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西宮委員 いろんな事情があって、そのとおりにいかない、
答弁としてはそれだけだと思うのだけれ
ども、それで裁かれる側は実はたまったものじゃないわけですね。
いろんな事情というのは、要するに、
裁判所の事情ということで急に転任をさしたり、あるいは定年間近い人を充当したりというようなことになるのだろうけれ
ども、そういう御都合でそうなるのだというのだけれ
ども、裁かれる人、一生の運命を左右される人、そういう
立場からいったら、そういうやり方で片づけられたのでは実に助からないと思う。
さっき、
本人が
自白をした云々という話がありましたので、その点について私、一言申し上げたい。
これは、見ようによってはまことに不思議なケースなんですね。
本人は、私がやりましたということを言っている。弁護士は、そのときから終始一貫してやっておらないという弁論をする。まことに不思議なんでありますけれ
ども、私は、その当時の記録を若干、拾い読みでありますけれ
ども、読んでみますると、そのいわゆる
自白なるものが、なぜそういう
自白をしたかということに当然疑問を持たるべきだと思う。
裁判官が、少なくともそういう書類を眼光紙背に徹する、そういう心組みで読んだとすれば、恐らくああいう結果は出てこない。ことに、さっき申し上げたように、
控訴をされてからは、
本人も
自白を否定しているわけです。そして、しかも長い時間かけている。その間に、無期刑を宣告をした最後の
裁判長は、さっき申し上げたように、書類だけを見て判断をした。こういうことなんだけれ
ども、この
寺尾裁判長な
ども、もし関係の書類を眼光紙背に徹する、そういう
気持ちでこれを検討したならば、私は、結論は完全に変わっておったと思います。
特に私が
指摘したい、なぜ
自白を簡単にしてしまったのかという点でありますけれ
ども、これは
捜査の段階で、
自白をすれば十年で出してやる、十年で出られるのだ、こういうことを強く
印象づけてしまったわけですね。それで、どっちみち十年しんぼうすれば出られるのだ、そういう
気持ちだった。しかも
本人はごく軽微な、鶏をかっぱらったとかなんとか、いろんなことがあったようです。ですから、そういうのが全部ばれたわけです。それで、そういうのがばれたのなら仕方がない、十年ぐらいしんぼうしよう、そういう
気持ちになった。
その心境の移り変わりも、記録を見れば明瞭であります。それで要するに、十年いれば出られるんだ、出してもらえるんだ、こういうことが
捜査の段階で非常に強く
印象づけられた。しかし普通の
常識では、普通の世間の人ならば、今度の
事件のようなのはまさに
強盗殺人事件、極悪な犯人として挙げられているわけですから、それが有罪に確定した場合に、十年で出られるなんというようなことは考えられないんだけれ
ども、その点が私は、この
狭山事件という、いわゆる被差別部落の人に起こった特異な現象だと思う。
と申しますのは、
最初の
自白を引き出すときに大変な役割りを果たした人に、関源三という巡査部長があるわけです。この人は、大丈夫十年で出られるんだ、おれが保証するんだということで言った。だから弁護士などが来ても相手にしない。弁護士の言うことなど——第一、
本人は、弁護士なんというのはどういうものだかさっぱりわからない。敵だか味方だか、全然見当がつかない、そういう人だったようですね。そこへもってきて弁護士が、いや、それはそういうことを言ったら大変なんだ、君はやっていないと思うんだけれ
ども、それをうっかりやったなんていうことを言ったら、それはもう大変な重罪を受けるんだというようなことを言っても、にやにや笑っていて、いやいいんですというようなことで笑っているというんですね。その辺の
状況が、いわゆる被差別部落の人の置かれてきた境遇ないしはそこから培われた心理、そういうことに十分な理解を持たないと、理解ができない問題ではないかと思います。
つまり、先ほど申し上げた関源三という巡査部長は、駐在所のお巡りさんだったけれ
ども、その部落の青年団と接触して野球の指導員になった。それで、この
被告人として挙げられておった石川一雄君な
ども、野球の指導員として非常に親しくして、非常に信頼をしておったんですね。
そして、これは私は特に
指摘をしなければならない、そういう境遇に育ってきて、そういうところで培われた
一つの心理という点で、ぜひ明確にしておかねばならぬと思いますのは、あの差別を受ける人、これは差別を受ける人全部に共通する、いまのいわゆる部落の問題だけではなしに、他の理由でも結構でありますが、差別を受ける人の心理は、自分は全く世間一般の人から相手にしてもらえないんだ、そういう非常に強い孤立感みたいなものを持っているわけです。そこへ、たまたまその部落以外の人が、被差別者でない人が乗り込んできて、一緒に裸になって野球をやるとかそういうことをすると、本当にその人に対する信頼あるいは敬愛の念というか、そういうのは人一倍強くなるわけですね。ちょうど前のそういう人に対する反感のいわば裏返しだと思うのです。いままで反感を持っていた人の中から、たまたまそういう人があらわれたということになると、これこそおれの味方なんだ、こういう
気持ちが非常に強くなってしまう。これは私が長い経験を通して、このことは骨身にこたえて知っておるわけです。そういう環境になかった人には想像できない。そういう特殊な心理状態があるわけです。
だから、関源三という駐在所のお巡りさんが飛び込んできて、もう一緒になって野球をやるのだというようなことになると、矢も盾もたまらない。一も二もなくその人にほれ込んでしまう。何もかも一切合財その人におすがりをする、任してしまう。そういう心理になってしまうのは、長い間差別を受けるというような不幸な環境にあった人の心理です。だから、特にこの人を呼んで、全くこの人は石川一雄君の救い主だということで、彼が警察に来て実に親切に差し入れをしたり、いろいろ話をしたりしてくれるわけです。石川一雄君の書いたものによると、まさに地獄で仏に会った
気持ちだ、こういうことを言っておりますから、私はまさに、地獄で仏という彼の感想は、その
気持ちを端的に語っていると思う。その人から
自白をしろ、お父さんやお母さんも心配しておるのだから、早く君が
自白をして後は楽になった方がいいぞ、こういうことを言われて、それを信じ切ってしまったというところに、そもそもの悲劇の発端があったと私は思います。
ですから、そういう点について、恐らく第一審の
裁判官は簡単に片づけてしまった。第二審はくるくると
裁判官がかわっていく。最後の
裁判官は書類
審理をしながら判断をする、こういうことで、こういう結果になってしまったのではないかということを私は痛切に考えるわけですが、いま最高裁の刑事
局長にそのことを申し上げても、私
どもが期待するような
答弁はもらえないと思います。
要するにそれは
裁判所の問題だ、こういう
答弁しか返ってこないと思うので、別の問題に移りたいと思いますが、しかし
狭山事件の根底に横たわる最も重大な問題、いわゆる人間が人間を差別をする慣習あるいはそういう社会環境、その中で育った人、そういう人に対する正しい
認識がないと、これは
裁判ばかりじゃありませんけれ
ども、間違ってしまう、こういうことが痛感をされるので、
裁判の場合に、そういう点についてどういう
見解を持っておるか、その点だけ一言聞かしてください。