○
宮之原貞光君 調べて結構ですがね、私は
中身の問題
——この手続や、このやりとり見たって、去年の十二月二十二日に厳重注意されておることは事実なんですよ、撤回されておることも。悪いものだったら撤回せぬでもいいでしょう、自分でこれはまずかったと思うなら。そういうやり方が、ますます不信感を私は呼んでいると言うんですよ。私はこういう悪いところの面が非常に出ておるのが、いまの鹿児島の
教育界だと思っているんです。姿勢だと思っている。
だから、見てごらんなさい、ここに「
教育長手持
資料」というのがある。これは何かというと、県の
教育委員会の主催で行うところの
教育課程の講習会、学習会、研修会がありますね、その進め方なんです。だから、こういうふうに何でも秘密主義、あるいはこれは上で決めて押しつけるやり方ですからね。またこの手持
資料というものを見ても、私はもう愕然としたんです、これは。これはたとえば「部会のすすめ方」十三時三十分、十五時、十五時二十分、十六時二十分、十六時三十分にはこうこうこうしなさいとずっと出ておる。そして「わたしは〇〇です。この会の進行をします。始まる前にお知らせやお願いをします。
・本日の日程は公文に示したとおりです。
・たばこは休息の時間にろうかのバケツのある場でお願いします。
・途中で気分が悪くなられた場合は進行に申し出てください。」ということで、これからどうどうします。こう書いてあるんです。それでいわく、じゃ灰ざらではぐあいが悪いですかと尋ねたら、バケツと書いてあるんだからバケツでなきゃだめだ、そのとおりバケツを出せと。これは笑えない話なんだよね。これが「
教育長手持
資料」として、県の
教育委員会から地教委の
教育長にやれというんで、このとおり読み上げて、その時間が来たらそれでぱっぱっぱっぱっと切って、次々進行しているんです。
一体こういうふうにはしの上げおろしまで議事進行についてやらなきゃならぬのかね。あるいはそういうものをやっていて、
学校教育の自主性を重んじなさい、創造性を重んじなさいという、そういう
教育というものが生まれてくるもんだろうかね。県議会で追及されたら、いやこれは
資料です、
一つのめどですと、こう言いながら、今度はそれに出たところの一人の職員の話ではそうじゃない、バケツでなきゃ絶対だめだと、こう言っているんだからね。ちょっと余りにもナンセンスといっても、非常識きわまる話なんですよ。こういうものをそのとおりさせることが行政当局の権威だと、こう思い込んでしまっているところに、私はやっぱり大きな問題がありはせぬかと思いますよ、これは。私は、
文部省といえ
どもこんなばかげた
指導に賛成だと言われる方はおらぬと思う。これはまた調べてみなきゃわかりませんと言うでしょうけれ
ども、これは取り寄せてみてくださいよ、「
教育長手持
資料」を。恐らく
教育長は、いやあれは
一つのめどですと言うけれ
ども、行くところの説明者はそうじゃないんですから。だから、こういうのが一事が万事になっているというところに、私は非常に問題を感ずるんです、これは。それだけに、こういうものをいつまでも私は残されていいのかどうか、一体このままでいいのかどうかというのは、単に一ローカルの問題じゃないと思うんです、これは。まさに、先ほど
大臣が言われたところの信頼と合意の行政というものとどういう
関係があるんだろうと。これは
大臣がいまやりますと言ったのとは大分時間的なずれがあるから、それは、いまからやりますということであれば結構なことだと思いますけれ
どもね。しかし、こういうことは勢い、それぞれの
教育界に私はいい空気は生まれてこぬと思うんです。
もう
一つ言いますが、これはいまの
教育長時代のことじゃないですけれ
ども、実は鹿児島に県連合校長協会というのがあるんです。ここで、三十年になったわけですから記念誌を発行したんですよ。そうしたら、記念誌に去年の三月退職されたところの校長さんの随筆を載せたんです。ところが、載せましたら、発行してから三日目にはみんな回収されたんです。そこをみんな破って捨てて、削除されて、それからまた記念誌というものが各校長に配られた
一つの経緯があるんですよ。そうしたところが、どういう
中身かと、やっぱりこれは
人間というのは不思議なもので、出したものを引っ込めて破られておるんだから、消されたものは何だろうかと、これはだれだって関心ありますわな。そうしたところが、これは「主任制発足前夜」と、こう書いてある。そうして、これは前市来小
学校長久保云々という男ですがね、前の市来というところの小
学校の校長さんの随筆ですよ。これはちょうど本
委員会でも問題になりましたところの、いわゆる山中
教育長時代の主任制発足に伴うところのその前後の、校長さんの悩みとか、苦労というのをずっと載せておるんです。その中で、手記はこういうことを言っておるんですよ。「早速開かれる三十一日の
委員会では、恐らくこの点が問題になるであろう、そう予想された。しかし、この問題について担当させられたばかり、二十八日に初めて県の説明を聞いたばかりの私は、県の説明の線に沿って
委員会の結論を持っていくしかないと考えた。そのためには脅迫しかないと思って会に臨んだ。」
——いろんな校長会の役員をしていますから、その地区の校長を集めて、そのためには自分としては脅迫しかないと思って会に臨んだ。「果して、二・三の
委員から強い批判が出た。」
——校長さんからですね
——「私は、「県側も来てもらう機会を持ちたいので、今のような意見をそのときぜひ出して頂きたい。」という不そんな言い方をした。これが不そんの言い方であるという
感じ方は、当時のある種のフンイキからは当然と思われた。しかしながら、何回かの
委員会で各地区の状況や
委員の意見を聞いているうちに、担当にさせられた私としては、県の説明の中で融通のつく分については、どうかして軟らかくしてもらわなければならないと思った。役員会にも
関係課から来てもらって話し合う機会を何回か持った。ただ、奇妙なことに、幹部で発言する者はほとんどなかった。」
——この校長会の幹部ですよ
——また「逆に、私の発言に対し、県側が言いそうなことを言う場合さえあった。また、県下の校長を困難な状況に追い込んでいるこのような重要な役員会に、一回も顔を出さない幹部もあった。この際出てまともな発言をするとすれば、いえば県の線に不満を表明することと受け取られかねない状況にあったのだから、「行政感覚」のある向きは、黙っているか初めから欠会するかであるのは、当然と言えば当然ではあったわけではある。」と。当時の校長会がそのいろんな校長の意見を、こうしてもらいたいということを意見を言えば、それはぐあいが悪い、自分が県の
指導の精神から外れると思って自分はがまんして、とにかく県の言いなりにやったんだという手記なんですがね。これは当時の私はやはり主任制の導入の中で、あれだけ混乱を受けたところの当時の校長の苦悩を物語っていると思うんですがね。そのこともさることながら、そういうものを校長協会の記念誌の中に編集しておいて、ある人から言われて、わざわざ回収してやらなけりゃならないという、ここのところを一体どう判断したらいいでしょうかね。これは、現在の
教育の責任者の方からそういう指示がなきゃできない芸当なんですよ。私は、批判は批判としてあって、その中からよりよいものをつくっていくというなら結構だと思うんだけれ
ども、しかし、こういうものが率直に申し上げて、私は今日の鹿児島県の
教育界を覆っているところの
一つの
問題点だと思うんです。だから私はこの問題についてどうだこうだという
答弁は聞きません。しかしながら、先ほ
ども申し上げたように、この問題は一ローカルの問題ということでなくて、
教育行政の姿勢のあり方の問題ですから私は申し上げておるんです。一体これで許されていいのかどうかということ。私は、先ほど
大臣が今後は自分の
所信に従って
指導したいと、こういうことを言われたわけですから、その
大臣のお
気持ちを了といたしたいと思いますけれ
ども、ただ私はこの問題はこのまま放置されては困ると思う。だから、前の
委員会においても私は
委員長に、この問題について理事会で検討しますと約束されたんだけれ
ども、いまだにその話聞きませんよね。これもしかるべく
関係者を呼んで私はきちんとしてもらいたいと、こう言っておるんですからね、処置をしてもらいたいですね。その意思がおありですか、どうですか。