○金子(み)
委員 この方たちのグループが自分たちなりに一生懸命努力していらっしゃるということも私は伺っておりますし、
援護局に行って
資料をつくる努力をしていらっしゃるということも承っております。しかし、これはこの人たちが自分たちの問題として自発的に努力しているわけでございまして、これは十分尊重してその協力を得なければならないと思いますが、国としては、この
対象となる
関係者を一名も漏らすことなく拾い集めて、そして今度の
調査の
対象にできるように、十分慎重に配意して
調査をしていただきたいということを強く要望しておきたいと思いますので、お願いいたします。
次の問題は、戦争が終わりました後で、終戦処理業務とでも申しますか、たとえば戦時中現地であるいは国内であるいはいろいろな場所で陸海軍病院に勤務しておりました看護婦たちは、戦争が終わったからといってそのまますぐに引き揚げてくるということにもならなかったわけですね。赤十字の看護婦でありましたならば、戦時中命令を受けて陸海軍所属の病院に勤務することがあったと思いますけれども、戦争が終わって陸海軍病院が解体されるということになりますれば、本来なら直ちに日赤に帰属するのが趣旨であったと思うわけです。ところが、その病院の中で療養生活を送っている傷病兵たちは戦争が終わったからといってもちろん病気が治るわけでありませんで、その状態はそのまま残るわけです。ですから、そこでいままで勤務していた看護婦たちが引き揚げてしまっては非常に支障を来すことになるのは当然のことでございます。そこで、この看護婦たちは引き揚げないで、さらに新しい命令を受けて仕事をしていたという事実がございます。ところが、そういった形で仕事を続けていた、すなわち戦時中の救護員の場合と全く同等に公務とみなされる仕事に従事しておりまして、その間にいろいろな事故が起こっております。そして、死亡している人たちが何人かいるわけでございますが、この死亡した人たちあるいはその遺族に対しては今日まで何らの
国家補償もないままに放置されてきているわけでございます。この問題について、きょう新たに
厚生大臣に聞いていただきたいと思って申し上げたいと思うのでございます。
事実を御説明申し上げますが、いま申し上げましたように、日本赤十字社が戦争中に派遣していた救護班、すなわち従軍看護婦でございますが、旧日本赤十字社令に基づいて、陸海軍の戦時衛生勤務を助けることを目的としていましたので、終戦及び軍の解体と同時に任務を終わる、それはいま私が申し上げたとおりでございます。したがって、終戦の際、内地の陸海軍病院などに派遣されていた人たちは、当初、軍の命令によって、各配属部隊の復員とともに任務を解かれることになっておりました。
ところが、いま申し上げましたように、事態の急変の中で直ちに日赤の看護婦たちが引去揚げてしまうということになりますと陸海軍病院、戦後は移管されて軍事保護院と
厚生省医療局になったわけですが、ここでは非常に困るわけです。そこで、この政府機関から赤十字社に引き続き救護班、すなわち看護婦を派遣してもらいたいという要請が出たわけです。そこで、この要請に基づいて日赤は戦時中と同じように看護婦を召集して病院に勤務させたという事実がございます。その際に、日本赤十字社と政府の間には協定が取り交わされております。軍事保護院とは
昭和二十年十一月二十日に、
厚生省とは
昭和二十一年二月六日に、日本赤十字社救護班派遣に関する協定書が取り交わされているわけでございます。そこで、この赤十字社の看護婦の大部分は終戦後も国の要請に基づいて引き続き残留勤務をする結果になったわけです。その結果、彼女たちは国立病院あるいは検疫所あるいは病院船に引き続き勤務したわけでございます。その数は六百三十人だというふうに記録もちゃんと残っております。
そこで問題は、そのようにして勤務をしていた人たちの間に起こった事件でございます。
その
一つは、海難事故による死亡でございます。これは大変詳しい
資料が残っております。
昭和二十一年六月二十八日午前九時三十分ごろ、
長崎県の佐世保港内に停泊中の病院船アルニタ号とウィークス号に乗船勤務中の看護婦が、公務による上陸のため沖回り連絡船藤栄丸(十五トン)、小さい船に乗りましたところ、この船が佐世保の桟橋に向けて航行中、突然強い波風に遭って転覆して、十三名の看護婦が遭難死亡したという事件でございます。遭難した看護婦の名簿もきちっと取りそろえられております。
この海難事故につきましては、この病院船衛生班から次のような
状況報告が寄せられておりますので、事実を確認できると思います。この船に乗っていた死亡者は全員で三十一名になるそうですが、看護婦はそのうち十三名です。
当日、本船衛生班長吉田徹の命により薬品受領のため国立川棚病院に出張することになった雇員徳地信一及び日赤救護員四名は、当日の外出者十名とともに、九時三十分ごろ、たまたま本船に来合わした上陸船の藤栄丸に乗船して佐世保桟橋に向けて出発したらこういうことになって、本船から五百メートル付近で突如船が傾斜して海の中に投げ出され、全員が遭難をしたというのが
一つの事実でございます。
それからいま
一つは、戦時中に公務によって起こった病気による死亡というのがございます。これは召集を受けて内地の陸海軍病院に派遣されて戦後も引き続いて残留勤務を命ぜられていた看護婦が、戦時中
結核病棟に勤務して
結核に感染をして死亡したという事実でございます。
それから、いま
一つの事実は、戦後、
厚生省からの要請で国立病院、引揚
援護局検疫所、病院船などに勤務のために派遣した救護班編成要員、この中で
結核ではございませんが、不衛生な環境状態のために伝染病に感染して死亡した看護婦がある。
こういうことで、そのいずれもが名簿はきちっと整理されておりまして、さきの
結核は五名、後の伝染病は十四名ということがはっきりしているわけでございます。
そこで、この人たちに対していままで何もなされていないのですけれども、国としてなすべきことがあるのではないかという問題でございます。いま審議しております
戦傷病者戦没者遺族等援護法の第二条第三項第六号に規定する準
軍属としての
適用の問題なのですけれども、「事変地又は戦地に準ずる
地域における勤務に従事中のもとの陸軍又は海軍部内の有給の嘱託員、雇員、傭人、工員又は鉱員」、こういうふうになっておりまして、
厚生省の御説明では、看護婦たちは、戦時中は準
軍属としてこの条文に該当していたのだけれども、戦争が終わって、その
適用期間、
昭和二十年十一月三十日までの期間後、すなわちこの
法律は二十年の十一月三十日までの
適用期間だというふうな説明です。そして、国立病院に移管された日、すなわち二十年十二月一日以降の勤務における公務上の
疾病によって死亡した者はこの条文には該当しないから何もすることはできないのだ、国は何もする必要はないのだ、こういうふうな
考え方を国が持っていらっしゃるという問題について、私は少しくお尋ねをしたいというふうに思うわけでございます。
まず、該当させないという問題についての御説明がいただきたいと思うのです。仕事の
実態は変わっていない。全く同じ状態の中で仕事が行われているのであって、たまたま戦争が終わった。きのうまで戦争していたけれどもきょうから終わったのだ。だから、きのうまでは該当させたのだけれどもきょうからはもう該当させない。大変に事務的な処理にはなるのですけれども、実際に仕事をしていた人たちのことを考えますと、そんなに簡単に事務的に処理されて納得できるものではないというふうに思うわけです。病人は引き続きある、勤務は毎日続いてあっていたのです。たまたま戦争がきのうで終わったのです。きょうからはもうこの
法律は
適用しません、こういうふうになるのですけれども、それでいいかどうかという問題、そのままにして、そういう
考え方でよいのかどうか。私はこの際、この
法律を拡大解釈するというふうにするのがいいのか、あるいは
考え方としてこの
適用ができるというふうに考えるのがいいのか、
適用ができなければどうすればいいのか、何か考えてしかるべきではないかというふうに思うわけでございますが、その辺のお考えをまず聞かせていただきたいと思います。