いで提案する」とある。この中の経過、節々はいろいろありますが、代表的なものをいま二つ挙げたわけですが、当局側もかなり無理な進め方で統合が進められているということは自覚をしておったようです。
このように無理して統廃合を進めた結果、
先ほど申し上げたように分室という変形した
学校運営がなされているということが
一つ。また
子供は悲しみ、部落民はお互いに憎しみ、学区民の町当局に対する不信と絶望はつのるばかりであります。まさに村落共同体は破壊されている。これが統廃合の後に残された住民の姿なのです。
巌川
小学校を守る会の発行した「海燃える」という文集があります。かなり分厚いものです。それに地元民、分室にかわっておる
小学校の
生徒の文章がずっとありますけれ
ども、その中の一部だけ御紹介申し上げますと、六年生の太田夏美という
子供です。そのくだりの中に「どこに行っても
学校の名ふだは、付けていますが、私達の
学校はちがいます。私も前までは、「巌川
小学校」の名ふだを付けていたのですが、分室になってからは、名ふだを付けている人がいません。もちろん私もです。」以下ずっとありまして、「ここで、この作文を、読んで下さるみなさんへ、
一つお願いがあります。「どうか、巌川分室を、
もとの、巌川
小学校にもどして、古くてもあたたかい木のにおいのする、みがけば美しい、
学校をなくするなどと
考えず、このままのこしておいて下さい。そして、今、ねづがせきや温海に別れている友達も、私達といっしょに、力を合わせ、
もとの巌川
小学校になるように、勉強に、運動に、がんばりましょう。」」こういうふうに結んであります。これが
子供の偽らざる心情だと思うのです。
そこで私は
文部大臣にお尋ねしたいのですが、この巌川
小学校統廃合は
昭和四十五年九月から検討されてきました。つまり
過疎法が制定されたころですね。統廃合条例が可決されたのが
昭和五十四年一月三十一日で、その後実施に移されております。
つまり、
先ほど申し上げました指導方針は変わらないということ、
先ほどの
昭和四十八年九月二十七日付の
文部省四百三十一号通達、その中で、「なお小規模
学校として存置し充実するほうが好ましい場合もあることに留意すること。」こういう中身が
一つあります。それから、簡単に言えば無理な統廃合はするなという
趣旨のことです。それから、「
学校の持つ
地域的意義等をも
考えて、」理解と協力を得てそのことを行うように努めなさい、簡単に言えばこういう
趣旨のことがありますね。こういう内容の通達が各
都道府県教育委員会におろされた後に、この問題は起こっておるわけです。
また、かつての
奥野文部大臣が、
昭和四十九年三月五日、
予算委員会の
分科会の中で社会党の大出議員の
質問に対して次のことを答えておる。やはり若干無理な統合が進められている
地域があると判断し、それを踏まえてあの通達、四十八年ですからつまりこれです、通達を出したのであります、こういうふうに言っています。
つまり、
昭和五十四年一月三十一日以降実施され、問題を引き起こしているのです。この
昭和四十八年の
文部省通達、
文部大臣が
昭和四十九年三月五日に答弁した後に、具体的には、
昭和五十四年一月に条例が可決されて実施に移されて、
先ほど言ったような、言うなれば膠着状態といいますか、大変な
地域ぐるみの問題を引き起こしている、こういうことなんです。
そこで、私は
文部大臣に聞きたいのですが、
昭和四十八年通達、
昭和四十九年三月の
奥野文部大臣の答弁以降に
先ほど述べた巌川
小学校統廃合問題が起こっている。この点について
文部大臣はどう
考えるか、このことをお伺いしたい。