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大平正芳君 ただいま
議長から御
報告がありましたように、本
院議員成田知巳君は、去る三月九日未明、
国立東京第二病院において逝去されました。まことに
痛惜の念にたえません。
ここに私は、
諸君の御同意を得て、
議員一同を代表し、謹んで
哀悼の
言葉を申し述べたいと存じます。(
拍手)
成田君、君は、しばしば、この
壇上で、
日本社会党を代表して、雄津な論陣を張られました。君の無造作な髪型と濃紺の背広が特に印象的でした。その論旨は、整然たるものがあり、学究的で、若々しく、何の気取りもない淡々たるものでありました。六十六歳といえば、なお春秋に富み、これからこそ円熟した
仕事が期待された君でありました。
しかるに、何の予告もなく天は君を奪い去り、私は、この
壇上から君に対する
追悼の辞を述べなければなりません。この無情な天の仕打ちに対し、やり場のないうらみを覚えざるを得ないのであります。
成田君、私が、
昭和二十七年秋、初めて本院に
議席を得たとき、君はすでに
社会党のホープと目されておりました。その後、君は、常に
社会党とともにあり、その
指導者として、党の
栄光のために生き抜かれました。またその間、君は終始、輝ける
衆議院の星として、その鋭い
政権批判を通じて、
日本の平和と
民主主義のために尽くされました。死の床にありながらも、
社会党を思い、
日本民主主義の行く末を案じられたと聞いております。
しかるに、君は、国から期待される最高の栄誉も、党から贈られる
党葬の礼も、ことごとくこれを辞退され、一野人として黙々として去ってゆかれました。まことにさわやかで清楚な最期でありました。(
拍手)
成田君、君は、
大正元年九月、
香川県
高松市の名家に生まれ、
旧制高松中学から
旧制第四
高等学校を経て、
東京大学法学部に進み、
昭和十年卒業されました。卒業後は直ちに
三井鉱山に奉職されましたが、入社後六年にして早くも君は、
三井鉱山から独立した三井化学の
文書課長に抜てきされ、
実業人エリートとして多幸なスタートを切られたのであります。
しかし、
昭和二十年八月に迎えた終戦は、君の中に眠っていた
政治家としての君の本領を触発させたのでありましょう。君は、
昭和二十二年四月の総選挙で、
香川県一区から出馬して当選し、新
憲法下、初の
国会に光栄ある
議席を得られました。自来連続当選すること十二回、
在職実に三十二年一カ月に及びました。
成田君、君は、早くから
社会党にあってその能力と
指導力とを期待され、その
要職のほとんどを歴任されました。
昭和三十七年には
書記長に、
昭和四十三年には第七代
中央執行委員長に選ばれ、実に九年二カ月の長きにわたってその職を全うされました。
しかも、そうした
要職は君がみずから求めたものではありませんでした。
書記長就任に当たり、私は
書記長の器ではない、背伸びをして世の中を渡っていくのはむしろ苦痛であるとして、最後まで固辞し続けられたと聞いております。しかし、
社会党は、君が
書記長としてあるいは
委員長として党を率いることを要請し続け、君は、党のためおのれをむなしゅうして挺身されたのであります。
わが国の戦後
政治は、
野党第一党たる
社会党の
歴史を
抜きにして語ることはできず、
社会党の
歴史は、その
指導者であった君を
抜きにして語ることはできません。(
拍手)かくて、君ははしなくも、終始、
わが国の戦後
政治における主役を演じ続けられたのであります。
成田君、君が
社会党の
書記長になられた
前々年には
左右社会党の統一があり、前年には
労農党の合流を見て、いわゆる
革新勢力は
社会党に収斂されつつありました。一方、この
情勢に呼応するかのように、自由党と民主党の間に
保守合同が実を結ぶことになりました。こうした一連の
収斂過程によって、二大
政党を中核とするいわゆる五五年体制は、
わが国の土壌に定着するかに見えた時代でありました。
しかるに、その後の
歴史の流れは、期待された軌道を大きく離れ、
経済社会は
空前の
地殻変動を招き、急速な
経済成長と
都市化が進み、
国民の意識や
生活にも大きい変化が見られるに至りました。これを受けて、政界における
多党化も急速に進み、
構造改革を初めとするいわゆる
路線論争が多彩に展開されるようになりました。かつて権威を誇示したイデオロギーは色あせ、にわかに
現実路線が強まってまいりました。そして、君の率いる
社会党の行方が最大の
国民的関心を集め、君のとるべき態度が注目されるに至りました。
その間にあって、君は、勇を鼓して
成田三原則を提示し、いわゆる
革新の
大義、全
野党の
政権構想を唱えられたのであります。君が選択された
路線は、
社会党内においてさえ振幅の激しい論議を生んだばかりでなく、党勢の消長にも大きい影響を生むに至りました。しかし、君は、ひるむことなく、みずからの
立場を貫き通されたのであります。
一方、
国会を中心とする
日本の
民主政治も、
多党制のもと、
空前ともいうべき内外の転換期に処して、平和と
国民生活を守るため、多くの困難な課題に取り組み、苦闘を重ねております。
その中にあって、君は終始、
社会主義を通ずる平和と
民主主義の
実現を目指し、たゆまざる努力を重ねられたのであります。
その道は険しく、その成果も期待されたほどではありませんでした。しかし、君は、
真実一路、みずから選んだ道を一貫して歩み抜かれたのであります。(
拍手)私はそこに、君の
政治家としての、また人間としての真骨頂を見ることができるように思います。
成田君、かくて、君の
休息を知らぬ忍苦と精進の一生は、
社会党の
指導者として
栄光に満ちたものであったが、
日本における
社会主義の躍進を記録するには、
その道いまだ半ばにあったと言わなければなりません。しかし、
人生の値打ちは、その人の手がけた事の成否によってのみ定まるものではなく、それに取り組んだその人の真剣さによるものであるといわれております。
民主政治においては、結果よりも
過程がとうといものであるといわれております。君は、いうところの
革新の
大義を
実現することに成功したとは言えません。しかし、君は
社会主義者として、その
大義の
実現に向かって日夜真剣に闘い抜かれたのであります。古語に「始めあらざるなし、よく終りある鮮し」といいます。死に至るまでみずからの思想と信念に忠実に生き抜かれ、よくその終わりを全うされた君の
人生は美しいものであり、みごとな傑作であったと思います。(
拍手)
成田君、君と私は、
郷里を同じゅうし、
郷里讃岐に
共通の愛情と
共通のかかわりを持ち続けてきました。君は、
郷里の
仕事であれば、その大小にかかわらず、自分の
立場を離れて、私に依頼してくれました。君と私は、
讃岐の山野や海浜を、工場や街頭をくまなく歩き、たびたび激しい論戦を闘わすこともありました。しかし、すべては、いまでは甘美な思い出になってしまいました。
二人の間は
政治的立場や信条を異にし、ついに
政治的同志になる機縁を持つことがありませんでした。君は上戸で私は下戸で、親しく酒杯を交わす機会もありませんでした。しかし、その間、常にお互いの信頼と尊敬の念だけは持ち続けることができたように思っております。私は、それを得がたい幸せと思い、いつまでも大切に持ち続けてまいるつもりであります。(
拍手)
成田君、私どもは、もはやこの議場に君の英姿を見ることはできません。堂々たる君の
演説を聞くこともできません。しかし、君の歩まれた軌跡は、戦後の
政治史上にさんとした光芒を放っております。君に対する敬慕と欽仰の情は、
日本社会党の
同志ばかりでなく、ここに集まる
同僚議員一同はもとより、広く
国民の間に永く生き続けることでありましょう。(
拍手)
ここに、ありし日の君のおもかげをしのび、君のすばらしい生涯をたたえ、いまはただ君の安らかな
休息を祈って、
追悼の
言葉といたします。(
拍手)
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日程第一
国民年金法等の一部を
改正する
法律
案(
内閣提出)