○楯
委員 私は、認められない判断をした場合を聞いておるわけではないのです。認めた場合をお聞きしておるわけですから、この次答弁をしていただきたいと思います。
そこで、三月五日に複数の人を並べましたが、もう一回柘植秀人という人の場合を簡単に復習して判断を仰ぎたいと思います。意見を聞きたいと思います。
柘植秀人は
昭和十六年に生まれまして日本の国籍を取得しました。一九六二年、日本流に言いますと中国の小学校の教師となりました。私は三月五日には、教師となるために中国国籍を取得した、こういうことを言いましたが、これは誤りです。一九六二年に中国の小学校の教師となった。それから一九六六年、
昭和四十一年に文化大革命が起きたわけです。教職にある者は強制的に中国籍に入籍をさせられたわけです。そこで一九六六年立場上中国国籍に入籍、
昭和五十一年日本に帰国をいたしました。
昭和五十三年六月九日中国籍を除籍したわけです。
この前私は、ちょっと中国語がわかりませんので、これは資料を持っておったわけでありますが、はっきりと、五十三年六月九日中国籍を日本流に言いますと除籍をいたしました、こういう中華人民共和国日本大使館の証明があるわけです。これをちょっと見てください、そっちへ上げますよ。一九七八年六月九日中国の国籍除籍ですよ。それから
昭和五十三年七月二十八日日本国籍の除籍があったわけですね。したがって、六月九日から七月二十八日まで約五十日間は日本の国籍しか存在しなかったわけなんです。ところが、その日本の国籍を除籍したのでだめだと本人が
法務省との話し合いで言われておる、こういうことです。
それで私は時間の
関係上簡単に言いますが、すでに中国国籍除籍の証明がある、それから中国の強制入籍の事実が想定をされる。と言いますのは、私は一九六六年八月にベトナムのハノイへ行ったのです。中国経由で中国の国土を約一カ月間往復しました。そのときはちょうど中国の文化大革命が突発をした年であり、ちょうどその月もそういう、何といいますか、にぎやかなときであったわけです。私
どもは細かい点はわかりませんけれ
ども、皮相的な表面的な見方をすると、あの文化大革命が、デモ等を中国の本土で見たのですが、いかにすさまじいものであったかという感じがした。しかも、あの文化大革命というのは教育面から入っていったといいますか着手をした、こういうふうに記憶をしておるわけです。
もしこの柘植秀人が、四年間小学校の
先生をやっておって、あの文化大革命の最中に中国の入籍を拒否したならばどういうことになったであろうか。私は、他国のことでありまするから、この
国会の場で自分の想定で物を言うことはできませんが、それこそ両手をつかんで拇印を押させられたということではなかったか、こういうように私はまず想定をしておるわけであります。
これらの点を考えますと、日本の国籍取得を希望しておる柘植秀人に対して、これは温かい取り扱いじゃない、これは
法務省としては常識的な対処の仕方をしなければいかぬのじゃないか、こう思います。
すでに中国国籍除籍の証明がある。文化大革命のときに四年間
先生をやっておったけれ
ども、教育者は全部中国籍に入籍をせよという強制命令によって入籍させられた。それから日本政府の、これは責任はどこにあるかわかりませんが手続上の誤りがあります。柘植秀人が
昭和二十年に死んだというので死亡除籍をされておるのです。ところが
昭和五十年、裁判の結果として戸籍を回復しておるのです。そうして中国籍除籍後には、残るのは日本の国籍ただ一つ、そういう状態に置かれながら、なおかつおまえはだめだ、こういう判断を下すというのはまさに、冷酷無比とは言いませんが冷酷無情の取り扱いである、こういうように私は考えまするので、この点十分考えていただきたい。
本
会議がありまするので、私はもうこれで
質問を終わりますが、民事
局長それから
法務大臣の柘植秀人に対する考え、私のいままでの
質問の結果からどういう気持ちであるか答弁してもらいたいと思います。