○
池田参考人 私は、
安楽死とか尊厳死とかというような、死を選ぶ
権利の有無というようなものを真っ向から論じるというつもりは全くございません。私は
看護婦でございますので、医療の中にありまして、毎日毎日がこの生と死の谷間にうごめいている魂というか心、そういう
状態の人たちにかかわり合いを持って仕事をしておりますと、
人間にとって生ということ、生きざまというのですか、
人間が一生を生き終わる
状態というものをいつも見せつけられまして、どうやれば私自身の生の問題、または死の問題を含めて、医療者として、
人間にとっての安らかな死というものを全うし終えるものに携わることができるか、それをいつも思っているわけなのですけれども、私どもがどろどろになって仕事をしているその
現実と、こういう
安楽死というようなものが
法制化される、そういう空気というものは全く何かなじまなくて、頭の上のどこかを吹き飛んでいっているような感じがいたしまして、そういうことが
本当に目の前に、あんなに生きること死ぬことに苦しんでいる人たちに、安らかな死をもたらすものなのかなということを感じながら、
参考人の席のところで伺っておりました。
私は、そういうわけで、
人間にとりまして魂が安らかに生を全うして死というものを迎え入れるようなことがあれば
本当に平和だな、平安だな、そういうことを願いながら病人を診ております。その中で、二つぐらい、つい最近私が経験しましたことを申し述べまして、それで十分だとは決して思いませんが、そういうことを経験する中で、医療者としての
人間的な成長があるんだなということを実感している、それをここで申し述べさせていただきたいと思います。それが私の
参考人としての務めかなと思いますので……。
実は、子宮がんの
末期の方で、五年以上生存しておられたのですけれども、再発いたしまして亡くなられるという方に出会いました。その方が、
末期の
状態のときに大変苦しい苦しいとおっしゃいます。その
苦痛を軽減するために、麻薬を静脈の中に点滴する。それは、ずっと続けていけば確かに
生命を短縮することになるかと思いますが、最大限に配慮された
治療として、痛みを軽減するという意味で選ばれた
治療でしたけれども、その方が静脈の中に麻薬を打ちながら苦しさを——ある期間眠られるのですね。眠っていらっしゃる、それが
苦痛が軽減されているという
状態なのですけれども、その方のおそばに行きまして、お注射を要求されるときに、四時間ずつの間隔がないと打てない。確かに、
看護婦が呼ばれる、まだ時間が来てない。
患者さんの方では、そんな冷たいことを言わないで打ってくださいよ、こう言われる。
そういうやりとりをしておられるそばに私がおりまして、そうねえ、三時間、まだちょっと時間が短いわねえ、何かあと一時間を待つような
方法はないかしらねえというふうなことで話をしていますと、その方の痛みというものが、人と話をしている間にふっと軽くなっていくという時間があるのです。特別に私がそこで何かをやるというわけではないし、私に特別な力があるというのではないのですけれども、二人で話をしていますと、それも別に人生論とか宗教観とか、そういうものを話すわけではないのですが、あたりまえの話をしていますと、その四時間日が来るまで待てる。四時間たったから、お注射を打ってしばらく休みますかというふうな状況というものがありまして、その苦しい苦しいとおっしゃっていることが、確かに肉体的な痛みというものもありますけれども、それ以外の意味が含まれているというふうに思えるわけなのです。
ですから、その苦しみというものの中に何が含まれているのだろうな、こう思っておりますと、こわいとおっしゃるのですね。死ぬことがこわい。死の恐怖が私をいま一番苦しめている。
自分が苦しいと言っていることは、そういうものが大部分含まれている。痛みどめというか、そういうものを処置されますと
自分は眠る。そういう
苦痛は
考えなくて済む。恐怖感にさらされないで眠っていることができるから、その痛みどめを要求する。肉体の痛みもとまるし、
自分のそういう気持ちの安らぎというものが、安らぎというより、むしろ
考えなくて済むという
状態が来るから、注射を要求しているのだとおっしゃるわけなのです。死の恐怖って一体何なのでしょうねと話をしておりますと、とてつもない、どこかわけのわからないところに
自分がすっと追いやられていってしまうような形で、それを見送っているものというのは、しゃれこうべのような顔が浮かんでくるのですよねというふうな話をなさるのです。孤独なんですねと申しますと、それがたまらないのだ、こう言われるわけです。
ですから、その方は、そういうペインクリニックで処方された薬をいただくということは、確かに肉体の痛みというものを軽減すると同町に、
自分の死の恐怖をひとときでもいいから忘れられればいいな、そういう思いでやっておられる。私のような者でもそばにいて差し上げますと、薬じゃなくて、死の恐怖感というか孤独感の中でおびえておられるその人の気持ちを紛らすというのでしょうかね、しばらくでもその恐怖から遠のいていることができるということを私は体験いたしました。
そういうかかわり合いの中で、いよいよその人に、
医学的なといいましょうか、
人間の
生命、
生命といいましても
生物学的な意味での終末、
末期の
状態がやってくるわけです。それは、血圧が下がるとか、意識がもうろうとなってくるとか、脈圧が少なくなっていくとかいうふうな状況が来るのですけれども、そのときに、何かとてもさびしくてたまらない、
自分が死んだらどこへ行くかわからないから、さびしくてしようがないので、何かいい話をしてくださいと言われるのですね。私は、宗教的な意味で深い宗教心というものをまだ持ち得ていないものですから、病人がそういう状況に置かれていてどういうふうに孤独なのかということがわからないのです。言葉としての孤独感は私もわかるつもりですけれども、実感しておられるそのことがわからない。
何かいい話をと言われても、私はできませんでしたけれども、二人で私の知っている範囲の賛美歌を歌ったのです。そうしたら、その方が一緒にハミングしながら、麻薬を静脈に入れながらの
状態の肉体の痛みの中でも眠られるのです。小指を握らせてと言って、私の両方の小指を握りながら、その小指を握るということが私にはどういう意味なのかわかりませんけれども、その方と触れ合っている、つながっているという感じがありまして、二人で歌を歌っていますと、すごく気持ちが安らいできて眠れるということで、
本当にすやすやとお眠りになるのです。
私はこの事実が何なのかということはわからない。だけれども、
現実には、死のうとしている方の心は
本当に安らかなんだなという思いがしまして、死んでいこうとしている人がこういう安らかな時間を持てるということは、
人間の死というか生の終わりというときに大事な時間なのかなということを実感しながら、その場にいたということがあります。
こういうことを体験しているわけですけれども、その方は確かに、
末期になりますと、気管支などにたまるたんを
自分で吐き出す力がなくなってくるのですね。下手をしますと、そのたんが気管にたまって窒息死する、死を早める、ほっておきますとそういう
状態が来るということで、マウスピースといいまして、くちびるを
自分の力でかまないような補助器具を口につけてやりまして、気管の中にチューブをたやすく入れられるようなものが口にはめてありました。それがとれないようにばんそうこうでとめてあるのですけれども、これは確かに自然の
状態ではないわけですから、過剰な
医療行為、
治療行為の中に入ると言われるかもわかりません。
しかし、たんがたまるのを防止するためのそういう
措置がしてありまして、それがしてありますと、その方と言葉での交流はできませんが、窒息という不慮の出来事を防止するということで、物が言えない
状態だけれども、まあこのくらいのことは仕方のないことなのかなと思いながら見ておりました。その方に、つらいですねえ、苦しいですねえと声をかけますと、
意思の
表示ができないので、この辺の筋肉を動かされるのですね。それは、見方によっては意味のない偶然なことかもわかりませんけれども、私は一心にその人に、つらいですねえという思いで声をかけているから、それに答えるかのごとくに、それの後にこの辺の筋肉が動きますと、ああ、やっぱり私が言っていることがこの方はわかるんだなと思うわけです。
そのときに、要するに
生物学的な
状態というのは、お
医者さんが
末期状態としてチェックなさるその
数字的なものとしては、確かにもう
末期の死の徴候としてあらわれている。血圧は百をうんと下っている。七十、六十と低い。意識も遠のいたり戻ったりするもうろうという
状態。これだったら普通、私も看護学校で基礎
医学を習いますが、とても正常な
人間の意識は活動していないというふうに見られるような
状態かと思われますけれども、
意思が疎通するのですね。常時疎通するとは思えませんけれども、ああわかっていらっしゃるなということが、私がそういうふうに思えるような
状態で
意思の疎通がある。そうしますと、もう
治療の効果もない、死を直前にしている人の
判断といいますか、それはいまの
医学でたくさんの経験例の中から出してきておられることだとは思いますけれども、それで画一的に見ていいものなのかということは、私も直にそういう病人を見ておりますと、それでいいのかな、でも、この方は確かに意識が通じるよというふうなことを思うわけなんです。
いま私どもがこの
法案の中に書いてございます「
不治且つ
末期の
状態」ということを
判断していくというのは、いままであるような知識、
医学の
考え方でいいのかなという気があります。もっともっと深めていかなければ、その辺についても一人一人の
人間についてはまだまだ十分じゃないなというふうな気がいたします。看護をする身の
立場の者にとりましても、できるだけ
医学が、知識といいますか、開発された
治療というものを、
人間にとって幸せにそれを使えるという形で使いながら、命をできるだけ大切に長引かせるというか、
人間と
意思を疎通させながら濃厚な
治療を施していく中に、私どもは、
人間にとっての看護者、そういう
立場で安らかな死というものを求め続けていくという機会が与えられる。
もしもこれが亡くなられる方の
意思として、死ぬ
権利というのでしょうか、そういうことで正常な意識の
状態のときにそういう文章が書かれていて、いよいよというときに、それを施行する側から一方的に、死ぬ
権利ということをこの方は主張しておられるからということで、命がもしも人為的に縮められたら、一体どういうことになるのだろうなというのが大変私はいま不安になっております。
もう
一つ、重症の心臓障害の子供。四つに分かれている心臓の部屋がたった
一つしかないような
状態で先天性の奇形で生まれた子供が、つい最近亡くなったというケースに立ち会いました。
そういう重症な心臓障害の子供が一年十一カ月生きていて、歩き始めたら余病が起こりまして死の転帰をとったということなんですけれども、そういう子供というものは、生かせられるも殺されるも
自分の
意思では
表示ができないわけですね。どんなに濃厚な
治療を受けて苦しい思いをしても、子供は
自分でそれを拒否することができない。そのときには、
医者と家族というもがどういう態度でその子の
生命を尊重していくかということが問題になると思うのですけれども、それを私はつぶさに体験いたしました。
子供は純真です。なされるままに清純な気持ちで、ただもう
本当に何
一つ防備なしに
自分の体をさらけ出しているのですね。そのときに
治療を与える先生というのは、
生命のとうとさというものが満ちあふれて、その
治療をしておられる。重傷といいますか、インテンシブ・ケア・ユニットというところにその子は管理されておりましたから、いまの近代
医学のあらゆる装置を体につけて、それでその子供は一言も
苦痛を述べずに、なされるままに
治療を受けておりました。十日間に四回も、こんな小さな体で手術をしていくわけなんです。そういう奇形の子供というのは大変珍しい。私の病院でも初めてのケースですので、先生方がもしかして実験的なということでなさっている、そういうことがあったら困るなということで、家族の方がそれを感じ取っておられて、それを
医者に言うことができないでいらっしゃるということがもしあれば、私は、医療の内部の者としてそれを言わなければいけないかなと思って、その家族の方のところに行ったわけなんです。
そしてその方に、これ以上の
治療、もう切り刻んでくださいますなというお思いがおありだったらと思ったのですけど、口に出せないで、黙って御両親の話を聞いておりましたら、四度目の手術のときに、それを親としてお受けするということを返事をしたときの状況を私に語ってくださいまして、先生は
本当に気魄を持って
自分の息子の命のことだけを思ってこの手術をする、もしその手術中に命がなくなるかもわからないけれども、みすみす目の前で見過ごすことはできない、先生の中にはただならぬ御決意がありましたから、一も二もなくお受けしますと言いましたとお父さんがおっしゃるのですね。私は、
自分があさはかな知恵で何か準備していたことが言葉が出なくて、ああそうですか、そうだったんですね、先生はそういうお気持ちで四度目の手術ということを御決意なすっていたんですねと申し上げて、それで私は、そういう家族と
医師とのつながりというものを目の前に見せつけられたという思いがしました。
後での話ですけれども、その主治医と同時に心臓の専門の先生が手術に立ち会われて、その先生がおっしゃるのに、あの主治医は、あの子供の命のことは人の子の命なんて思っていないよ、わが子以上にあの子のことを思って、
本当に身を細めるばかりに夢中になっているなというふうに、
看護婦に漏らされているのですね。
それで、私はそのことを聞きまして、ああ
本当にむずかしい問題だけれども、いろいろな濃厚な
治療と言われるような過剰な医療処置と言いましょうか、
延命処置と思われるようなものの中にも、それをやっているその
人間、
医者を含めて、私ども
看護婦も入ると思いますけれども、その人たちが、どのように
一つの
生命に対する尊厳というような気持ち、とうとさというものを持ってそれに当たっているかということの大事さ、それを家族も一緒に命のとうとさというものを祈り心地で見詰めていっている、こういう
人間同士のこととしてみんなが見詰め合う、こういうものはすばらしいなと思いまして、私ども医療者というものが、いまは確かに私も含めて医療の現場というものは、最初に
太田先生がおっしゃられましたように
本当に荒廃しております。これは私、
本当に
自分が内部の者としていたくいたく感じていることでございますけれども、それだけに、こういう私ども医療者をはぐくんでもらわせてもらいたいな。それは単に
技術とか知識とかというものにとどまらず、そういうものに携わる者の
人間性といいますか、人格を一転させるような形での教育、その育成、そういうものにぜひ当たらせてもらいたい。
これが人命尊重というか、
人間の
生命を尊重するという意味でみんなが
考えていることの
一つの中に、こういう
末期医療の
特別措置法というような
安楽死を法的にというようなことも出てくるかと思いますけれども、それ以前に、私は、
自分が身を置いております医療の場というものの中で、いままだたくさんのことを研究し、
人間にとって
本当の意味でのためになる、幸せにつながる、命を大事にする意味での医療ということ、医療の場の改善といいますか改め方、それに携わる者の
人間的な改造、改善、
本当に本質的にひっくり返るような教育の場を与えられてほしい、それが優先するのではなかろうかというふうに思われてなりません。これが私の
意見です。