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竹本分科員 この問題ばかり言うわけにいきませんから、ひとつもうちょっと前向きにより積極的、意欲的にこの問題を
考えていただきたい。私は、少なくともわれわれの政権が将来樹立されるというようなことになれば、当然、精神面、経済面、外交面ということはそれぞれ施政方針演説をやるべきだ。そのぐらいに
教育、文化の問題のウエートは大きいのだ。時間をけちけちする必要はありません。二時間あるのが二時間半になっても結構なんですから、その点、もう一度再考していただくように要望を申し上げておきます。
それから第二番目は、この間文部
大臣が、国を愛する、国を守る、当然なことだということを相当はっきりと言われたように新聞で拝見いたしました。この点は私は全く同感です。私は、デモクラシーというものの歴史的な使命、そういうものは非常に高く
評価しておりますけれ
ども、民主主義というものは、長くなるのは困りますから簡単に申しますが、開放の原理、アトムの原理、したがいましてこれは分散の原理ですよ。国民的エネルギー、創造的エネルギーを集約する指導理念ではないですね。だから私は党の政策にタッチする立場でも、十年やりましたけれ
ども、民主主義を通じて民主主義の上にということを言っておる。民主主義を通じないで民主主義の横から後へ、そういうことでは時代の進歩に沿えませんから、これは困る。しかし民主主義、そこにとどまっておったのでは、より大きな連帯、コミュニティー、国、そういうものの指導理念は出てこないと思うのですね。でありますから、私は、民主主義を通じて民主主義の上に、ネオナショナリズムだと言っておる。そういう立場から、国を愛する、国を守るということを
教育するのも当然だという
大臣の発言は非常に
評価しております。
そこでお伺いしたいのは、それとともに今日
教育問題で大事なことは、いま申しましたネオナショナリズムというか、愛国といったものと並んで、同じような
意味でもう二つ
考えるべき問題があるのではないかと思うわけです。
その
一つは経済問題、これは低成長時代に入ったとか——安定成長というのは、ぼくはちょっと言葉が間違っていると思うのです。安定的成長というのが本当だと思うのですよ。減速経済、これもよくわかるが、安定成長なんというのは、安定と成長は概念が違いますからおかしな言葉だけれ
ども、いつの間にかそうなったのですね。ドイツ語の経済安定成長法を翻訳したときに、ウントというのが入っておるのを略して書いた。それが言葉の間違いの始まりなんですよ。ぼくは佐藤さんに
指摘したことがあるが、そんな議論は別として、とにかく安定的成長というか低成長というか、いわゆる高度成長でなくなった。
そこで福田さんは、福田語録として言葉がうまかったが、資源有限といういい言葉を
考え出した。しかし、資源有限という単語を四つ
考えついただけで、資源有限に即応するような産業構造の改革も、われわれの
生活様式の変革も、あるいは行政機構の改革もほとんどやられないままに福田さんは退かれた。私は非常に残念に思っておるのでございますが、いずれにいたしましても資源有限、高度成長の時代は去った。
そこで、これからの経済政策の指導理念としても、誰がために鐘が鳴るという言葉がありますけれ
ども、何のための成長であったか、だれのための成長であるか、われわれはここで静かに踏みとどまって
考えなければならぬ。
私は、かつて衆議院本会議の演説でも言ったことがありますが、古い二つのQから、新しい二つのQに変われということを言っている。古いQというのは速くというクイック、もう
一つはクォンティティー、大量生産、大量消費という量このクイックやクォンティティーの時代から、われわれはクワイエット、もう少し静かに物を
考える、
生活のクォリティー、質を
考える、新しいQに変わらなければならぬ、こういうことを私、本会議で言ったことがあるのです。後で当時の前尾議長がえらく激励をしてくれましたが、まあそれは別として、そうならなければならぬと思うのですね。要するに、経済
生活並びに経済体制なり経済組織の運営についての指導原理を変えなければならぬと思うのですね。古い組織のままに、古い
考え方の上に古い
生活方式の中で資源有限、低成長なんと言っても始まらないでしょう。
そこで、
教育の重大な指導原理として、私の言うそういう新しいクワイエットやクォリティーの問題を
考えなければならなくなったと思うが、これが小学
教育、中学
教育、高等
教育の中にいかに指導理念として織り込まれていくのか、あるいは織り込まれつつあるのかということについてのお
考えを伺いたい。
同時に、時間がありませんからあわせてもう
一つ申し上げますが、いまのにまたちょっと関連して言いますが、二十一世紀は日本の世紀だと言ったハーマン・カーンというのがおりますね。これは御承知のように経済未来学者ですが、彼が、最近は日本の高度成長はもう大体限界に来た、といっても彼は一〇%くらい
考えておりますが、昔のような高い成長はだめだ、これからはそれこそ安定的な成長だ、日本人のすべての人たちは、驚くことに、油の面からその他資源、資材の面から供給力の面から、高度成長は終わったというふうに言っておるけれ
ども、私は違うと、こう言っているのです。どういうふうに違うかと言えば、日本国民の価値観がいま大きく変わりつつある。いま私の申しましたように
生活の質を求めるようになる。何のために働くかということも反省するようになる。こういう価値観の変化そのものが、日本の高度成長をいままで支えてきたものが支えなくなるわけだから、それで変わるのだということをハーマン・カーンのような経済専門家でさえも言っておるわけですね。
そういうことも含めて、いま申し上げたことは、指導理念が変わらなければならぬということと、それからついでにもう
一つ、その指導理念で
考えなければならぬことは、いまはすべての問題がインターナショナル、グローバル、地球的規模というか世界的規模において
考えなければならないような時代になった。したがいまして、日本人の国際感覚というものをもう少し充実して、小さいときから物の
考え方について、常にインターナショナルなあるいはグローバルな広い視野に立った物の
考え方をするように指導していかなければならぬ。変なナショナリズムや軍国主義では困りますし、それかといって単なる平和主義でも私
どもいろいろ異論がありますが、いずれにいたしましても、国際的に物事を見るという国際感覚が大事だ。ただ油の問題でイランの問題が大事だというようなことを言っているだけじゃなくて、すべてを国際感覚的に
考えなければいかぬ。一番いい例を申しますと、たとえば一ドルが二百四十円か百八十円かといったような問題のときでも、日本銀行が一生懸命わいわい騒いでやる、そんなことで解決するような問題じゃないのですね。国際的に問題をとらえなければならぬというのだけれ
ども、とらえた感覚が全然なくて、ひどい目にも遭ったわけです。
それも含めて、
一つは、いま申しましたように、安定的な低成長というか新しいQを求めなければならぬ。もう
一つは、すべてをグローバルに
考えなければならぬ。その国際感覚を、あるいは国際的に物を見る視野を開くということについて、
大臣はどういうお
考えを持っておられるかということと、
局長の方からでも結構ですが、その
考え方を受けて、新しい指導理念として
教育あるいは学習指導要領その他の中に、それがどういうふうに生かされつつあるかということを伺いたい。