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西宮分科員 私も、ぜひそうあってほしい。また、そうするという道を歩んで、われわれの終局の理想に近づいていくという以外にはないのじゃないかと思います。
大変偉そうなことを言うようで恐縮でありますが、ここで、
日本におけるいわゆる世界連邦というか、世界国家というか、そういうものの思想の系譜を若干御披露しておきたいと思うのです。
まず、幕末の碩学佐藤信淵、この人は「混同秘策」という書物をあらわしまして、その中で今日言うところの世界連邦の萌芽をうたっておる。
それからさらに、明治三年に上海に渡りました小野梓という人でありますが、この人なども、非常に徹底したいわゆる世界連邦をつくれという
主張をしておるわけであります。
あるいは明治五年、つまりちょうど
日本に徴兵制度がしかれたわけでありますが、そのときに植木枝盛、この人は、「戦争は天に対し大罪」である、大きな罪である。「万国統一の会所なかるべからず」万国統一の会所、つまり
会議所、議会ですね。そういうものが必要だというふうに述べまして、「戦なるものは何ぞや、生命を戒(そこな)ひ、身体を害ひ、財貨を消すの最たるに非ずや。国を立てて戦を為すといふことは、勘定の合はぬ話なり、さればこそ、宇内に憲法を立て、万国共議
政府を建つることは、今日の最大急務なれ。」とうたっておるわけであります。まさに堂々たる世界連邦論者であるわけであります。そしてさらに「茲において断ず。宇内の暴乱を救正し、世界の治平を致すべき道は、万国共議
政府を設け、宇内無上憲法を立つるに在り。」こういうふうに述べでおるのであります。
もっとわれわれになじみの深い、たとえば福沢諭吉さんとかこういう人なども、「なんぞ必ずしも区々たる人為の国を分ち、人為の境界を定むることを須いんや。况んや其国を分ちて隣国と境界を争うに於てをや。」「况んや其国に一個の首領」親方ですな。「首領を立て、之を君とし仰ぎ、之を主として事え、其君主のために生命財産を空うするが如きをや。」当時の発言としてはかなり思い切った発言だと思うのであります。
さらに中江兆民に引き継がれ、そういう
考え方で、われわれの大先輩であります尾崎行雄さんなどは、こういう歌を詠んでおります。「共有のこのあめつちに国を立て城を築ける罪人は誰ぞ」共有のこのあめつちの中に、国をつくったり城を築いた罪人は一体だれなんだという歌ですね。あるいは「あめつちは生きとし生ける人のため神のつくれるものと知らずや」こういうこともうたいました。
さらに尾崎咢堂先生は、終戦の年の十二月に、国会に世界連邦建設に関する決議案というものを上程いたしました。ただしこれは、当時のGHQが認めないので、実現をいたしませんでしたけれども、その提案理由の中には「世界連邦ヲ提唱シテ着々其ノ
方法ヲ研究シ、実行スレバ、半世紀ヲ出デズシテ、全世界の恩人ト為リ、其ノ尊敬ヲ受クルニ至ラム。」と書いてあるのであります。まことに傾聴すべき、敬服すべき卓見だと
考えるわけでございます。
こういうように、われわれの先覚者は、それぞれこの道を追い求めてきたわけでありますけれども、国会においては、去る
昭和二十四年に国会
委員会というのができた。
国会
委員会と申しますのは、その前の年に世界連邦建設同盟というのができて、これと相呼応して、国会の中で活動する国会
委員会というのができたわけでありますが、その当時の国会の先輩の皆さんは、
日本はせっかく軍備を持たない憲法を持つことになったのだ、その軍備を持たないで国際社会に処していくのにはどうしたらいいのだ、そういうことを恐らく真剣に
考えて、軍備を持たないで、国際社会の中で
自分の国の平和を保っていくというためには、どうしても世界連邦というようなものをつくる以外に道がないのだというふうに
考えて、そういうふうに
考え抜いて、この当時国会
委員会なるものに集まってこられたのだと思います。さっき申し上げた尾崎骨堂先生であるとか、あるいは国
会議員ではありませんけれども賀川豊彦先生なども一緒に参加をしてつくり上げたのが、この国会
委員会であったわけであります。
そして、ぜひ国会の決議でこの世界連邦をつくろう、こういうことで提案をいたしました。ただし、提案はしたけれども、残念ながら、これは一九六〇年、
昭和三十五年でありますが、ちょうど非常に混乱をした安保国会の中でございましたので、その決議が成立する寸前でお流れになってしまった。私は非常に残念だと思うのでありますが、それでも、その当時残された足跡は、大変に私どもにとっては教訓的であります。その国会決議の案文をつくるときに参加をした人たちは、ごく一部を申し上げても松岡駒吉、北村徳太郎、三木武夫、鈴木義男、水谷長三郎、笹森順造、小坂善太郎、戸叶里子といったような、故人になった方もありますけれども、私どもの大変懐しい、しかもわれわれが尊敬する当時の衆議院、むろん参議院からも出ておりますが、
両方から約六十名ばかり集まって、案文を練ったようであります。
そこで、練った案文のほんの一部だけ御紹介をしておきます。
これは、国際連盟から国際連合ができたということを高く評価をしながら、「しかしながら、かような国際社会が、国家主権の原理に立脚し、その構成員たる
各国家が、なお自己の主権を固執するにおいては、国際社会の基礎たるやいまだはなはだ薄弱であり、世界恒久平和の保障たるには不十分なうらみがある。われわれは国際連合を一層完全な国際組織体にまで発展せしめなければならない。これすなわち、
各国家を行政区画として包摂する世界連邦なる世界的組織体に外ならない。」「われわれは、一つの世界法のもとに世界連邦が建設せられ、万国民が同胞愛をもって一致結合することによって、はじめて世界恒久平和が可能となり、法と政治、個人の基本的人権と自由とが完全に保障せられるものとなることを信ずる。」「新憲法によって戦争を放棄し、恒久平和の崇高な理想達成に全力をあげて
努力せんことを誓ったわれわれにとって、世界連邦実現の世界的運動の推進のために熱意をもってそれに参加
協力することは、われわれの崇高な道義的義務といわなければならない。」これは前後を省き、あるいは間を飛ばしたほんの一部を御紹介しただけでありますけれども、まことに烈々たる当時の気魄がみなぎっておるように思います。
ただ、私がいささか気になりますことは、この
昭和三十五年、いわゆる六〇年安保、あの時期は、平和に対する運動あるいは国民の願いというものが非常に高潮したと思います。それは、朝鮮戦争も終わって間もなかったし、あるいはまた戦争経験者が当時の熱心な活動家の中に多かったわけでありますから。ところが、あれをピークにして、何となく平和運動、平和に対する取り組み、関心がだんだん薄らいできたのではないかという感じがするので、その点ちょっと私は心配なんですが、平和問題について最も関心の深い
大臣などは、その辺はどういうふうに観測しておられますか。