○
中山参考人 中山でございます。貴重な
発言の時間をいただきましたことをまず感謝申し上げます。
初めにお断りしておきますが、私、
医師ということでございますが、これからお話ししますことは、
医師だけではなくて、
医療関係者あるいは
医療担当者といいましょうか、そのような方々全体に基本的に相通ずるものであろうと思うことをお話ししたいと思います。また、さらに広く言いますと、われわれが願う
国民の健康という、その
国民そのものと同じ
立場で考えられているということを私は信じております。
初めに、
資料の説明を簡単にしたいと思います。
四つほどございますが、
武見会長資料としまして、「第六回
医政研究委員会」というのがございます。これが
資料の一番目とお考えいただきたいと思います。この中には、
日本医師会がすでに
昭和四十三年から
抜本改正を唱えておりまして、その
流れの中で検討されましたいままでの
わが国における
健康保険の
問題点と、その
問題点を解決するために、
社会保険にかわるものとしては何が、どのような
要件が必要かということが書いてございます。
第一枚目のところに、「
自由社会の
医療」という、
医療についての基本的な
考え方の図がございます。
一枚めくっていただきまして、
ページ数では十四となっておりますが、その
左下のところに、「
社会保険に代わるもの」として十の
要件が書かれてございます。これらの
資料については、後ほどお
目通しをいただければ幸いと思います。——失礼しました。表紙が外れているそうでございますので、ナンバー一、「
世界の
医療の
流れ」となっております。
ページが一
ページから始まっておりまして、その一
ページにありますのが「
自由社会の
医療」という
概念図でございます。その次の
ページの
左下にありますのが、
社会保険にかわるものの
要件を述べたものでございます。
次の
資料に移りますが、「
健保法改正案作成にあたり学術的、
社会科学的観点に立って要望すべき
範囲と
方向」という、やはり
武見会長の
文章でございます。これは
昭和五十三年に出たものでございます。この中には、先ほど申しました
日本医師会が多年主張してきました
抜本改正の構想をさらに現代的に積み上げまして、特にその中で問題になりますのは
老齢保険に対する
予防給付、さらに言うならば、
老齢保険を
予防給付一本にしぼった形の、その点に関しては全く新しいアイデアを打ち出したものでございます。すでにお
目通しの方もいらっしゃると思いますが、御一読願いたいと思います。
三番目の
資料は「Bioinsuranceの
概念」というものでございます。これは昨年の
世界医師会総会において
武見会長が提出された
文章でございますが、その中にやはり図が出ております。「
未来の
医療の
社会進歩」というものでございます。
これは
医療制度全体を
一つの
フレームワークであらわしたものでございまして、一番上に「
一般倫理」「
特殊倫理」というものがありまして、それが両方相通ずるものとして
バイオエシックスという
概念でまとめております。それらが、そこの図にありますように、
医学の
研究、
教育、
医療というものと互いにフィードバックしながら、
医師あるいは
医療関係者のアクティビティー、そして
医療における
フリーダムというものと関連し、それにさらに
医療における
公共性、
特殊性が絡んでシステムができ上がっていく。しかも、その際に、
経済が機能的にも構造的にも関与して出てくる。このような形で出てきたものでなければ、これらの
医療制度を支える
経済制度、特にその中の
保険制度とはなり得ないということで、これは従来の
保険、
インシュアランスという
言葉を使えば、どうしても古い
概念がつきまといますので、全く新しい
言葉をつくろうということでバイオ
インシュアランス、生
保険あるいは
生存保険と訳してもいいかもしれません、そのような
言葉をつくり出したのでございます。したがって、
インシュアランス、
保険という
言葉を使っておりましても、
損害保険等に始まった従来の
保険の
概念は一切取り去って考えていただきたいと思うわけでございます。
最後に、四番目には、昨日出された
会長の「
声明書」が入ってございます。これらも
健康保険の基本的問題を考える上の
参考となりますので、きょう提出させていただきました。
本小
委員会に呼ばれまして
発言を求められました際に、私考えましたことは、いままでこの小
委員会で非常に綿密な
調査がなされていることは
資料等によって拝見させていただいたわけでございますが、その中で、やはり一番基本的な
総論部分を検討しておく必要があろうというふうに考えました。したがいまして、私はきょう
総論部分についてお話をしたいと思います。すでに十分御承知のことの重複になるかもしれませんが、やはりその
総論を踏まえて
未来に向かっての
方向を確定しておきませんと、
幾ら各論部分で細かい議論をいたしましても、それが将来の
進歩につながらないというおそれがございます。したがいまして、
総論をお話しさせていただきたいと思います。
まず、
わが国の
社会保障は
公的扶助とかいろいろなものからでき上がっておりますが、その中で何といっても
社会保険が最も大きな比重を持っているということは言えると思います。そして、この
社会保険を統合して
社会保障を行うということが、
昭和二十五年の
社会保障制度審議会の勧告にも盛られているわけであります。
わが国の
健康保険につきましては、
強制加入ということで現在
国民皆
保険というふうになっておりますけれ
ども、その
制度は御存じのように分立しており、しかも加入する
国民の側に立って考えれば、その分立した
制度を
選択する権利を持っていないという点を御注目願いたいと思います。しかし、これは現在
社会保険とされているわけであります。したがって、
医療保険を考えますと、
社会保障としての機能が要求されているということをまず第一に考えなければならないと思います。
そうしますと、それは
医療保障ということになります。
医療の
保障ということになりますと、これは物の
損害の
保障という形ではどうしても補てんができません。戦後発達してきました
人権意識にこたえ得るためにも、
医療の
そのものの
給付、
現物給付というものがまず絶対の
必要条件になるということでございます。つまり、
自由社会における
人権を守るための
医療保障という
立場で物を考えていきたいと思います。
以上から、まず
医療についての
理解が絶対に必要だということになるわけでございますので、大変僭越ではございますが、
医療についての
考え方を述べさせていただきたいと思います。
医療とは何かという問いかけに対して、
医療とは
医学の
社会的適用である、これはわれわれの
会長である
武見先生のいわば
哲学でございます。と申しますのは、
現実論として考えますと、
医療というものは、
医学の以前から、ヒポクラテスの、あるいはもっと昔からあるわけでございます。しかし、ここ一、二世紀の間、
医学というものが
科学的体系を備えてきたという
現実を踏まえますと、どうしても
医療はこの
科学性を無視しては成り立たないということでございます。
しかし、いま一点、
医療が
人間に対して行われるものであるということを考えますと、
社会との関連というものを抜きにしては考えられません。ここに
医療における
人間関係が絶対に必要だということで、
医療における
科学性と
人間性というもの、特に
人間関係でございますが、この
二つの必要さを強烈に物語った
哲学であると私は考えます。
もう
一つ考えますことは、
医療概念の拡大でございます。昔は、
医療というのは痛みをとめたり、出血をとめたり、あるいは
病気で苦しい、不安だという
患者の苦痛をやわらげることに専念していたわけでございますけれ
ども、
医学がどんどん
進歩し、それとともに
公衆衛生というような
マスとしての
対応の
科学が
進歩してきました。したがって、現在では、ただ
病気の
治療ということではなくて、
病気になる前からの健康の増進、なってから後の
治療、そして
社会復帰までを含めて、さらに一人一人の
人間の問題だけではなくて、
地域の
住民全体の健康の
向上あるいは
地域の
健康度といいましょうか、
人間を離れた
地域環境そのものの
健康度の
向上ということまでにも貢献することができるようになってきたわけであります。この点を
理解していただきたいわけでありまして、現代の
医療はこのような広い
範囲になっております。したがいまして、
保健いわゆる
ヘルスという
言葉を使いますが、私
どもはメディシン、
医療と
ヘルス、
保健とは全くシノニム、
同義語である、このように解釈しております。したがって、このような広い
範囲を包括する
医療をわれわれは
包括医療、コンプリヘンシブ・メディシンというように呼んでいるわけであります。
また、健康につきましても、
WHOが言っておりますように、精神的、肉体的、そして
社会的な健康ということももちろんでありますし、
武見会長はこれを形態的、機能的、さらに遺伝的という
言葉を使っております。この遺伝的というのは、先ほどの
WHOの定義にも入り切れない広い
範囲を含んだ将来へ向かっての健康であります。そのような広い健康を取り扱うというふうに考えていきたいと思うわけであります。
これから先、今度は
医療の
特殊性について幾つか触れていきたいと思います。
まず、
医療の
個別性であります。
人間というのは
ホモサピエンスとしての
一つの種の中に恐らく無限と言えるほどの
個別性を持っております。この
個別性というのは、
人間の体だけではなくて、そこに起こる
病気、あるいは
病気によって起こってくる、あるいは
治療によって起こってくる
人間の体の
変化にも
個別性があります。この
個別性に
対応できなければ、
医療というものは成り立ちません。また、そうでない
医療は、
患者の
人権を尊重し、
患者の自由を尊重したということにならないと思います。
次に、
医療の
地域性であります。
生物というのは
環境によって
変化をします。これは
科学的に実証されております。入間も同じであります。その住む
自然環境、
社会環境によって変わっていく。したがって、そこに起こる
病気も、それらによって変わってくるということであります。ここでエコロジー、
環境科学というものが非常に大切になるわけであります。
人間にとって最もなじみ深い
環境というのは、
家庭であります。そして、その
家庭の存在する
地域という、この
二つが基本的な
環境ということが言えると思います。この
地域の
環境特性とか
地域における
健康状況というものを離れて
医療は成り立ちません。ここに
地域医療というものの
必要性が十分あるわけであります。
日本医師会は、この点に注目いたしまして、すでに二十年来この
理論を打ち立ててきました。そして、
地域の
医師会を指導して数多くの
実践成績を上げております。これについても
十分現実を見ていただきたいと思うわけであります。
次に、
医療の
公共性ということであります。
医療はすべての
人々に関心があり、すべての
人々が必要とするものであります。それだけではなくて、自他すべての人にかかわり合いがある。たとえば、昔で言いますと、悪性の
伝染病がはやればほかの人にも迷惑がかかる、ほかの人にもうつるということがあったわけであります。現在においては一人の人が
病気になれば、それをみんなの力で治さねばならぬ、いわゆる
医療費がかかるということで、やはりすべての人に関係してくるわけであります。これが
医療の
公共性であると思います。
しかし、
医療には、
公共性だけではないわけであります。
経済学者の方は
医療を
公共財と呼んで分析をしようとなさいますけれ
ども、それでは分析し切れないということをおっしゃっております。どういうことかといいますと、個体、一人一人の
人間との
対応に際してはもちろんのことですが、
マス、大ぜいの
人間に際しましても、先ほ
ども言いましたように、
医師と
患者、あるいは
医療関係者と
住民との間の
人間的な
信頼関係、これがなければ成り立たないのであります。たとえば、
医師に対する
不信感があれば、それだけで
患者側は同じ薬についても効き目が下がってしまうということも、
科学的に実証されております。
さらに言いますれば、どんな
人間であっても最終的には
医療の手の届かぬ死という問題に突き当たり、宗教的な
解決策もあろうかと思いますけれ
ども、現在
わが国における習慣としては、最終的にこれはやはり
医療がタッチせざるを得ない
場面であります。この場合を考えましても、
医師と
患者の
人間関係というものが成立しなければ、全然
医療というものは成立しないということがおわかりいただけると思うのであります。
それから、
医療の
公共性に関しましては、
日本の
医師がいかに
公共性にこたえた仕事をしてきたかということは、恐らく外国を見ていただけば歴然とわかると思います。すでに明治の初めのころから
学校医という
制度、これは
制度でございますけれ
ども、そこに
医師が献身的に
奉仕をしてきました。現在は、それは
産業医という形とか
地域における
健康教育という形で非常に定着しております。しかも、多少の報酬はあるかもしれませんが、ほとんどいわゆる
奉仕に近い、
ノンプロフィットの
活動として
医師会あるいは
地域の
医師は展開しております。この点も現状を篤とごらんいただきたいと思うわけであります。
そのほか
医療の
特性といたしましては、
治療の
場面におきましては、
医師と
患者が同時に同じ
場所にいなければいけないとか、同じ時期、同じ時刻にいなければいけないという
同時性というものがございます。このためにまた逆に
医療サービスは保存しておけない、蓄積しておけないということもございます。
さらに、
医療の不
確定性ということがございます。この中ではいつ
病気になるかわからない、治るかどうかわからない、どれだけ費用がかかるかわからないということは
ボールディング等によっても言われておりますけれ
ども、これは
患者側に立った
言葉だけではなくて、
医療を行う側に立っても不
確定性があるわけであります。したがって、
医療保険あるいは
社会保障という形で
医療を
社会的な対策でやっていこうということが
人々の間の要望として出てき、それが現在行われてきたということになります。
マスとしての
対応によって危険の分散あるいは負担の
平等化ができるわけでありますけれ
ども、その際、考えなくてはいけないのは、それだけではなくて、こういう
マスとしての
対応によって不
確定要素の減少ということが可能だということであります。後でちょっと触れますけれ
ども、
地域医療とか予防的な施策というのはその
一つの具体的な例でございます。
もう
一つ、今度は
医療の
原理についてお話しいたします。
自由経済の
原理といたしましては、
人間の
物的欲望に置いているわけでございます。そして、きわめて単純化された
原理で非常に多くの
経済現象が説明されてきたわけであります。しかし一方、これでは分析し得ない
部分が出てきて、それに対する
補正といいますか、修正がなされ、いわゆる
混合経済体制というものが現在できてきたわけであります。それらへの批判はありますが、それは別といたしまして、
医療における
原理は何かと言いますと、治りたいという
患者の
気持ちと、治したいという
医師の
気持ちが
原点でございます。この
原点を除きますと
医療というものは
理解できないと思います。たとえば、
患者の
治療を目の前にして
経済的な動機を優先させて判断するという
医療は考えられません。これはどなたも御
理解いただけることだと思います。ただ問題は、では、いついかなる
場面でもそういうふうに
対応できるかといいますと、必ずしもそうではありません。いま目の前に迫った
患者の
治療に、その場で
選択できる
範囲においてはこの
原則は必ず貫けますけれ
ども、時間を異にし、あるいは
場所を異にした場合、たとえば例を引いてみますと、現在
CT、コンピュータートモグラフィーという頭の中の
変化に対する非常に有力な
診断手段ができました。しかし、この
機械一つに数億円かかるというものでございます。われわれ
臨床家にとりましては、頭が痛い、頭をけがしたという人が来たときに、すぐその場でその検査をしたいわけであります。そうかといってすべての
病院、すべての
診療所にこの
CTを設置することはできません。したがって、われわれはできるはずであるのにできないという実情にぶつかっております。これがいま言った
原則に合わない
部分であります。しかし、これとても
マスとしての
対応、たとえば私
どもでは
医師会病院をつくっておりますが、そこに
CTを設置するということによって
対応ができるようになります。こういうことで私
どもは
地域医療というものを非常に広い
範囲で考えておるわけであります。先ほど言った
原理が守られないようなことは、
医師集団あるいは
医師会という
活動によりましてこれをみずから
補正をしていくということをわれわれは
地域医療の
理論の中に組み込んでおります。そして、それを実践しております。
最後に、
医学の
進歩ということを考えなければなりません。
知識というパンドラの箱をあけてしまった以上、後から後からあふれてくる
知識に
人間はおぼれてしまう。しかし、これから逃れることはできないと言われております。しかし、
現実にはこの
知識によって新しい
技術分野を開発して、そして
生存条件を
向上させてきたわけでありますけれ
ども、それ自身によって破滅の危険を感じているということで、現在いろいろ新しいエシックスが問題になってきたわけであります。
医療においてもまた
医学という
知識の
洪水から逃れることはできないわけであります。
知識の
進歩の
方向をどのように
方向づけるか、
知識の
進歩から何を
選択するかということが今後非常に重要になってきます。これは
細胞レベルあるいは
酵素レベルでも
選択というものの重要さが指摘されまして、それらを
研究している
学者から
バイオエシックス、生の
倫理あるいは
生存の
倫理という
言葉が出てきたわけでありますが、
医療においてもメディカルエシックスという新しい
部分の新しい展開が要求されてきているわけです。これは
人工蘇生器、有名な
カレン事件等においても当てはまることでございますが、それらをすべて含んだ
バイオエシックスというものがなければこの
選択が可能でないということであります。この
医師の
職業倫理あるいは
特殊倫理といいますか、これとその
選択を受ける
患者側の
一般倫理、
特殊倫理との結合というものがなければ、
医学というものはいま言った
知識の
洪水におぼれてしまうということであります。そうかといって
医学の
進歩をとめることはできない。
進歩をとめれば将来の
人間の
福祉のチャンスを摘むことになるだけではなくて、
病気にしろ不健康にしろ、それはそれなりにまた発展しております、それに対する闘いが
医療でありますので、それに負けることになります。いかなる
進歩を
選択するかということが問題なのであります。
医療制度というものは、私
どもはこのような
医療を
社会へ定着させるものだというふうに考えております。そして、その
医療制度を
経済的に支えるのが
医療経済でありまして、その
医療経済の中で現在
わが国で非常に重要な
部分を担っているのが
医療保険制度だ、
健康保険制度だ、このように
理解をしております。
健康保険制度は決して
医療制度そのものではありません。
以上のことから考えてみますと、現在の
わが国の
社会経済あるいは
社会生物学的状況の
変化の中で一番大事なものは何かと言えば、まず急速な人口の
老齢化だろうと思います。その次には、それにも関係しますけれ
ども、たとえば栄養の過剰とか運動の不足とか情報のはんらん等々によりまして
疾病構造、
病気の種類が変わってきたということであります。かつての
感染症優先の
時代から、現在はいわゆる成人病の
時代になってきた。これに対する
医療のあり方も当然変わってこなければならないわけであります。
その次に、
人権意識の芽生え、
向上であります。これも非常に重要なことであります。さらに言えば、資源の枯渇の問題もありましょう、あるいは
環境の汚染の問題もありましょう、これらを考えながら
総論的にこれから
医療がどう行くべきかということを見据えて、そのためにはどのような
各論が必要かということで、その
各論を支える
健康保険は何か、このように考えていきたいと思うわけであります。
次に、
医療と
経済の問題について考えてみたいと思います。
医療費というのは、私
どもは
地域社会の
健康度を高めるための
社会的費用、このように考えております。
家庭に病人ができてその
治療費がかさんで、そのために
家庭の
経済が破壊したり、あるいは病人の
治療を中断せざるを得なくなったりというような
場面は非常に悲惨であります。そのようなことになりたくないということで、現在
わが国においては
国民の連帯的な努力によって
社会的な施策として
健康保険というものをつくってきたし、それをいままでやってきたわけであります。しかし、いまの
家庭の状況が
社会全体で起こったらどうなるかということを考えねばならぬわけであります。当然
家庭の場合と同じにどちらも、つまり
経済の破滅も
病気の
治療の中断のどちらもとりたくないというのが本当の願いだろうと思います。しかし、ややもすると、
家庭の
場面でいやがったそれらの
選択を、国家レベルではしてしまおうという人がいるのではないかというふうに危惧しております。そのような
選択があり得ないとは思いませんが、それは
最後の
場面でしかないと思います。
では、どうしたらいいかということになろうかと思います。そのためには
医療のむだを排除せよという
言葉があるわけであります。もちろん本当にむだがあれば当然排除すべきだと思います。現在あると考えられる中のむだは何かを考えますと、一番大きなものは、まず
医療における計画性の導入がおくれたということであります。二番目には、
医学の
進歩のおくれがあってはならないということであります。しかし、考えますと、
医療には一見むだのように見えてもむだでないものがたくさんあります。それは何かというと、
医学の
進歩のためのいわば投資である
部分、あるいはさっき言いました、
医療というものは保存がきかないために、常にある程度の余裕を持っていなければならないということがあります。これらは決してむだではないわけでありまして、これをむだと思って排除してしまいますと
医療は萎縮あるいは崩壊に向かいます。さらに、もっと悪いことには、本当はむだでないことを費用が高いということだけでむだだという
考え方がある場合であります。これはもともと考えが間違っているわけでございまして、その結果は当然わかるわけであります。必要なことは、有効なものをさらに有効にするということでありまして、これはさっき言いましたように、計画の導入ということでありますが、それは何かといえば
医学の
進歩の将来
方向を見詰める、そしてさっき言いました
社会的あるいは
社会生物学的
変化に
対応し得るものを考えるということでございますが、私
どもはここでプライマリーケアというものを提唱しているわけであります。以前から提唱してきました
地域の
医療の中で、さらにプライマリーケアを進めていこうということであります。
そのプライマリーケアとは何かということを簡単に説明いたしますと、一次
医療という
言葉がよくありますが、そういうことではなくて私
どもは基本
医療と訳しておりますが、
医学というものがどんどん細分化して、
人間を見失って臓器レベル、
細胞レベルの
科学になってしまっておりますが、それらを総合して
人間を尊重する
立場で
医療を行おうということであります。そして、同時に、
病気ができてからではなくて
病気ができる前の段階、疾病の発生段階あるいはさらに健康が崩れる前の予防段階でこれを把握していこうということであります。さらに、個々の
人間だけではなくてその
人間が住む
家庭という
環境の中でそれをとらえる、あるいはその
家庭のある
地域という
環境の中でとらえる、つまり
医療というものを個々の
人間に対する
医療行為だけではなくて、
環境そのものの
健康度を増すというところまでも一緒に考えていこう、こういう形が私
どもの考えるプライマリーケアであります。このプライマリーケアを老人の場合にまず当てはめてやっていこう。これがいいと言っても、一挙にすべての
医師が、すべての
医療関係者がこれに向かうということは、経験的にもなかったことだし、システムとしてもでき上がっていなかったし、これに関する
医学、
科学そのものがまだ十分に発達しておりません。
科学の発達の
方向をそちらに向け、われわれの意識をそちらに集約し、そしてシステムをつくっていく、こういう努力が要りますので、その努力を支えるために非常に大きなてこになろうというのが、先ほど初めに御紹介しました
会長の
老齢保険を
予防給付一本にする。これは
予防給付といいましてもいわゆるプライマリーケアをやるということであります。老人といえ
ども人間の続きでありまして、これを
健康保険という
国民全体の
医療の枠からはみ出させることはよくないのでありまして、
医療の一貫性ということでとらえていかなければなりません。しかし、その中で
予防給付、プライマリーケアに関してはいままでと違うものだということをみんなが認識するために新しい
制度をつくって、そしてそれが進みやすい
方向でいこう、こういうことであります。このような
考え方の中でバイオ
インシュアランスという新しい
概念をつくってきたわけであります。
一応ここで説明を終わりたいと思います。