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片岡勝治君 あるべからざることが
現実にずいぶん出てきていますよね。こういう席で、
三原さんの前でこう言っちゃ申しわけないんですけれ
ども、あんな大きな金額がやみからやみに受け渡されている。われわれ
国民からすればあり得べからざることでしょう。しかも
現実に
大臣をやられた方、総理
大臣をやられた方がああいうことをやっているじゃないか。そういう
現実を見たときに、私は
三原さんは信頼するけれ
ども、やっぱり心配になるんですよ。ああいう
現実がなければいいんですよ。この
法案を
審議している最中にああいう問題さえ出てきているではありませんか。だから、やっぱり
法律というのは
国民のそういった心配、
疑惑に対して親切にこたえていくということについて何であなた方はそう遠慮されるんですか。やっぱり将来は
考えているなと疑わざるを得なくなるんですよ、私自身。あなたがそういうふうに、全くこれは強制しないんだと言うならば、そのあかしとしてぴしっとこの
法律の中になぜ書き得ないんでしょうか。そういう点については本当にわからないんですよ。あなた方の
答弁で
国民は
理解絶対できませんね。この点もひとつもう一度
考えていただきたいと思うんです。これを乱用しない保証というものについて、一体どういうふうに補完をしていけばそういうことがなくなるのか、そのことを宿題にして、私もう一点ばかり聞きたいんです。
政府の都合で行政の事務合理化、能率化の上からやっぱり協力を求める、こういうことで、特に戸籍等については強制じゃない、協力を求めるというふうに終始一貫言っておりますね。事務能率からすれば私はわからないわけではありません。しかしどうですか、いま公務員の皆さん方に聞いてみて、やはり
年号というのは本当にめんどうくさい。将来はいずれにいたしましても、いま
明治、
大正、
昭和、そういうものがあって事務の合理化に大きく阻害をしているんであって、つまり事務の統一性あるいは能率化、そういうもののために
国民に協力を求めるんじゃなくて、そういう非常に非能率的なものをむしろ
政府の側から、行政の側から切りかえて能率を上げるという、そういういまチャンスじゃないんですか、逆に。特に電子計算機なんか、いま銀行はほとんど
西暦を使ってますよね。それは一々
大正とか
明治とかなんとか書く必要がない。もちろん国際的な
関係もあるでしょうけれ
ども。つまり、いま
政府のやっている行政のシステム、そういうものに
国民よ合わせろ、こういうことじゃなくて、一体どうして統一性、能率性を
考えなきゃいかぬかと言えば、やっぱりいま言った
年号制を使っているというところに問題があって、むしろ私は
政府の方が頭を切りかえて能率的な
西暦を採用するということも検討していいんじゃないですか。
これはどなたかの
質問で、
国会図書館の方がここで、
国会図書館はどうして
西暦を使っているんですか、こういう
質問に対して挙げた。実になるほどそうだ。これを行政の中で取り入れられたならば、これはもう非常に統一性があり、能率性があるんじゃないか、こういうふうに
考えますが、この点に対する、つまり行政の側に
国民が合わせるということじゃなくて、行政の側が頭を切りかえてひとつ行政の能率というものを見直していくという私は時期に来ていると思うんです。それからもう
一つ、常に行政側に合わせるということじゃなくて、やっぱり行政側が
国民の側に合わせていく、こういう姿勢が必要ですね、やっぱりサービスですから、政治というもの、行政というものは。
横浜の希望ケ丘高等学校で卒業証書にはぜひ
西暦で書いてもらいたい、そういう希望が出た。私は、やっぱり素直にそういうものはこたえてやったらいいと思うんですよね。そうじゃなくて、何を言っているんだ――そういう高等学校生、まあ広く言えば
国民の願いや要求にやっぱり可能な限りこたえていくという姿勢が必要じゃないですか。それがあなた方の言っている
使用の自由だ。自由というのは
国民の相互の
関係だけじゃなくて、
国民と行政という、そういう言い方はおかしいんですけれ
ども、行政側と
国民の側の相互
関係においてもそういう自由が保障されなければこれは自由にならぬですよ。特に卒業証書ということでありますから、これは
西暦で書いたって学校の権威、教育行政に支障を来す、統一性を壊すなどということにはならぬじゃないですか。しかし
現実には、いやこれはもう困る。ですから、
国民の側の要求に合わせるということ、あなた方はそうじゃない。行政に合わせろ、協力をしろ。こうじゃなくて、
国民のそういう願いや要求、
国民生活の側に立って、合理的な生活に行政側が合わしていくという、そういう姿勢も
元号の
使用の自由、そういうものが保障されなければならぬと思います。この二点について
お答えをいただきたいと思います。