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参考人(
小野祖教君) 私の
意見を申さしていただきます前に、私がここに
参考人として御推薦いただきましたのは、私が神道を専攻し宗教の諸問題についての研究をしているということで、この問題に、信教の自由とか
政教分離とかいうような問題が絡むであろうと、そういう
方面のことについての
賛成者としての
意見を言うようにというような御期待があるかと思うのでございますが、私はこの問題につきましては、そういう問題に触れる必要はないだろう。またそういう問題の方へ問題を持っていって物を考える必要はない。むしろそういうふうに扱うこと
自身が問題にふさわしくないというふうに考えております。と申しますのは
元号にいたしましても
紀年にいたしましても、こういうものは最も実用的なものでありまして、
国民全体の
生活にかかわる問題でございまして、そういうものが非常に重要な問題になるようなことであれば、軽々に
法律として出すということはできないわけでありまして、そのこと
自体が非常にむずかしくなるのでありますが、私はどういう
紀年を使うか、あるいはそのほかの年号の表記ということを使うかということはごく実用的な問題でございまして、したがって、そういう問題に触れないでいけるような
性質のものでなけりゃふさわしくないと思います。
もちろん
元号の問題につきましては、古い
時代には非常に
元号の呪術といったような要素があったでございましょうが、今日はそういう問題をすでに卒業した
時代というふうに考えていいかと思うのでございます。
それから、これとともに考えなきゃならない
西洋紀元の問題でございますが、
西洋紀元というものは
キリストの誕生に
関係があるわけでございますからして、そういうところから言えば、
キリスト教というものと切っても切れない
関係があるのでございまして、そういう
側面を非常に過敏にと申しますか、神経を集中して考えればそれは
関係のある問題でありまして、非常に特殊の人にとっては問題があるかもしれませんけれども、これも
一般的に実用されているものでございまして、そういうものは超越して
社会の
慣習として取り扱える問題だというふうに思われますので、したがって、そういう問題を強いて問題として掘り起こしていって強調する必要もないと思いますし、またそういうことを問題として取り上げてくる必要もないことだ。そういう
意味におきまして私は問題とするなと、必要のないことだと、そういうことを超越してこういう問題に当たっていったらよろしいという考えでございます。
ついでに、どういうふうに
元号だとか、あるいは
西洋紀元というようなものを使ったらよろしいか。私は
西洋紀元というものは
自分でも必要があって使いますし、
社会でも使っているんでございますから、これは、どんどん使ったらよろしいと思うんでございまして、これから先ますます使われるようになる
可能性もございましょう。これはまた、それなりに便宜なものでございますからして、便利なものが
社会的に通用していくのはあたりまえな話でございますから、そういう
意味において使われていくんでありますが、これはそういうふうにして
社会に受け入れられて、ますます
社会的慣習として広がっていくだろう。
日本の
社会においてもそういうことになるだろうというふうに見ておりまして、一向にそれで差し支えないと思います。
それから
元号の問題につきましては、もう言うまでもないことでございますけれども、千何百年の
間元号というものが使われてきて、
日本人の
生活の中に溶け込んで血でもあり肉でもある、われわれの
生活の大事な一部になっておるのでございまして、これは使わないようにしろというのもずいぶん不自然な話であります。いまさら使うようにしろと言って奨励しなきゃならないというほどのことでもございません。使っているのでございます。問題はそれが使えるようにする上についての基礎になるのは
元号というものを定めていかなきゃならないという問題があるのでございますから、そういう
元号を定めていくという問題についてわれわれがいま考えなきゃならないので、そこのところだけに問題があるのだと思います。使うとか使わないとかいうようなことについてここで改めて使え、使うな、こういう問題を取り上げる必要は全然ないと思いますし、またそういうことが問題になっているとも私は思いませんので、その使え、使うな、こういう問題を超えて問題を考えればよろしいというふうに思っておりますし、そういうふうにひとつ扱っていただきたいという希望も持っておるわけでございます。
そんなことでございますから、よく
元号と
西洋の
紀元と二つを関連させた
議論があるようでございまして、まだ
参議院の方はなんでございますが、
衆議院の方の官報などの報告を見ますというと、大分そういう問題が論議されておると思うんでございますけれども、そういう問題は、私は極端に言えば必要のない問題である。一応われわれが過去の外にくくり出してしまっておくという処置をとったらよろしいのであって、使う使わないの問題は、これは原則的には、
国民が実際にやっていく問題であるからして、
国民の
扱い方に任せていけばよろしい。もちろん国の
公文書とかなんかというようなもので、どう取り扱うという問題があると思いますが、これも大体は従来の使い方というものがあるのでありますから、それを越えて極端なことさえ起こってこなければよろしい問題である。自然の流れのままに取り扱っていくべき問題、こういうふうな基本的な
考え方をすればよろしいだろうというふうに思っております。
それから第二には、
憲法との問題というのがずいぶん論議されておるようでございますが、中には、
憲法に何か抵触するようなことを言う
議論も聞かれるのでございますが、これについても、私どういうところがそういう問題になるのかということが
理解がつきません。まあ
憲法で問題になるとすれば、
天皇とのかかわりでございますが、
天皇は
国政に関する
権能を有しないということが
天皇の
権能に関する大きな前提でございますが、この問題が
天皇の
国政に関する
権能というものを、それを
憲法を越えて拡大するような、そんな重大な
意味を持っているものであれば問題になると思うんですけれども、そういう問題になるようなところは
一つもあるまいというふうに思います。
それからもともとこれは
法律でございまして、しかも
政令で定めるというきわめて単純明快な規定をするのでございますからして、そんな問題が起こってくる余地はございません。それから、
天皇は
憲法に定める
国事に関することのみを行うんだということでございまして、しかも
憲法にはその
国事というのがちゃんと定められているわけでございますから、それに照らし合わせていかなきゃならないわけでございますが、
天皇の
国事行為にはならないはずでございまして、それも
天皇の
国事行為に加えよということになれば、これはことによったら
憲法改正して、そして条文の追加をしなきゃならないという問題が起こってくるかもしれないんでありますけれども、そんな問題じゃなくって、はっきりと
法律で決めて、そうして
政令で定めるということを明記していくということでございますからして、そういう
手続の問題に関しましていろんなその問題が起こってくるのではない。
まあこうしぼっていけば、
天皇は、
日本国の
象徴であって、
日本国民の
統合の
象徴なんだ、こういうことが定められているわけでありますけれども、その
象徴であるところの
天皇にかかわる問題として、どういうふうに問題を取り上げられてそういうふうな
議論が出てくるんだろうと思うんでありますけれども、不敏にして、私は幾ら承りましても、その
議論そのものにどういう
議論しなきゃならないような
内容があるのかということが
理解がつきません。これはどうしてもそういう問題があるんだという、よくわれわれにもわかるようにさしてもらって、そしてそれについての
考え方をもっとまとめてみる必要もあるかと思うのでございますが、私は
象徴に関しまして、大体こういう
考え方を持っております。
天皇が
象徴であるということを
憲法に規定されましたけれども、仮に
象徴天皇制というふうに呼ばしていただきますと、この
象徴天皇制は、以前の
天皇が
統治権を総擬するというふうに定められた
憲法の
時代とは確かに
法律の上で違ったものがあって、そして明らかに今度の
憲法におきましても
国事行為だけを行う、
国政に関する
権能は有しないというふうにして、
権能上のあるいは
天皇の御
行為の上の
限定が加わっているんでありますからして、
限定のなかった
時代とあった
時代と大きな変化があると思うのでございますが、ただそういうことからして、
天皇の
象徴という地位が
虚位空名になったんだという
考え方をすることは、私はこれは誤りだろうと思います。
憲法に
虚位空名になったようなことを麗々しく第一条に掲げているという、そういうことは
憲法を読むときの
常識にはかなわないというふうに思います。
では
虚位空名でなければ何かと言うと、何か
限定されたもののほかのものでもって
天皇に帰すべきものがあるんだと、こういうことでありますが、非常に残念なことには、この
象徴ということが
憲法に定められたにもかかわらず、
象徴に関する具体的な、しかも的確に
国民が
理解のつくような、そういう
議論がなされ、そしてそれが煮詰められて
国民の
常識となるところまで処理されておらないと思います。で、
象徴の問題につきましては、
佐々木惣一博士が
ウェストミンスター法の用例を引用されまして、そしてこの問題について若干触れられたわけでございまして、御
承知のように、
佐々木博士は国体という問題について大変に御熱心な
考え方を持っておられたのでございますけれども、この唯一とも申すべきこの問題に触れられた
佐々木博士も、十分に徹底した
学説というものを残しておられない。これを引き継いで十分に論ずる人がなかったわけでございます。
私はこの
象徴という、
日本人に耳なれない新しい
言葉が使われたにつきまして、これはやむを得ないと思うのでございますけれども、どういうところからこういうものがくるのであるかということを知りたいと思いまして、いろいろ考えてみまして、これは恐らく
キリスト教に非常に
関係があるだろうというふうに見当をつけまして、そして基督教大辞典をひもといてみました。そうすると、
キリスト教においてはシンボルという
言葉は
信条という
意味で取り扱われて、そしていろいろな
学説もあるし、いろいろな実際的な問題が取り扱われている事例があるのでございまして、その
方面のことを若干学びまして、結論といたしまして、こういう
側面から見るというと、
象徴というのには
三つの重大な
機能がある。
一つは、神聖と申しましょうか、あるいは
栄光と申しましょうか、栄誉と申しましょうか、そういったような精神的なものを表現していく
意味があるということ。もう
一つは、
象徴と非
象徴との間には
同一性、
不可分性というような、そういう
機能が働いておるということ。第三には、
象徴、非
象徴との間にはまた
社会的な
機能というものが考えられるということは、
象徴によって非
象徴を
統合していく、あるいは
一つのものにまとめていくといったような働きがそこでもって働いている。この
三つのことを考えなければならないというふうに教えられました。
で、この点からして、
日本の
天皇が
象徴であるということを考えてみますというと、
天皇は、
日本国あるいは
日本国民の
栄光を表現しておられるお方として考えなくてはなるまいというふうに思いますし、それから
歴史のある、現実に存在しているところの
日本国あるいは
日本国民の全体というものと
不可分、
一体の
関係を持っておられるというところが大事な点ではなかろうか。
それからして、第三に「
日本国民統合の
象徴」という
言葉も出てくるのでございますけれども、
日本国民の
一体性あるいは
日本国の
同一性、そういったようなものは、やはり
天皇によって表現されているというふうに考えたらよろしいかと思うんでございまして、そういう
国家の大事な
機能あるいは大事な
性質というものが
天皇の
象徴ということと
不可分の
関係を持っている問題であろうというふうに考えるのでございまして、そういうところからして考えてみますというと、この
元号というものは、これは
天皇の
象徴という御
性格に非常にふさわしいものであって、
憲法の上で
限定を加えているようなものの
方面に引っかかる問題じゃなくって、むしろ
象徴の
機能というものと深く結びついて考えられるべき
性質のものであって、その
方面において
天皇と
元号というものが結びついた形で行われるということは、これはむしろ
日本の
憲法にふさわしいんだ、むしろ積極的にそういう
方面でもってわれわれが考えていい問題であり、この際
一つの課題として考えるべきであろう、こういうふうに思いますので、
憲法と違反するという問題については、違反するということについて
理解がむしろついておらないが、私
自身は非常にふさわしい
性格のものであるというふうに考えております。
それからその次に、二、三のことなんでございますけれども、どうも
元号を定めるという問題が、どういうわけであるか
元号の
使用を強制するという問題と混同されていろいろ
議論されておると思うんでございますが、
国民の側からいうと、そういう
議論が交わされること
自体でもって大変に
混乱を生ずるので、そういうものもできるだけこの
機会に整理をしていただきたい。私は非常に単純に考えております。この
元号は、ただ
法律によって、
政令で定めるというその定め方の
手続の問題だけを決めているんで、どういうふうに
使用するかという、この
使用についてこういうときに
使用しよう、こういうときには
使用しちゃいかぬというようなことを決めているんじゃないんですから。だからして、そういう問題は、これは
関係のない問題になるということを整理して、そして
国民自体が頭をもやもやさせないでもっていくようにさしていただかなくちゃならないことじゃないかということでございます。そして
天皇がおかわりになったときに
元号を改める、そういうことだけで
一世一元という形でもってやっていくことになるんだという、そういう
取り扱い方のことについて非常に単純明快に取り扱われているという、そういうことで、その
制定の目的とそれからして、その
法律がどういう効果を及ぼすかという範囲をごちゃごちゃさせないでいくということが、
国民に対する私は大切な仕事であろうというふうに思いますので、そういう
混乱がないようにひとつしてほしい。
それからその次に、
理由の問題でございますが、これは非常に簡単な
理由が掲げられておって、それでいいんだと思うんでございますけれども、ただ私は
——時間も来たようでございますから簡単に申しますが、何といってもこの
手続が不明確になっておるということで、そして
元号の
制定については、
時代による変遷もあることでございますから、そこで、この際それを明確にしておくという、そのことだけが必要なんであって、そういうことをひとつはっきりさしていただけば十分じゃないか。
それからその
関係で、第三に、私は非常に
独立に
関係のある問題だということで、私
自身の個人的な
考え方かもわからないのでございますが、私はこの
元号というものの
制度が終戦のときに処理されなきゃならない問題であったけれども、しかしGHQの方からして
占領期間中は遠慮してほしいということでチェックを受けてできなかったという事情は、これは明瞭なことでございます。だからして、
独立をしたという
機会に
解決をしなければならない
宿題——政治的宿題の
解決であるということであると思うんでございますが、私は
日本人の一人として、
独立をしたなら
独立国の
国民らしく行動しなければならぬという
信条を持っております。したがって今日、
日本が
独立した以上は、
独立の行動と
関係がある、
独立の
意識と
関係のあるところの
元号の
制定というものは、速やかにひとつ進めていただいて、そしてわれわれ
日本人の
独立意識、明らかに
自分たちの手と
自分たちの足で歩いていくんだと、そういう姿勢にはっきりした方向づけをしていただくことが
国家として大切なことであろう。これは、最後に私の信念でございまして、そういう
意味においてこの
法案に心から賛成するものでございます。