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1979-05-09 第87回国会 衆議院 文教委員会 第9号 公式Web版

  1. 会議録情報

    昭和五十四年五月九日(水曜日)     午後零時三十二分開議  出席委員    委員長 坂本三十次君    理事 石橋 一弥君 理事 小島 静馬君    理事 近藤 鉄雄君 理事 森  喜朗君    理事 木島喜兵衞君 理事 嶋崎  譲君    理事 石田幸四郎君 理事 中野 寛成君       石川 要三君    久保田円次君       長谷川 峻君    藤波 孝生君       小川 仁一君    中西 積介君       長谷川正三君    湯山  勇君       池田 克也君    鍛冶  清君       伏屋 修治君    玉置 一弥君       山原健二郎君    西岡 武夫君  出席政府委員         文部大臣官房長 宮地 貫一君         文部省大学局長 佐野文一郎君  委員外出席者         参  考  人         (名古屋大学医         学部教授)   飯島 宗一君         参  考  人         (福岡大学法学         部教授)    石村 善治君         参  考  人         (東京大学法学         部教授)    塩野  宏君         参  考  人         (早稲田大学総         長)      清水  司君         文教委員会調査         室長      中嶋 米夫君     ————————————— 委員異動 五月八日  辞任         補欠選任   石川 要三君     稲垣 実男君   唐沢俊二郎君     藤尾 正行君   塚原 俊平君     増田甲子七君   山原健二郎君     安藤  巖君 同日  辞任         補欠選任   稲垣 実男君     石川 要三君   藤尾 正行君     唐沢俊二郎君   増田甲子七君     塚原 俊平君   安藤  巖君     山原健二郎君 同月九日  辞任         補欠選任   玉置 一弥君     塚本 三郎君 同日  辞任         補欠選任   塚本 三郎君     玉置 一弥君 同日  理事嶋崎譲君四月二十七日委員辞任につき、そ  の補欠として嶋崎譲君が理事に当選した。     ————————————— 五月八日  昭和四十四年度以後における私立学校教職員共  済組合からの年金の額の改定に関する法律等の  一部を改正する法律案内閣提出第六〇号)  学校教育法の一部を改正する法律案粕谷照美  君外一名提出参法第六号)(予) 同月四日  私学の学費値上げ抑制等に関する請願(友納武  人君紹介)(第三二八九号)  同(小川平二紹介)(第三三五二号)  同(北側義一紹介)(第三三五三号)  同(水平豊彦紹介)(第三三五四号) は本委員会に付託された。     ————————————— 本日の会議に付した案件  理事補欠選任  参考人出頭要求に関する件  放送大学学園法案内閣提出第四四号)      ————◇—————
  2. 坂本三十次

    坂本委員長 これより会議を開きます。  理事補欠選任の件についてお諮りいたします。  委員異動に伴い、現在理事が一名欠員となっております。これよりその補欠選任を行いたいと存じますが、先例により、委員長において指名するに御異議ありませんか。     (「異議なし」と呼ぶ者あり)
  3. 坂本三十次

    坂本委員長 御異議なしと認めます。  それでは、嶋崎譲君を理事に指名いたします。      ————◇—————
  4. 坂本三十次

    坂本委員長 放送大学学園法案を議題といたします。  本日は、参考人として名古屋大学医学部教授飯島宗一君、福岡大学法学部教授石村善治君、東京大学法学部教授塩野宏君、早稲田大学総長清水司君、以上四名の方々に御出席を願っております。  この際、参考人各位に一言ごあいさつ申し上げます。  参考人各位には、御多忙中にもかかわらず本委員会に御出席いただきまして、まことにありがとうございます。  本委員会は、ただいま放送大学学園法案審査をいたしております。参考人各位には、本案について、それぞれの立場から忌憚のない御意見をお述べいただき、今後の審査参考にいたしたいと存じます。何とぞよろしくお願いをいたします。  なお、御意見は初めにそれぞれ二十分程度お述べいただき、その後委員の質疑にお答え願いたいと存じます。  それでは、最初に飯島参考人にお願いいたします。
  5. 飯島宗一

    飯島参考人 ただいま御紹介にあずかりました飯島でございます。  私は放送大学の問題に関しましては、放送大学準備調査研究のための委員会に籍を置かしていただきまして、この間、この問題の準備検討のお手伝いをしてまいりました。また、放送大学創設準備室設置をされるようになりましてから、放送大学創設準備室長を併任いたしましたし、その後、放送教育開発センター設置が予定されるようになりましてからは、放送教育開発センター創設準備室長を併任してやらせていただいてまいりました。そういう経歴でございますが、本日は、個人的な立場でこの放送大学に関する所見を申し述べたいと存じます。  私が改めて申し上げるまでもなく、放送大学は、学問公開あるいは教育機会均等という面において重要な意義を持っておると存じます。ことにわが国におきましては、高等教育への進学率が最近急上昇をいたしまして、約四〇%内外の同年代の諸君が高等教育を受ける機会を持っておるわけでありますけれども、しかしながら、考えてみますと、半数以上の非常に多数の方々がいろいろな事情で高等教育機会を得ないままに経過をしておられるわけであります。私は、学問本質あるいは現在及び将来におけるわが国の種々の状況ということを考えまして、あらゆる国民勉強をする機会をより多く与えられるということは大変望ましいことであると存じております。また、単に大学経過すべき年齢層の青年だけではなくて、生涯教育あるいは生涯学習ということが要請をされるようになる、それからまた、現在の知識が非いくという中で、私どもが生涯にわたって高度の教育的な機会というものを享受することができるというのは、私ども国民にとっても当然望ましい事柄であるというふうに考えられます。そういう基本的な意味合いに立って、私は放送大学設置を推進することに賛成の立場でございます。  実は私は、長いこと大学教育に関与しておりまして、この放送大学の問題にかかわるようになりました当初には、放送大学可能性というものについて必ずしも積極的にこれを評価しておりませんでした。つまり、放送というメディアは文化的、学問的に大変重要なメディアでありますけれども、しかし、そのメディアと従来の概念における大学教育とが真になじむかどうかという問題もございますし、それからまた、それを実際実現をし、学習をする側の立場に立っていろいろなことを考えてみますと、これは決して容易なことではない。その意味から申しますと、理想と趣旨から申しますと放送大学実現ということに関しては全く異存がないわけでありますけれどもわが国大学状況わが国社会状況の中で果たして私どもがそれを積極的に確立し得るかどうかということについては疑念を抱いておりました。しかし、たまたま機会がございましてイギリスオープンユニバーシティーを再度にわたって詳しく視察する機会を与えられ、それからまた、放送大学創設準備委員会研究会議等に席を与えていただいていろいろなことを検討してまいりまする間に、後に申し述べますように、確かにこれは全く新しい形態高等教育でありますから、そこになお問題があり、今後解決すべき要素が多々あることは当然でありますけれども、しかしながら、大局的な立場でこの問題は推進し得るのではないかという考えに傾くようになったのでございます。  そこで、問題になりますのは、まず第一に、高等教育教育の与え方の問題であります。  御承知のように、高等教育内容と申しますのは、時代的にも順次変遷をしておりますけれども、しかし一般には、かなり高度の専門的な教育修練を必要とするというふうに考えられておりまして、その高等教育内容のすべての項目をこのような形で学生に十分に与えることができるかどうかという点にはまず問題があります。  しかしながら、これも申し上げるまでもなく、すでにわが国におきましても、また世界各国におきましても、通信教育という制度高等教育領域においても確立をしておりまして、そして必ずしも全日的な形態大学勉強をしなくても、いろんな通信その他の方法を通じて高等教育領域勉強を完成することは十分可能であるということが立証されておりますし、また、それを経過されて社会にあるいは学界に活動されておる方々も少なくないわけでございます。もちろんそう申しましても、たとえば医師の養成であるとかあるいは高度の実験実習を必要とする領域につきましては保留をしなければなりませんけれども、しかし、多くの部分においてこういう形で高等教育を開放することは不可能ではありません。  ただ、放送というメディアを主として用いるということになりますと、当然、放送というメディアに伴うところのメリットがいろいろ考えられる反面において、放送というメディアの持つ性格とそれから大学教育内容というものとの間に必ずしも単純には調和しない要素が存在をするということも事実であります。これらのことにつきましては、後ほどまたいろんなお話があると私は存じますけれども、簡単に申しますと、放送というものが与えられている公共性と、それから、大学教育大学として教育責任を持ち、それから大学社会の中で伝統的に与えられているところの学問の自由あるいは教育の自由ということの範囲が、どのように調整されるかということが当然問題になるということは申し上げるまでもないところであります。しかしながら、私は放送大学教育の方式というものは、放送だけが唯一の方法ではなくて、それにテキストその他を用いるいわゆる伝統的な通信教育方法が当然併用されるわけでありますし、それからまた、イギリスオープンユニバーシティー等参考にいたしまして、学習センター、セミナー、面接あるいはスクーリングというふうな機会がかなりのウエートで考慮されるように聞いておりますので、その側面においては十分この二つの問題点放送大学が止揚していくことは可能であると思います。もしそれが従来まで不可能であれば、およそ通信制大学というものは初めから成り立たないはずでありますから、良識とそれから国民の注視の中で、適切な放送メディア大学教育への利用ということが十分私ども努力いかん可能性があることであるというふうに私は考えております。何よりも教育関係におきまして私が放送大学を推進することに賛成しております最大理由は、わが国国民の中における学習意欲が自発的にきわめて高いということでございます。私ども大学におりまして、公開講座その他の形で大学一般社会に幾らかでもオープンにする努力を続けてまいりましたけれども、それらの機会市民が寄せられる修学意欲向学心というものはまことに感銘の深いものがあるわけでございます。私は、その市民向学心市民学習意欲というものを全面的に信頼をし、また、もし放送大学が今後健全な発展を遂げるとすればその根本の基礎は、われわれ国民の積極的、自発的な学習意欲に置かれなければなりませんし、またそれは私は十分に信頼することのできるものであるというふうに存じます。むしろ高等教育機会を持たれなかった方々、あるいは一たん高等教育経過されたけれども、現在の生活あるいは将来の職業的な生活というものを配慮し、より深い人生を開拓していこうという経過の中で熱心に高等教育機会を渇望しておられる多くの市民方々に対してできる限りの方法でこたえないということは、私はむしろ国としては怠慢のそしりを免れないのではないかというふうに思う次第でございます。  もちろん、総論的にはそのようでありますけれども放送大学教育の場面ではまだいろいろな問題があります。本来、放送大学あり方は、国民に対する教育機会均等ということが重要な動機でありますから、したがって、現在予定されておる放送大学は一地域から試験的に開発されるものでありますけれども、しかし当然これは全国国民がその機会を享受し得るものでなくてはならないと存じます。そういたしますと、全国をカバーした教育体系というものを、どのように教育内容、質を落とさないで、しかも教育としての正しいあり方を損わないで全国化することができるかというところにまた問題がありますし、それから、われわれの現在の社会は決して中央集権的な社会ではございませんで、各地域地域に新しいコミュニティーをつくり、あるいは生活圏をつくり、あるいは文化圏をつくり、各地域でそれぞれの市民が生き生きとした生活を展開しょうという動向がきわめて強くなってきておるときであり、またそれは私どもは正しい方向であると考えられます。したがって、放送大学教育のネットワークを全国に広げるに当たりましては、いま申し上げたような点を十分に配慮して、基本的には市民自発性、各地域地域の文化的あるいは生活的あるいは学習的自発性というものにこたえる形で放送大学の機能を発展させていかなければならないのではないかというふうに思っております。  それから第二の問題は、そういう形の教育の中核になる大学の問題でございます。  この大学あり方放送大学管理制度についてもいろいろ議論があると存じますけれども、私は、この放送大学学校教育法上における正規大学として位置づけられたということは非常に重要なことであると思います。したがって、私ども理解では当然、この放送大学は従来の大学に付与されたところのすべての属性は保障されているというふうに理解をしております。つまりそれは、大学自治の問題であっても、大学管理運営における大学自体責任であっても、すべての面において、あるいは単に教育をするだけではなくて、研究的な可能性というものが十分に大学自体の中に内在しておるという点においても、正規大学としての属性のすべてを保障されているものであるというふうに理解をいたします。  しかしながら、この放送大学は、構成から申しましても単に教育関係者だけが主要なスタッフではございません。たとえば放送関係専門家等も当然入ってきてくれなければなりませんし、その他社会教育的な要素に関心のあるエキスパートの関与というものも必要でありますから、したがって大学自体の内部の管理運営につきましては、大学本質が保障されると同時に、新しい関係的な諸関係というものを今後創設されるであろう放送大学が十分にみずから検討をして、最もよい自主的な管理体制というものが確立されていかなければならないというふうに考えております。基本的には、そのことは正規大学という点で保障されなければならないと存じております。  この設置母体として特殊法人構想するに至ったということにつきましては、私はむしろわが国の現在における放送法の絡み、放送事業との関係あるいは国費の出し方等の政策的な問題からこの法人という設置形態に落ちついたものであると理解をいたします。  実はこの問題も、高等教育関係においては初めての問題でありまして、したがって前例がないわけでございますけれども、しかしそれだけに、いろいろな政策上の理由から設置母体法人に求めたということに関しましては、今後の実際の運営面において関係者が十分に留意をし、何ゆえこの法人形態をとらなければならなかったかという利点を活用することは必要でありますけれども、しかし、本来のこの大学の目的である多くの国民のために、大多数の市民のためによりよき教育環境を提供し、しかもその根幹は市民自発性にまつという筋道を誤らないような運営をするということは、関係者の今後の義務であろうというふうに存じております。  時間の制約がございますので詳しいことに立ち入ることはできませんでしたが、いろいろ問題を含んでおることを私ども十分承知をしておりますけれどもわが国の将来及び市民要請に対する一つの積極的なレスポンスとして国がこの際この制度を発足せしめることを私どもは強く期待しておるものでございます。  以上でございます。(拍手)
  6. 坂本三十次

    坂本委員長 次に、石村参考人にお願いいたします。
  7. 石村善治

    石村参考人 ただいま御紹介いただきました福岡大学石村でございます。  私は、ただいまの飯島先生のように直接放送大学の問題にタッチしたわけでもございませんし、それからオープンユニバーシティーといったようなものについて細かく実地で検討してきた者でもございません。ただ、十年前から放送大学の問題が世上で問題になりましたときに、一人の研究者立場としてこの問題について検討をしてきたわけでございます。今回、放送大学学園法案といったものが提出されているわけでございますが、私は学園法案の中身について、一人の研究者としてあるいは一人の国民として、あるいは一人の素人としてと言ってもいいかもしれませんが、問題ではないかと思われる点を率直に申し上げてみたいと思います。  放送大学構想については幾つかの構想なりあるいは計画があるわけでございますが、五十年十二月十七日に発表されました基本計画によると、最大規模学生四十五万人の規模だということが示されておるわけでございます。したがって、放送大学という非常に大規模大学が発足するということ、しかもそれが大学という名前のもとに従来の大学と並ぶものとして発足するということ、それから電波という非常に強力な伝達手段を通して教育が行われるという点、この点から従来の大学と違った問題点あるいは違った注意すべき諸点があらわれるのではないかと思うわけでございます。先ほども飯島先生がおっしゃいましたような、大学自治とか学問の自由とかいったような問題とこの放送大学そのものが果たして一致あるいは合致していくのがどうかというふうな問題がございますし、それから、後ほど申し上げますように、放送制度そのものがこの法案によって変化していくのではないかというふうな点を考えるわけでございます。そこで私は、三つの点について学園法案の中で問題ではないか、あるいは三つの点について将来検討を重ねていくべきではないか、あるいは三つの点について運用の中で解決すべきではないかという点を考えておるわけでございます。  第一番目は、組織運営の問題でございます。  これはしばしばいろいろなところで指摘されておりますので、ここで再び申し上げることはないと思いますけれども学園法案の中の諸条項を拾い上げてみますと、たとえば十条の第一項では、「理事長及び監事は、文部大臣任命する。」それから十九条の第一項では、運営審議会委員は「文部大臣任命する。」というふうに文部大臣権限が非常に強力な形で認められておるわけでございます。それから、任免の手続についても二十一条以下に規定があると思いますが、「学長は、理事長の申出に基づいて、文部大臣任命する。」というふうな規定、あるいは「副学長は、学長の申出に基づいて、理事長任命する。」それから「教員は、学長の申出に基づいて、理事長任命する。」というふうな形で、理事長なりあるいは文部大臣といったような方々権限が非常に強固に認められておるわけでございます。  ただ、二十三条の中で放送大学評議会を置いておるわけでございます。二十一条の第六項でございますが、学長それから教員の場合の任命について「評議会の議に基づいて」行うという形の規定が置かれております。恐らくこの「評議会の議に基づいて」行われるということの中に、ある程度の文部大臣権限に対する制約といいますかあるいは文部大臣権限に対する一種のチェックといいますか、そういったものが用意されておるかと思われますけれども、しかし、評議会それ自体諮問機関としてしか認められていないという点、これは二十三条の第四項にその規定がございますが、学長諮問機関としてしか認められていない、それから、評議会そのもの構成メンバー大学教授に限定をされておるという点で、私は果たして従来の大学の中にあるような学長に対する大学スタッフ意思疎通といったようなものが図られるかどうかという疑いを持っておるわけです。  それから、解任手続についても、これは重要なところだけを申し上げますと、特に十三条の第二項の中に役員解任という規定があります。これは文部大臣または理事長役員解任を行えるという規定になっておりますが、その中に「次のいずれかに該当するとき、その他役員たるに適しないと認めるとき」というような文言があるわけでございます。「その他役員たるに適しないと認める」というふうな言い方になりますと、これはほとんど文部大臣または理事長自由裁量といいますか、自由な判断に解任が任されてしまうのではないか。この点は、単に任命のときに文部大臣権限が非常に強いというだけではなくして、解任についても文部大臣権限が非常に強く保障されているというふうに感じるわけでございます。  従来の大学のいろいろな組織について多々問題があるかとは思いますけれども、しかし、教授会中心にした大学自治といいますか、教授会中心にして学長を選びあるいはその他の運営役員を選ぶというシステムと非常に違うシステムがこの中に登場してきておると思うわけです。そういった点をもう少し民主的な運営の仕方に改めるべきではなかろうかというのが私の意見でございます。  ちなみに、これは先ほどの話の中にも出ましたように、イギリスオープンユニバーシティー組織運営を見てみますと、その点が日本組織運営と非常に異なっておるということに私は注目したいと思うわけです。これは実際に私、オープンユニバーシティーに行って見てきたわけではございませんのでその実態を正確には承知していないかもしれませんが、少なくてもオープンユニといったようなものを見てみますと、日本役員選定あるいはその他の機関選定によりももっともっと民主的なやり方で選ばれておるというふうなことが指摘できると思います。たとえばオープンユニバーシティーには理事会それから評議員会といったようなものがあるわけですが、その理事会構成員についても、これは細かく申し上げる余裕がございませんけれども、学則の十一条というところに理事会は次の構成員から成るものとするということで、職権上の資格で構成員となる人たち総長総長代理、副総長以下あるわけですが、さらに任命によって構成員となる者ということで、枢密院の議長が任命する者とか、あるいはイギリス全体の大学学長会議といいますか、そういったものから任命される者とか、あるいは学士院任命する者とかいうふうなものが理事会メンバーに掲げられておるわけです。そしてさらにその中で、一般的な教授スタッフもまた理事会の中に理事として当然メンバーとなり得るのだということがはっきりと明示されております。それから、評議員会についても同じようなことが言えると思うのですが、一般的に言えば大学スタッフ、これは学生を含めてそういったスタッフをできるだけ大学運営の中に参加させていこうという姿勢が貫かれておるのではないか、イギリス人の言う参加民主主義、パーティシペーティブデモクラシーという理念がオープンユニバーシティーの中に貫かれておるというふうに感じておるわけです。そういったイギリスなどの制度と比べてみて、日本の今回の法案は非常に閉鎖的ではないだろうか、あるいは大学のうちの中でも非常に閉鎖的ではないだろうか。公開ということが問題になるとするならば、公開制度をもう少し十分に準備すべきではないかというのが私の一つの考え方でございます。  それから第二の点でございますが、これは教育方法に関する問題になるわけでございます。  これは放送大学放送一つ教育メディアとのですが、基本的に教育そのものの理念から言えば、教育というのは、一方的な意見の伝達とかあるいは思想の伝達ということによって成り立つのではなくて、やはり相互のコミュニケーションの中で、これは先生と学生という間にも相互のコミュニケーションが必要でしょうし、学生学生との間にもコミュニケーションが必要でしょうし、そういったパーソナルな接触の中でこそ教育といったものが行われていくのではないか、あるいは行われていくべきではないかというふうに考えておるわけです。そこで、そういった放送を利用する場合に、そういった意味で放送というメディアは必ずしも教育の基本的な方法ではないのではないか、副次的な方法としては考えるかもしれないけれども、主たる方法ではないのではないかというふうに考えるわけです。  このことは、イジリスのオープンユニバーシティーという大学の名称がかってユニバーシティー・オブ・ジ・エアというふうな言い方であったのが、オープンユニバーシティーというふうに変わってきましたし、それから西ドイツなどでも、放送大学という言葉で呼ばれておったのが現在では通信制大学、しかも通信制大学方法としてさまざまのメディアを複合した形の通信制大学というふうな規定の仕方をしていっているわけです。私はやはりそういった諸外国の経験というのは、放送が持つ教育に対する力といいますか効果といいますか、そういったものを十分しんしゃくした上で考えられてきたものだと思うわけです。その点の反省を踏まえて、わが国放送大学といったようなものも構成されなくてはいけないのではないかというふうに思うわけです。そのためには、どうしても相互の接触が大事だとすれば、これは学習センターだとかあるいは地域のセンターだとかいったようなものが十分に整備され、そしてそういう十分に整備されたものの中で十分な教育が行われるのだということがあって初めて、放送大学として発足すべきではないかというふうに私は思うわけです。  ところが、この放送大学学園法案の中では、そういった地域センターとか学習センターとか、あるいは私が先ほど申し上げましたような教育方法の基本に関するものについての定めが非常に乏しいのではないかというふうに考えるわけでございます。そういった点で、地方のさまざまのセンターなどの組織なりあるいはその中の運営の仕方なりといったようなものを法律の中でやはりはっきりと定めていくべきではなかろうか、あるいは法律をつくる中でいろいろ国民意見を聞きながら考えていくべきではなかろうか、その点まだこの法案の中では十分に尽くされていないのではないだろうかという感じを私は持っておるわけです。  それから、同じようなことになるわけですが、私は福岡という地方から来ておるわけですが、今度の法案を見ますと、第一番目の計画として、東京周辺が候補にといいますか予定されておる。むしろ私は教育機会というふうなことを考えるならば、地方におる国民なりあるいは市民こそがそういった恩恵に浴したいということだと思うのです。そういった意味では、この放送法案が考えておるあるいは予定されておるものの中身は順序としても逆なのではないか、むしろ地方に先にそういう恩恵を与えるというふうな努力がなされるべきではないかというふうに私は感じたわけでございます。それは、教育が中央に集権化されるということが学問の自由とかあるいは思想の自由とかいったようなものに対して、必ずしもプラスにはならないというふうに言われておるわけですけれども、そういった意味でも、地方分権の中であるいは地方分化の中でこそ最初にこういった問題が考えられていくべきではないかというふうに考えるわけです。  さらに、その地方の問題が登場してきますと、地方の文化を向上させたりあるいは地方にいる市民たちに学習機会を与えるということになった場合に、じゃ果たして改めて放送大学というような形でやらなくてはならないのだろうかという疑問があるわけです。むしろ地方の市民なりあるいは国民にとっては、現存しているたとえば成人教育のさまざまの制度、これは公民館の制度などさまざまあると思いますが、そういった現存の社会教育制度こそ充実させていくのが本当ではなかろうかという感じもするわけです。その点この法案全体を見て、われわれ地方に住んでおる者にとっては何か冷たい感じのする法案だというふうな感じがつくづくとするわけでございます。  それから、もう時間がございませんが、第三点としては、放送の自由とそれから放送大学というふうなことが当然問題になってくると思います。  これはしばしば議論されておるように、現行の放送法のもとにおける日本放送協会と一般放送といったもののほかに、明らかに第三の放送局が登場してくることになると思うわけです。したがって、そういう第三の放送をつくるということは、やはり放送法全体の中で十分審議されなければならないのではないだろうか。放送大学法案の附則とかあるいは単なる改正手続でなくて、もう少し真正面から放送法全体の問題として取り上げていくべきではないか。放送大学ができることによって果たしてNHKが現在行っておる教育番組にいかなる影響が生まれてくるのか、あるいは第三のそういう放送をつくることは果たして望ましいものかどうか、まだまだ議論されなければならないのではないかと考えるわけです。  そのほか、放送法四十四条の三項の問題について、どの程度放送大学の講義について適用されるかあるいは準用されるかという問題があるわけですが、これは非常にむずかしい問題で、私もはっきりした結論を申し上げることはできませんが、少なくとも放送大学で行われる放送については、教育基本法の基本的な考え方が上にあって、そしてそのもとでの放送というふうに考えなくてはいけないのではないか。したがって、放送大学の中で行われる放送については、従来の大学と同じような学問の自由といったことを保障するような何らかの手続が必要なのではないかと思うわけです。そのことは最初に申し上げましたように、学問の自由とか放送の自由を保障させる一つ制度としては、放送大学の中の組織が民主化されていなくてはならないのではないか。放送大学の中のスタッフが自由に意見を言うことができる、そして自由な意見の交換の中で番組をつくることができる、そういうシステムが確立されていないと大学としての放送にはならないのではないかという感じを持っているわけです。  以上三点、非常に大急ぎの舌足らずの感想でございましたが、報告にかえさせていただきたいと思います。(拍手)
  8. 坂本三十次

    坂本委員長 次に、塩野参考人にお願いいたします。
  9. 塩野宏

    塩野参考人 ただいま御紹介にあずかりました塩野でございます。  放送大学学園法案について意見を述べよということでございますので、同法案の附則に掲げられている事項を含めまして、私の考えるところを申し上げたいと存じます。  最初に、放送大学に対する私の基本的な考え方について申し上げます。  放送大学教育に利用することは、大学教育にとっても、電波の有効利用という面からいっても適切なことと思われます。さらに一歩進めまして、放送を主たるといいますか主要な教育手段の一つとする大学、つまり放送大学設置することには、これから申し上げますようにいろいろな要素を考慮する必要がありますが、わが国高等教育の充実策の一つとして十分考慮に値すると考えます。  しかしながら、これを実現していくに当たっては、慎重に考慮しなければならない問題が多々ございます。細かな点は後に法案との関連で取り上げることにいたしまして、さしあたり一般論として次の三つのことを申し上げたいと存じます。  すなわち一つには、大学教育放送というのは、それぞれの大学なり放送なりの従来のあり方をそのまま前提とする限りでは、相いれないものがあると私は考えます。  大学における教育の中核と申しますか中心的部分は、古典的には、教官が自己の学問研究の成果を学生に披瀝する、さらに学生とのコミュニケーションの過程を経てより真理に近づこうとするところにあります。またその際、どういうふうにしてこれを教育するかという教授方法の自由も教授の自由に含まれるものと考えられるわけでございます。これに対しまして放送においては、放送事業者の放送の自由を基礎としながらも、社会における多様な意見をこの放送に反映いたしまして、自由な世論形成の素材を提供することを重要な任務としております。両者はもちろん、現象的には常に相反するというものではございません。しかし、大学教育放送の持つ任務の違いということからいたしまして、現実にあらわれる形では両者は完全には一致するものではございません。したがいまして、放送大学を安易に結びつけて、放送大学というふうにすればそれで事は終わるというものではございません。また大学のサイドから見ましても、放送を主たる教育手段とするという点におきまして、放送大学は旧来の大学とはかなり異質なものを含んでおります。また放送サイドからも、放送大学放送は、従来の放送局の観念による放送では律し切れないものがございます。その意味で私はかつて、いまから八、九年前でございますけれども放送大学を正体のよくわからないぬえのようなものであると評したことがございます。  以上の点からいたしますと、放送大学構想実現するに当たりましては、これを一つの原理原則で割り切ることはできないという認識を持つことが最小限必要なことであろうと考えます。さらに申しますと、仮に放送大学を設立しようとするならば、自覚ある妥協と申しますか、冷静な比較考量が各種の面で必要であると思います。これが一般論として私の申し上げたい第一の点でございます。  第二の点は、いま申し上げたことと関係いたしますが、既存の放送及び大学のそれぞれの分野に対して放送大学が与えるインパクトを十分考慮しておく必要があることでございます。  第三に、私は先ほど大学教育放送の違いというものをやや強調して申し上げました。しかし実は、両者にはきわめて重要な点で共通性がございます。それは、両者ともに国家権力、特に行政のコントロールからできるだけ自由な存在でなければならないということであり、また現にそうであるということでございます。この点は、両者を結合した放送大学にそのままあるいは一層当てはまることでございます。  以上の基本的前提に立ちまして、次に法案に関する私の具体的な意見を申し上げます。  まず、概括的な印象を言わせていただきますと、この法案は、いま申し上げたような複雑な問題に関しましてかなり目を配ったものであると評価するに私はやぶさかではございません。しかし、なお考慮すべき幾つかの問題があると考えます。この点私はさしあたり、学園及び大学に対する政府のコントロール、学園及び大学機関、学園における教育放送三つにしぼって順次申し上げたいと思います。  最初に、学園及び大学に対する政府のコントロールについてでございますが、法案は、コントロールを限定的なものにすることにかなりの意を払っていると思います。たとえば法案第三十六条は主務大臣の監督命令権を定めておりますが、それは財務、会計事項に限られており、こういったやり方は、通常の特殊法人には見られない限定の仕方でございます。また、人事に関する文部大臣の任免権のうち、学長に関しては、法案第二十一条により評議会の申し出に基づくこととされております。  なお、評議会はほかにも、教官人事等につき権限を有するものとされていますけれども、それが諮問機関にすぎないのではないかという批判的見解を聞くことがございます。条文の形は確かにそういうふうに読めますが、実質的には評議会は決定機関であると解釈すべきものと考えられます。ちなみに申しますと、国公立の大学評議会も、形式的には諮問機関でありますが、実質的な決定機関として解釈、運用が一定の部分についてなされているということからもこの点は明らかでございまして、放送大学評議会をこれと異なって解釈する理由は全くありませんし、また、法案提出者もそのような考えには立っていない、むしろ教育公務員特例法と同じような考え方でこの法案が立案されているものと考えます。  しかしながら、理事長運営審議会委員に関する文部大臣任命権のあり方につきましては、私はかなりの疑問を持っております。この点は、学園の機関の問題と関連しますので、次にまとめて申し上げます。  そこで、学園に置かれる機関あり方についてでありますが、第一の点として、理事長理事等の役員の問題があります。  法案第九条によりますと、理事長が学園の業務を総理し、各理事が個別に理事長を補佐してそれぞれ業務を掌理するという構成がとられております。つまり、理事長を上司、それぞれの理事を下僚とするというピラミッド的、階統的システムがここに見られるわけでございます。言いかえれば、理事会という合議体は少なくとも法文の形には出てまいりません。しかし、学園の管理機構のあり方として、こういった独任制的なピラミッド的構成が適しているのかどうか。私は、放送大学学園のような業務をつかさどるところでは、むしろ理事会という合議体によって学園の業務の重要事項についてその意思決定がなされていく、そういった仕組みをとるのが適していると考えます。実行上このような仕組みをとることも可能でありますけれども、法律上この点が明らかにされていることが望ましいと思われます。  この点との関連で、理事機関大学機関との人的関係が問題となります。法案第十条では、学長が当然理事になるまたは理事長となることもあり得るとされ、そのこと自体は適切な措置と思われます。しかし、後に見るような学園と大学の微妙な関係からいたしますと、放送大学の教官の理事ポストをいま少しふやすべきではないか。学校法人でも理事に相当数の大学教官が就任しているということも聞いております。  さらに、現在の法案の形ではなおさらのことですが、仮に私が御提案した理事会方式というものを採用した場合でも、理事長の職はきわめて重要なものであります。この点にかんがみますと、法案のような、任命に際しての積極的資格要件も手続要件も全くなく、まさに裸のままに文部大臣理事長の任免権をゆだねるということには疑問の余地があります。任命に際して何らかの手続的手当てが考えられないものでありましょうか。具体的には、他の大学関係機関等の意見を徴するといったような手法が考えられます。もっとも、これを法文化するということには立法技術上の困難性も考えられないではありませんが、最小限、実行上、文部大臣の任免権が公正に行われるよう特段の配慮をお願いしたいところでございます。  学園及び大学に置かれる機関について第二に申し上げたいのは、評議会及び教授会でございます。  本法案においては、大学の意思形成に関し、評議会に重要な機能を持たしめているようであります。私個人の解釈だけでなぐ、従来の一般的な解釈、運用に従っても、人事案件等につき、評議会は単なる諮問機関ではない、そういうものと見られるべきものではないということはさきに述べたとおりでございます。これに対して、教授会については本法案は特段に触れるところがございませんので、学校教育法第五十九条の教授会に関する規定放送大学にも適用されることになります。ただ、本法案における評議会の審議事項に関する部分については、評議会の決定というものが教授会のそれに形成的には優先することになろうかと思われます。このようなあり方は、従来の国立大学と異なっていることは事実でありますが、放送大学の教官の勤務条件等を考慮しますと、ある程度はやむを得ないものではないかというふうに考えます。ただ、これによって教授会が軽視されてはならないのでありまして、評議員の選出方法であるとかカリキュラムの作成、教授会メンバー意見の反映方法等、放送大学において自主的に合理的な方策がとられるよう切望するところでございます。  機関関係で申し上げたい第三の点は、運営審議会でございます。  こういった審議会を置くことに私も賛成でございますが、その任命権が文部大臣に完全に留保されているのは、学園に対する文部大臣のコントロールとの関係から見て問題のあるところでございます。筑波大学の参与会あるいは学校法人評議員会の場合を参照いたしますと、構成メンバーに国公私立大学関係機関の代表を加えるとか、学園にメンバーの推薦権を認めるとかいったような点が少なくとも実行上はなされるべきであり、かつ、これを法律の上に明記することも一案かと考えられます。  学園の組織あり方につきましては、教育部門と放送部門の関係の問題がございますが、これは、これから最後の項目として申し上げる大学放送の問題の一環として取り上げることにいたします。  そこで、大学教育放送関係でありますが、まず本法案では、放送法第四十四条第三項が準用されております。放送大学放送一般公衆も受信し得るものである以上、この条項を準用するかどうかという法形式はともかく、この種の規定を置くことはやむを得ないものではないかと思われます。しかし、その場合には、教授の自由というものとの抵触が当然問題となってまいります。  先ほど申しましたように、従来のあり方を前提とすれば、教授の自由、とりわけ教授方法の自由というものは制約を受けることにならざるを得ません。しかし、この教授方法の自由というものに関するある程度の制約は、制約の合理的範囲内に入ると考えられるように思われます。問題は、教授のたとえば政治的な問題に関係する教授自身の研究成果発表の自由であります。これが全く許されないならば、それはもはや大学における教育の名に値しないと思われます。しかし、放送法四十四条三項はそれまで禁止しているのかどうかという点が問題となります。同条の解釈問題としては、一体民間放送事業者にいわゆる論説放送が許されるかどうかという点とも関連いたします。この点、かつて私は多少かたい態度をとっておりましたが、現在では、論説放送がいかなる意味においても禁止されているというわけではないというのが一般的な解釈であります。まして放送大学の場合は、大学意見というのではなくして、出演者たる教官の意見でありまして、いま申し上げましたように、その意見の述べ方、教授方法という意味での述べ方には一定の制約は加わるにせよ、述べること自体放送法の枠内でも可能であると考えます。ただ、いま申しましたような筋からいたしますと、本条項の解釈、運用に当たりましては、NHK、さらには一般放送事業者の場合と異なったものがあってしかるべきであること、それからまた、この点に関する十分な合意が必要であるということを念のために申し上げたいと存じます。  次に、本法案では、放送事業者は学園であり、放送局の免許も学園に対してなされることを予定しているように思われます。そういたしますと、教育については大学権限責任を持ち、放送については学園、つまり結局のところは理事者が権限責任を持つことになります。しかし、放送大学放送を主たる教育の手段といたしますので、両者はその最も重要な部分で重なり合うということになります。そこで両者が緊密な協力関係に立つということが要請されるわけですが、仮に両者の間に見解の相違が生じたという場合に一体どうなるのか。放送局は学園側にあるので、最終的にはその意見が通用するように法文上は読めます。しかし、それでよいのだろうかという点が問題であります。  この点は、内部関係でもあり、法律上明文化しがたいところとは思いますけれども、問題が生じましたときに、さきに指摘しましたように、大学の自律的判断が確保されるような形で、両者の調整を図る場があらかじめ設けられているのが望ましいというふうに考えられるわけであります。この点は十分な検討を必要とするところと存じます。  以上をとりまとめて申しますと、私は、放送を主たる教育手段の一つとする大学を設立することの意義は認めます。また、そのために特殊法人を設立することは、それが国営放送ないし準国営放送となるから許されないというふうなことにはならないと思います。また、放送大学放送放送法四十四条三項を適用するというふうにいたしましても、そのことにより、放送大学はいかなる意味でも大学ではないというふうには言えないと思います。  しかし、放送大学の健全な発展を期するためには、以上申し上げた点、特に政府のコントロールの抑制の方法につきなお検討の余地が残されているとともに、放送大学の特別の性格につきまして、関係者のみならず国民の間にも広く了解が存在していることが必要であるというふうに考えます。  以上でございます。(拍手)
  10. 坂本三十次

    坂本委員長 次に、清水参考人にお願いいたします。
  11. 清水司

    清水参考人 清水でございます。  ただいま御審議いただいております放送大学学園法案に関連いたしまして、私も放送という技術を大学教育の手段に取り入れることにつきまして関心を持っている者の一人として、意見を一言述べさせていただきたいと思います。  すでに御案内のように、教育におきまして放送という技術が初等教育、中等教育ではある程度完成した形で利用されていることは、よく御存じのとおりであると思います。また、昨今の大学、特に量的拡大を伴いました大学におきまして、その教育方法一つとしてすでにクローズドサーキットテレビといったようなものが実用になっていることも、よく御存じのところだと思います。放送大学がそういった科学技術の粋を駆使しまして、人間の持っている能力を空間的にも時間的にも拡大し、広く国民のために少ない優秀な学者の学問を供用しようという、その高い考え方と申しますか理念は私は大賛成のところであります。そういった意味で、放送教育にどのようにかかわり合いを持ち、有効性があるかということについては、昨年発足いたしました放送教育開発センターにおいてすでに論議がされたところだと思うわけであります。ただ問題は、これから大学としてこの放送大学がどのように大学の中に位置づけられ、大学自治学問の自由を守り、そして同時に、国民の広く要望しますところの学習の権利と自由を保障するかという問題のかかわり合い方に実はあるのではないか、こう思うわけでございます。  細かい法案の中身につきましては、私は法律家でございませんので、余り立ち入ったことを申し上げることを差し控えさせていただきますが、ただいまもお話し申し上げましたように、高等教育が、戦後新制大学が発足と同時に拡大され、すでにその当時に比べますと約十二倍という量的拡大の中で、小学校、中学校、高等学校そして大学、それから社会へという青年の発達段階に応じた教育課程の一つとして、高等教育大学が位置づけられたということにあるわけでございますが、これが広く国民の知的レベルを開発し、よく言われますように、現在の日本の高度成長とまた福祉繁栄をもたらしたことは言うまでもないことであると思うわけでございます。しかし、その反面、よく言われますように、大学大学らしくない、大学本質を忘れたものという発言もあるわけであります。また、そのような反省もわれわれはしているわけであります。そういった中で、ただいま申し上げましたような知的水準の向上が、新たに社会における、高等教育を受ける機会を得なかった者も含めて高等教育を、大学の持っております学問を広く公開することに対しての要望が高まったと言えるのではないかと思うわけでございます。  そういたしますと、現在ございます多くの、短大、高専等も含めますと千十六校に及ぶ大学と、これからつくられます放送大学とのかかわり合いの仕方ということが、まず重要なことではないかと思うわけでございます。  現在ございます既存の大学もそれなりに学問を広く社会のためにということで、公開講座であるとかいろいろな形で大学を開放することに努力をいたしております。しかし、それにはやはりある程度の限界がある。そこを、この放送というメディアを使い、大学の持っております学問と研究、その成果を教育という体系づけられたものとして世に問うこの手段が、まず最初にこの一つだけの大学でいいのだろうかということに実は疑問を持つわけでございます。私は、この放送というメディア教育に利用する仕方についていろいろ考え、そして進めなければならない仕事として理解をしたわけでございますが、大学の持っております学問の多様性と教育の自主性、そういったことを踏まえてこそ、その学問が生きたものとして国民一般的な知的活動の源泉となり得る、こう考えますときに、でき得るならば、いま申し上げましたようなメディアが広く公開され、各種の教育がそのメディアを通して自主的にでき得るような状態がつくられることが望ましいと実は思うわけでございます。  しかし、何といいましても、限られた公共の電波を教育手段に使うということになりますと、それなりの制約があることはある程度やむを得ないことであると思います。私がここで一つ申し上げたいことは、そういった立場から考えますと、この放送大学が既存の大学との連携の上においてこれを強調していただいて運営、管理されることを望むわけでございます。言うなれば、既存の大学において育った学問、そして研究、教育の成果というものが広くこの放送大学を通して社会に、また国民一人一人のものになるようなシステムと申しますか考え方が、この基盤の中に取り入れられることを希望するわけでございます。  そういった意味では、放送大学は、その運営組織の中で運営審議会、また大学運営機関としては評議会があるわけでございますが、そういった機関の中に、先ほどもちょっとございましたように、広く大学人の参加と進言が入れられるようなシステムをひとつおとりいただきたい、そういう運用を考えていただきたいというふうに考えるわけでございます。大綱といたしまして、特殊法人としての放送大学学園をつくり、そしてそれを設置者といたしまして放送大学をつくらなければならない、この間の事情というものは私はよく理解できるわけでございまして、問題は、その運用にあるというふうに思うわけでございます。  大学である以上、そこには研究も必要であります。そういった意味からは、放送大学は、既存の大学の共同利用研究施設であるともお考えいただけないだろうかと思うわけでございます。先ほど、教育の施設として放送施設を持つところの放送大学が、やはり既存の大学、既存の学者の多くの人たちの研究成果の発表の場でもあり得るというように、その場が共同利用できる場であることを私は期待するわけでございます。これはもちろん、現在の法案が審議され、改めて放送大学設置する場合にどのようにつくり上げるかというところの問題ではございますが、基幹になる運営の部分でそういった配慮がなされるということがこの背景に必要ではないかと思うわけでございます。  私は、そういう意味でこの放送大学学園法案を見るときに、わが国における新しい形態高等教育機関一つとしてこの放送大学がつくられることにはその意義を持ち、また法案はある程度妥当なものであると考えるわけでございますが、いま申し上げましたような意味で、真に国民のための開かれた大学となるために、まず既存の大学に開かれたものである、そして国民に開かれたものであるという手順が必要ではないかと思うわけでございます。そうすることによって大学自治学問の自由、教授の自由というものが、国民学習の権利とバランスがとれた形で実施できるのではないかと思うわけでございます。すでにいろいろな新聞紙上等で、大学の生命であるところの学問の自由、教授の自由、いわゆる大学自治について問題があると提起されているようでございますが、私は、いま申し上げました、国民がひとしくその能力に応じて教育を受ける機会を与えられなければならないという教育基本法の精神をこの大学が生かすとするならば、教育教授の自由という大学の枠も国民全体の学習の自由との対応で考えられなければならないし、それとのかかわり合いの中で、社会への大学の開放であるとかまた生涯教育に向けての大学の開放といったような新しい大学の側面が特色づけられ導き出されるのではないかと思うのであります。  今日の大学学問体系とかまた研究方法をながめてみますと、かってに比べて著しい変化があります。大学教授研究者としてのあり方は多様化し、また研究がそのまま講義の内容になるというほど単純なものではなくなりつつあります。学問はそういった意味で、教育的に再編成され、体系づけられ、順序立てられて学生に与えられなければならないものであります。そういった意味では、研究と教育の一致と言われたことは、少数のかつてのエリートを中心としました大学において成り立ったことであると思うわけでございますが、現在、いま申し上げましたような意味で開かれた大学という形を志向するとき、ある程度この問題は再考されなければならないと思うわけであります。古典的な大学のイメージでこの放送大学を見ることは大変危険であると私は思うわけでございます。そういった意味で、広く国民に開放する、国民の権利としての学習を守るという立場大学学問の自由の調和をどうやって見出すかがこれからの問題だと思うわけでございます。全国民のそういった意味での自由が保障されまして、逆に、学問の自由と教育の自由がそれによって強化、補完されるということがあるのではないかと思うわけでございます。  そういった意味で、放送大学が、新しい大学の行き方を示す一つのテストケースになり、でき得るならば最初に申し上げましたように、広くメディアが各機関にも開放されることを切に望んでいるわけでございます。そういった意味で、諸先生方の慎重な御審議をいただき、できるだけ早くこの放送大学が発足することを希望しているわけでございます。  以上で終わります。(拍手)
  12. 坂本三十次

    坂本委員長 以上で参考人意見の開陳は終わりました。     —————————————
  13. 坂本三十次

    坂本委員長 引き続き参考人に対する質疑に入ります。  質疑の申し出がありますので、順次これを許します。木島喜兵衞君。
  14. 木島喜兵衞

    ○木島委員 社会党の木島でございます。きょうはいろいろと御教示いただきましてありがとうございました。  いまも諸先生からいろいろとお話がございましたけれども放送大学そのものについては、一般論としてはこれを否定する人はきっと少ないんだろう、あるいはないんだろうと思うわけであります。しかし、いずれにいたしましても、日本教育あり方における最も新しい試みでありますから、それだけに相当な配慮がなされなければならぬだろうということをいま皆様から御指摘いただいたんだろうと思うわけであります。  私も、いまいろいろと先生方からお話がございました中で言うならば、たとえばイギリスの話がございましたけれどもイギリスというのは、私教育から公教育に至る間においては政治や宗教の支配をどう排除するかという、長い年月を経てその上に立っておりますから、たとえば国営放送であるBBCを使っても余り問題もない。あるいは先ほど石村先生がおっしゃいましたように、また逆に、そのような国でありながらも、法律そのものの中になくてもよさそうなものまで書き込んでおるという状態もあるように思うのです。しかし、日本教育の場合には、明治以来の日本教育というのは、そういうイギリス教育とは逆に、むしろ政治や行政のコントロールのもとに今日まであったわけでありますから、そういう意味では、基本的な問題が幾つかある感じがするわけであります。  先ほど石村先生から第三の放送体系というお話がございました。今日までのNHKと民放、これは一口で言えば二系列。電波法等で国が電波を持ってはいけないと規定したものは一体何か。これは国営じゃありませんが、全額国庫でありますからよく準国営放送と言われます。電波法で国が電波を持ってはいけないということを決めた理念がいまもなお守られねばならぬとするならば、電波がなければ放送大学はあり得ないわけでありますから、基本的には第三の電波、準国営的な電波というものが、電波法上あるいは放送法上その理念から許されるのかどうかがまず第一に問題になるんだろうという気がします。なぜ国が電波を持たないのか、持ってはいけないと考えるのか。あるいは、先ほどからいろいろお話がございました放送法の四十四条の三項という制限も、憲法二十一条の言論、表現の自由というものを、その憲法原理を原点としてこのように今日まで来たのではないか。そのことは先ほどから先生方おっしゃいますように、コントロールを排除するということは、大学だけでなしに、学校だけでなしに、電波、放送も通して今日までそのように解釈されてきたのではないか。とすると、まずその入り口がもしもだめならば放送大学はできないということになるわけです。  繰り返しますけれども、私は放送大学を否定するのじゃありません。しかし、いま新しい大学をつくるときに、それらの疑点を最大限解明しなければならぬ問題だろうと思うわけであります。第一に、それがなければ放送大学たり得ないわけでありますから、そのことについてのご見解を、これはどなたにお聞きした方がいいのでしょうか、どなたでも結構でございますか、もし御見解があったらお伺いしたいと思うのです。
  15. 石村善治

    石村参考人 非常にむずかしい問題だと思うのですが、これは日本放送体系の一番基本にあるものとして、言論の自由といったようなものが具体的にあると思うのです。しかし、普通の印刷メディアあるいは個人的なメディアとは違って公共性があるのだということで、公共メディアとしての電波といったようなことが放送については一つの特質になっていると思われます。  そこで、電波の場合には、どうしても公共性ということが現在の時点では必要になってくるものですから、したがってその公共性を確保するために一体、国がそもそもそういう公共性の代表者としての資格を持ち得るのか、あるいは国が公共性の代表者として放送をやるだけの手続を踏んでおるのかという問題、したがって、国がそういうふうな手続を踏むのが非常にむずかしい、あるいは国が直接に公共性ということになじまないということであるならば、それにかわるものとして別の組織を考えなくちゃいけないのじゃないかということで、日本では民間の放送のほかに、国の支配から一応独立したNHKといったようなものを持ってきたんだと思いますね。そして現在までは、そういう公共性といったようなものを最もよく保障し得る放送制度として、NHKの制度といったようなものが特に日本では認められておるのではないか。  アメリカなどでは公共放送といったようなことは、必ずしも日本ほどは言われていない。現在アメリカでも、公共性というようなことが言われ、公共放送の話が出ているそうですけれども日本ほど確固たる地位を持っていないわけであります。したがって私は、国がそういった公共性を保てるような組織なり制度なりといったようなものを用意し準備することができるならば、国がそういった放送について何らかの関与をすることができるというふうに考えることができるだろうと思います。  しかし、現在では、NHKといったようなものがいままでの長い努力でもって一応、国からの支配を排除する形で公共性を確保してきたという国民の合意があるし、信頼があると思うのです。それを第三のものとして、国が何らかの形でかなり直接的に統括をするという放送制度をつくるとするならば、やはりそれだけの国民の合意といいますか、あるいは国の支配に対する歯どめの措置を用意すべきではないかというふうに私は考えるわけです。
  16. 塩野宏

    塩野参考人 私は、形式的に国営だからあるいは準国営だから放送大学をつくることはできないということは、法律的には言えないように思います。要するに問題は、先ほども申しましたけれども、その形式ではなくて、放送大学放送というものが国のコントロールから十分免れている、あるいは逆な言い方をいたしますと、自由が保障されているかどうかという点に重点があるように考えます。  そこで、注意すべきは、放送大学というのは、放送という業務と、そしてそれが同時に、放送大学教育に必要なものであるということになるわけですが、この場合に大学というのをやはり主体に置いて考える、そこの自律性、自治を保障するということがまず基本にあろうかと思います。そして放送学園の中で、教育を担当する大学と、それから一応法律的には放送を担当すると言われているところの学園との間の意思の疎通と申しますか、その大学教育の自由に即した運営をなされることが必要であり、またそういった点についての仕組みについて十分御検討いただきたいというふうに先ほど申し上げたわけでございます。ただ、そうは言いましても、なおかつ、学園に関する文部大臣の特に人事に関するコントロールの点について、かなり問題があるのではないかというふうに先ほど私は申し上げたつもりでございます。  なお、四十四条三項と大学教育の問題に関しまして、まさにこれが全く相いれないものであるということになれば、放送大学は成り立たないということになります。この点について私は、一応の考え方を先ほど申し上げましたので、御参考にしていただければと思いますが、なおまた、もう少し詳しくということであれば、いまでなくても結構ですが、時間が許す限りお答えを申し上げたいと存じます。
  17. 木島喜兵衞

    ○木島委員 私がいまお聞きしましたのは、電波法や放送法は皆さんの専門の別の問題でありますから、これは余り深くお聞きすることもどうかと思うのでありますけれども、しかし、たとえばNHKが視聴料を取る、あるいは民放はコマーシャルだけの費用でやっておる。ということはなぜかというと、政府が金を出さないのです。そのことによって言論や表現の自由というものをコントロールさせないという、言論の保障制度として料金を集める、いわゆる国が金を出さないという面において、というように私は理解するものでありますから、したがって、これはお答えは要らないのでありますけれども、もしもそういうことが前提で、第三の系列は準国営放送だ、すべて国の費用でやるわけでありますから、だとすると、入り口でもって問題になっちまうわけでありますが、いま塩野先生おっしゃったように、それをどう補完するかという問題があります。ありますけれども、両法体系の原理というものからいうと、次に進みますけれども、四十四条三項等も、基本はやはりさっき申しますところの憲法二十一条の原理に基づくのじゃなかろうか。すなわちこの矛盾は、学校教育法と電波法あるいは放送法との矛盾というようなお話が先ほどからいろいろございましたけれども、それはともに憲法二十一条の原理と二十三条の原理の矛盾というのでありましょうか、ぶつかり合いというのでありましょうか、そこが問題になってくるだろうと思うのです。  だから、塩野先生、前に何かお書きになっていらっしゃいましたけれども、これは技術上の問題ではなくて、両法体系の一つの原理の問題、さらに言えば憲法原理の問題。それで、最初に申しましたように、イギリスのように長い歴史の中で公教育の中に政治や宗教の介入を許さないという歴史を持たない日本の場合に、その辺をやはりきちっとしておかないと、いま日本の中におけるところの新しい試み、しかも先ほどからいろいろお話がございますように、国民全体として機会均等というものを保障しようとするときに、なおさらそういうことだけはきちっとしなければならないのじゃないかという懸念を持っておりますので、その点は各先生方から御教示いただければありがたいと思います。
  18. 飯島宗一

    飯島参考人 私は、法律関係には全く暗い者でありますから、いまの御質問の論点に直接お答えするようなことば不可能でありますけれども、ただ、国が経費を全面的に出しているということから申しますと、国立大学もそのとおりなんですね。しかし、国立大学における研究、教育の自由というものは、確かにヨーロッパ諸国等と比べて日本の国立大学等の場合にいろいろ問題が残っておることは私も事実だと思いますけれども、しかし現在の国民に合意された範囲で日本の国立大学が特に研究、教育上の著しい制約を受けているというふうには、私ども大学関係者は考えていないわけでございます。  そして、原理の問題ということでございますから、感想を述べるわけでありますけれども、その大学で研究され、まさに学生教育をしているのとほとんど同一の内容のことが、形式の上でNHKあるいは民放を通って国民に提供される場合には、何ら現在の段階で問題を生じておらない。もし原理原則、一番の根本ということを申しますと、これは要するに、放送メディアというものが時の政治権力の波及ということに対して奉仕的に作用するということに対するきわめて深い反省から、原理的にわれわれの現在の体制ができているわけでございます。そういう考え方というものを原理の上で貫くということは、大学ということで放送内容というものが十分学問立場、民主的な立場を踏まえて調整され提供されていく以上、形式は別として、少なくとも内容的には国民の多くの方々理解と合意を得られる教育内容というものが提供できる。その点については私は、今後の運用の問題にもよりますけれども、懸念はございませんし、またそれに抵触をし違反するような状態というものは、これは毎日のように明らかに多数の国民の前に内容が提供されていくことでございますから、その批判あるいはそれによるところの修正あるいはチェックというものを、むしろ日本国民の民主的な態度の根本の深さというものに対して信頼を払っていいのではないか。そういうことで、大学教育の問題を公共的なメディアに乗せるということに対して私個人は、必ず国民に対してもあるいは憲法に対しても責任が持ち得る運用が可能ではないかというように感じているということだけ、ちょっとつけ加えておきます。
  19. 木島喜兵衞

    ○木島委員 塩野先生、先ほど放送体系と学校教育体系の矛盾の中でもって、いままでの解釈だけでは解決しないという御趣旨のことをおっしゃいましたね。そこが私やはり悩んでおるわけなんです。だから、技術的にはたとえばスクーリングならスクーリングの中で個々の先生が自分の意見を述べるということ等を通してできるかもしれませんけれども、これは後でいろいろ御質問申し上げたいと思うのですが、たとえばスクーリングというのは一体具体的にどうなるのかということは、人数との関係あるいは教官がどのぐらいになるのかということも含めて、いろいろ問題があると思うのですよ。そういう中でもって、そういうことが保障されるというその保障も心配なわけでありまして、すると、やはり方法ではなくて、両法体系の中に結合されておる、しかもいまお話ございましたけれども放送法なり電波の制約というものも、そして学校教育法との矛盾だと言われる研究あるいは学問教授の自由というものも、ともにその点で言えば国民の思想統制というものをどう排除するかということの点では一致するわけですね。一致するんだけれども、いままでの大学の限られたキャンパスの中の特定の人間というもの、放送というのは学生以外も聞くわけでありますから、そことの矛盾というものが常に存在するわけでありますから、その辺のところをここで出発するときにどのようにわれわれは理解し、どのように解決したらいいのかということをやはりどうしても考えておかなければならぬし、先ほど歯どめという話がございましたが、どういう具体的な歯どめが必要なんだろうかという疑問を持つだけに、そういう点の御教示をいただければ大変ありがたいということなんです。
  20. 塩野宏

    塩野参考人 私は先ほども申しましたように、いずれかの原義で割り切ってこの放送大学を成り立たせることは不可能だと考えます。むしろ、両々ぎりぎりのところを行けば相成り立たないものがあるということを前提にしてこの問題を考えるべきではないか。それで、この問題を考えるべきではないかという趣旨は、そういうものとして理解した上で、さらにそういうものができた場合のメリット、そしてデメリットを冷静に比較考量して判断すべき事柄であるというふうに考えるわけでございます。そういう点で、この放送大学は従来の大学ではない、だから成り立たないということでは一歩も進まない。進まないというのも一つの御決断ではありますけれども、しかし他方、放送大学が言われていますようなメリットを広範に持つということであれば、従来の大学とつかみ切れないものでもなおかつ、これを推進するという理屈は当然成り立ち得るところだと考えるわけでございます。  それから、先ほどの委員の御質問との関連で申しますが、その歯どめという点に関して申しますと、これは多少繰り返しになるかもしれませんけれども、やはりこの法案のままの形、そしてそれが形式的に運用される限りでは、私は歯どめとしては十分ではないというふうに考えております。
  21. 木島喜兵衞

    ○木島委員 そこで、いまおっしゃいますように、両立というものはできないという前提に立って、どう歯どめをかけて運営をしていくかというような御趣旨ですね。ですが、先ほど石村先生もおっしゃいましたけれども、これは正規の学校教育ではないんだと。二つの法律がかぶさっているわけですね。ですが、どっちかの適用除外をすればいいわけですよ、もし仮にですよ、という方法が理屈の上で考えられるわけですね。そこで、もし放送法の適用除外をするということになると、これは限りある電波というものを利用して国民全体にあれするのでありますから、やはり放送法四十四条三項は適用除外ということはなかなか困難ですね。とすれば、学校教育法の適用除外をするというのは、成人教育、生涯教育というものに限定してしまう。正規の学校教育という、最終的に言うならば卒業証書を与えるということを前提にせずに、生涯教育なんだ、これもまた今日、教育は学校の独占物ではないわけでありますから、そういう中で単位は単位で与えていくことだってできますね。そういうことで、放送大学という特殊法人の準国立大学におけるところの単位を与えることによって、そのことを勉強したという社会的な保障を単位の取得証明によってするということによってそういうことに割り切ってしまうと、私はそうせいと言うのじゃありませんが、そうだとすれば、いま塩野先生おっしゃるように、二つの両立しないものだということを前提にしてというお話でございますけれども、そういう方法だってあり得る。私、繰り返しますが、主張するんじゃありませんよ、あり得ると思うのですが、この辺はいかがなものでしょうか、これは飯島先生も含めてですな。
  22. 飯島宗一

    飯島参考人 いまのお話は当然、一つの想定として御質問になっていることだというふうに私も理解いたしますけれども、第一に、私はやはり先ほどから問題になっていることを解決をしていく方向としては、やはりこの教育母体を正規大学として位置づけるということは基本的に相当重要なことだろうというふうに思うのです。ですから、イギリスオープンユニバーシティーの場合にも、やはりクイーンのチャーターをとった、つまりオックスフォードともケンブリッジとも並ぶ、イギリス国民として、あるいは国家として正式に認めた大学であるという、その権限と自由と可能性というものとを付与しているということは、私はこれは非常に本質的なことであって、単なる何とか教室とかあるいは成人教室というものと現在われわれが考えている放送大学との本質的な一つの違いになるだろう、これはむしろそういう立場をとることの方が、先ほどのお話に対して後ろ向きではなくて、前向きの解決ないしアプローチをしていく手がかりを与えるものだろうというふうに思います。  それから第二に、確かにわが国市民の勉学意欲というものは非常に盛んであります。そして学歴社会ということもだんだんに解消されて、むしろ学校の卒業証書よりも自分たちの能力であるという気風が定着しつつあることは事実でありますけれども、しかし、それは多分に観念の上で議論されていることであって、やはり機会が与えられれば、少し苦労しても勉強して大学卒業の資格を得たいと思っていらっしゃる方々は非常に多いわけでありまして、既存の大学が門を開くにせよ、あるいは放送大学通信教育を拡充するにせよ、あるいは学位認定機関というものをこの際積極的に考えていくにせよ、何らかの形で新しい大学教育形態というものはわが国が補完することは必然的であろうと私は思います。その中で放送大学の積極性が考えられるのではないかと思われます。  それから第三に、大学の研究及び表現の自由というのは確かに重要なことで、先ほど申し上げましたように、正規大学として位置づけられなければならないという根本もそこにあります。しかし、先ほどちょっと清水参考人もお触れになりましたけれども、最近における自然科学あるいは人文科学の非常に膨大な知識の蓄積というものの中で、高等教育がどのような方法でその学問成果を伝達していくかという点になりますと、これは個人個人の教授が自分で研究したところをランダムに教育をする、そして選ばれた、すぐれた能力のある学生がそれを受けとめるという古典的大学可能性というものには限度があるということがだんだんに気がつかれております。したがって、現在すでに既存の大学においても、カリキュラムをどういうふうに考えようか、あるいはチームをつくってどういう教育をしょうか、あるいは総合コースというものをどうやって開発しようか、つまり、大学教官の教育という責務における自由な活動の表現として、単に個人個人が請け負い的な講義をするのではなくて、いかにわれわれが積み上げた知識をダイジェストし、整理し、将来に生きていくような形で与えるか、そういう合同作業あるいはチーム作業というものが発生しつつあるし、これはまた普通の大学といえどもその方向を真剣に考えざるを得ないところになっています。そういうチーム的な作業の中における個人個人の自由という問題は、大学の中の問題として今後解決していくべきことがたくさんございます。  先ほどから例に出ておりますオープンユニバーシティーも、実はその講義は決して教授一人一人が考えていることをそのまま放送しているわけではございません。コースチームというものをつくりまして、教官のある数の人あるいは放送関係の人も集まって討論をし、そして研究をしてそういうものを表現していこうというふうにしているわけでございます。したがって、学校教育法あるいは大学の理念とその放送法の矛盾ということの一部は、今後の大学の新しい方向への運営というものの中で、基本原則を損なわないで、しかも放送メディアに乗り得るというものが私は必ずできる自信がある。もしそれが不可能であるならば、今後われわれの電波というものは永久にそういう領域に対して閉ざされたものであるというように考えなければならない、そういうことは私はあり得ないと思います。  それからもう一つ第四に、放送大学は確かに放送を主なるメディアとするものでありますけれども、私個人はそれだけでは不十分だと思っております。やはり通信教材によるところの教育の伝達、それから、後ほどお話があるということでありますけれども学習センター等を中心とするところの教育メディアということも、非常に重要なウエートを放送大学の中で占めるわけでありまして、先ほどちょっと申し上げましたように、もし通信教育制の大学というものではそれが不可能であるということであれば、もう放送を使わない通信制大学すら成り立たないことになるわけでありまして、そうではないと私は思っておるわけであります。  以上の思いついたところで四点ぐらいの根拠から、先ほどのお話がありますけれども正規大学としての放送大学というものをこの際真剣に実現してみたらどうであろうというふうに私どもは思うわけでございます。
  23. 石村善治

    石村参考人 木島先生の御意見のかなりの点に賛同するところでありますが、それは、放送大学学園法案については、国が電波を握るということが前提になって話が進められてきた。それから、十年前からのいろいろな議論を見てみましても、その主体が大体国というふうなことで話が進められてきたように思うわけでございます。しかし私は、これは放送大学というふうなことの中だけではなくて、日本教育全体の中から問題を考えてみるならば、いま一番欲しいあるいはいま一番必要なものは何だろうかということになれば、それは私など地方におる者からすれば、地方の中で大学に行けなかった人にどういう方法があるのか。これはたとえばの例ですけれども自治体が積極的に市民教育をやる、あるいは自治体が積極的に市民大学をつくっていく、これは西ドイツでもアメリカでもそういう制度がつくられてかなりの成果を挙げておるというふうに聞いておるわけです。むしろそういったことの方が全体の中で考えれば必要なのではないだろうかという感じを私は片一方では持っておるわけです。  ただ、原理的に放送が絶対に教育の中で用いられることが不可能だというふうには思っておりません。私が先ほど申し上げましたように、それば電波の公共性ということで、電波の公共性を最も維持するに足るような組織なり機関なりが備わっておれば、それはいろいろな主体が電波を通して教育を行うことができるだろう。ただ、日本制度としては、木島先生もいろいろおっしゃいましたように、国によるコントロールがいままで教育の中で非常に行われてきた、これに対する警戒といったようなものも十分必要以上にやるべきではないかというふうに考えるわけであります。放送法案それ自体にはそういった歯どめといったものが全くないという危惧を私は表明しておるわけであります。  それからもう一つは、諸外国とわが国を比べてみる場合に、イギリスでも西ドイツでもそうですが、御存じのように大学の数が日本ほど多くない。それから学生の数も日本ほど多くない。日本は国立大学、私立大学を含めると、諸外国に比べものにもならないくらいの施設を持っておるわけでございます。したがって、そういう施設がありながらなお放送大学といったようなものが必要なゆえんは一体何かということが、もう少し煮詰めて考えられなくてはならないのではないか。もし必要だということであれば、再三申し上げますように、いままでの歴史的ないきさつから、必要過ぎるくらいの学問の自由と言論の自由を保障するような仕組みを法律の段階でつくるべきではないか、運用ということではいままでの日本状況からいくと、決してうまくいかないのではないかというのが私の考え方でございます。
  24. 木島喜兵衞

    ○木島委員 この場はお教えいただく場所でありますから、討論する場所でないわけでありますので、私もしゃべるのに大変苦労するところでありますが、私も、生涯教育として割り切ってしまえという結論を持っておるわけではありません。ただ、先ほどから繰り返しておりますように、新しい出発だけに、原理的に矛盾のないように持っていくのにはどうしたらいいかという一つの私の迷いのあらわれです。  そこで、飯島先生、先ほどの学歴社会ですが、私も、このことと学歴社会の打破、学歴社会をどう見るかという問題が一つあると思うのです。これを正規に位置づけることは、先生のおっしゃったことがわかりながらも、いま石村先生がおっしゃいますように、他国に比べては大変大学が多い。その上になお正規ということで、学歴社会を是認しあるいは現状を是認し、現状を肯定して新しいこの大学をつくるべきなのか、あるいは先ほどから申しますように、教育というのは学校の独占物じゃないのだ、これからの大きな方向は生涯教育にあるわけでありますから、そういう観点からどうなのかということの、私の一つの試行錯誤の範囲であります。これは先ほど申しましたように、お聞きする範囲でございますから、これ以上は……。  そこで、たとえば幾つかの憲法原理の上に両法体系の矛盾があるが、しかしその歯どめというものは先生方の共通したものは、大学自治が前提であるというようにお聞きをしたところであります。そこで、それを前提にいたしまして、特殊法人にせざるを得なかったということはわかりますが、他の特殊法人は、たとえば理事会なり何かをやることがすなわち業務ですね。ただ、この特殊法人は、大学をつくり、その大学は教学が目的で、そのための管理運営があり理事会というものがあるわけです。先ほどお話がございましたように、これも全額国費です。国立大学も国費である。だから、電波法の制約がなかったら、この放送大学を国立大学にしたと思うのです。電波法という制約があるから特殊法人にしたわけです。電波法の制約がなくて国立大学でいいならば、国立大学には理事長理事会もないわけです。しかし、管理運営はある。そういう管理機関がなくたって学長のもとにやっているわけです。しかし、特殊法人だから、他の特殊法人は横並びにそういうものがあるからというように安易に考えたというわけじゃありませんけれども、先ほどから原理の上に矛盾がある、その矛盾を歯どめするものは何かというならば大学自治だという、そのことを最大限に制度的に保障をするならば、むしろ理事長とか理事会とかそういうものがなくたってやれるのじゃないか、今日国立大学はみんなやっているのじゃないかと思うのですが、いかがでしょうか。
  25. 飯島宗一

    飯島参考人 ほかの方々の御意見も十分あろうと思いますが、私ども理解しておりますのは、先ほど御指摘のように、放送法の絡みがあって国立大学という形態はとれない、そこでやむを得ずいわば政府資金を、そういう法の制約問題点というものを解消する一つの手段として設置母体としての特殊法人というものをつくったというふうに理解しているわけでございます。それで、これは先ほどもちょっと申し上げましたように、政策とか現在の行政の状況からやむを得ない措置であるというふうに私どもは受けとめておるわけでありますけれども、しかし、より積極的には私どもはむしろ、この放送大学学園の理事組織というものは、私立大学の学校法人理事組織というものと基本的に比較し得るべき組織であって、したがって、これは今後の運用の問題にもなりますけれども、その意味では、運用の仕方によっては——実は、国立大学学長以下で運営していると申しますけれども、申し上げるまでもなく、かなり強力に文部省がいろいろ世話をしてくれているわけで、世話もしますけれどもいろいろ口も出すわけであります。したがって、この放送学園の理事組織運営というものが、今後の運営の仕方で可能性があるならば、むしろ本来私立大学理事組織に近い精神で運営され、ただ、国民の税金を全面的にちょうだいをするわけでありますから、その国民の税金の使途ということに関して必要な責任を政府に対して負い得るというふうに理解をいたしたいというふうに私個人としては考えるのでございます。
  26. 塩野宏

    塩野参考人 私は前提問題として、この放送大学というものが国立大学としてできないということは法律的にはないと思います。これは電波法で禁じられているというふうに仮にいたしましても、私はそうは思わないのですが、それは電波法を改正すればよろしいだけの話でございます。  そこで問題は、いろいろな考慮から特殊法人ができたということでございます。この特殊法人というのは、実は非常にぬえ的なものでございまして、行政法学上、まだ特殊法人というのはいかなる国法上の地位を持つかということについては定説がないわけでございます。最高裁判所の判例によりましても、ある特殊法人は国の行政機関の広い意味での一部に属する、だから特殊法人に対する監督は、上級官庁の下級官庁に対する命令であるというようなことを言っている最高裁判所の判例もあります。しかし同様に、NHKも特殊法人でございまして、これに対しては、国の放送事業に対する監督というものは少なくとも郵政省は持っていないというふうに一般的に解されているところでございます。ですから問題は、特殊法人ということでつくった場合に、それを今度どう構成していくかということは、立法機関のかなり広い御裁量があるのではなかろうかというふうに考えます。これがまず第一の前提でございます。  そこで、特殊法人と申しますと、やはり一つ法人格を持つわけでございますから、そして、そこには大量の人数の職員がおりますし、また大きな財政運営をいたす必要上、そこには管理機関というものが置かれることが必要であります。一方において、教学と事務というのがあると同時に、管理事務があるということも必然的なことでございます。これを同一人がやるということももちろん考え方としては可能でありまして、この法案の中にも、学長理事長を兼ねるという考え方も出されているところでございます。  ただ、私がもう少し申し上げたいのは、先ほど木島委員の方から理事会というふうな御発言がありましたが、この法案理事会がない、私はそれが問題だろうと思う。いま飯島参考人の方から私立学校法人並みにとおっしゃったのも、あるいはその点を御配慮の上かと思います。  以上です。
  27. 木島喜兵衞

    ○木島委員 いま飯島先生から、私立大学の例が出ましたけれども、しかしその中でもって、国民の税金であるから、だからということは、これは国立大学も同じことでして、そういう点では私も悩みを持っておる。つまり塩野先生がおっしゃったように、電波法では明文化をしておるわけですから、その辺は確かにあると思うのです。  ただ、私さっきから繰り返しておりますことの、いかにして行政なり権力の介入をさせないようにチェックをするかということが、この法案最大の焦点だろうと思うものでありますから、いささかの心配——理事なり理事長を置くことと置かないこととの運営上のメリット、デメリットがありましょう。けれども、それのメリット、デメリット両方あるが、しかし国立ではやっておる。しかし、国の権力や行政のチェックというものをどう排除するかということを最大限に考えるとすれば、なくたっていいじゃないか、多少デメリットがあるかもしれませんけれども、より大きなメリットがあるじゃないかという観点で申し上げているのでありますが、討論でございません。  そこで、先ほど理事の人数というような話がございました。私の一つの持論なんでありますけれども理事に各政党の代表ないしは政党の推薦する者を入れて満場一致制にする。たとえば今日、NHKは入れないことによって政治的公平を守ろうとしている。全部入れて満場一致制にすることによって守ることもできる。もし権力の介入というものを最大限に排除することの制度的な保障をどうするか。精神論でなくて、運営の仕方の問題であって、制度的にどう保障するかという中では、そういう方法もありはしないのかと思うのですが、いかがでしょうか。
  28. 塩野宏

    塩野参考人 これは私の方から今度は日本放送体制のことを申し上げて大変恐縮なんでございますが、日本放送体制におきましては、政党からの影響力の排除ということを一つの重要な根本といたしております。その点はNHKの組織に関する規定にもあらわれているとおりでございます。  ただ、もちろん、これは古今東西に通ずる原理原則というものではございません。現に西ドイツにおきましては、政党さらには政府の代表も日本のNHKに多少似ているところの放送委員会というものに入っております。しかし、その経験から申しますと、私はかなりネガティブな判断を持っております。現に余りにも政党人事が放送の職員にまで及んでいる、そこで実際には動きがとれなくなっているというふうな話も聞いております。そういう意味で、日本の伝統からいたしますと、政党の方がこの役員の中に入るということについては、円滑な運営の阻害という問題がありますと同時に、国民の見る目が一体どうなのであろうかという問題がございます。これは大変申し上げにくいのですけれども、政党の方が入っているとおかしいということではございませんで、そういった伝統がないところにここで一挙にそういうことをやった場合に、果たして国民がこれをどう受け取るかという問題があるわけでございます。  それから、満場一致でやれば政党色はなくなるのではないかということでございますが、満場一致ということは、別のことを考えれば何もしないということもあり得るわけで、要するに機能ができなくなるということがあり得るわけでございまして、またあり得るというよりはその可能性がかなり高いということで、大変申しわけございませんが、私はその御提案には賛成しかねるところでございます。
  29. 木島喜兵衞

    ○木島委員 これもただどうしてもするというわけではありませんが、先ほどから繰り返しますように、どうチェックするかという制度的な保障の中で、新しいことだけに、幾つか新しい発想があってもいいのではないかという私の迷いの一つであります。  先ほどから申しますように、大学のための管理運営でありますから、いま塩野先生のおっしゃいました人事などは、これは先ほどおっしゃった参加民主主義というものが確立されておれば、そういう政党こそ非難されるということになるわけであります。そういうものを立体的に組み合わせながら、一番眼目の権力の支配というものを排除しながら、そして国民的なコンセンサスの教育こそ得なければならぬわけでありますから、そういうことは、最初に申しましたとおり、日本教育行政なり教育あり方の伝統的な弊害というものがあるわけでありますから、そして電波でもってだれもが聞く、一つのキャンパスではないわけでありますから、それだけにそういう意味で、幾つかのものを新しい発想でしなければならぬではないか。そういう点では、これはいまに限ったことではないのでありますけれども飯島先生からも今後御考慮いただければ大変ありがたいと思うのであります。  その次に、人事の問題につきましては、これは先ほどからいろいろとお話もございましたから、たとえば文部大臣理事長権限等はもう御質問申しませんが、ただこの場合、教授会評議会関係は一体どうなるのでしょうか。学校教育法の五十九条の教授会、ところがこの場合には大変特殊性がありますね、特殊性はあるけれども学校教育法の適用を受けるわけです。しかし一方、教特法の管理機関等の読みかえ規定ですね、そういう教特法の教授会の方を受けないで、しかし教授会は置かねばならぬし、重要な事項は審議しなければならない。しかし実態は、大変実力をふるっておるものでもありますし、それと評議会との関係は、六名ないし十二名という限られた人数であります。その中でもって大学自治というものが、これは学部自治ですから、一つの学部しかないわけでありますから、その辺の関係が先ほどのお話になかったわけでありますので、その辺についての御見解があれば承りたいと思うのであります。
  30. 飯島宗一

    飯島参考人 先ほど塩野先生から御指摘があったと思いますけれども、現在の国立大学でも少なくとも条文上、表面的あるいは各大学のたてまえの問題としては、評議会というものが各大学の重要な規定等を最終的に決定する、あるいは大学の意思決定をする場としての作用をしております。しかしながら、それは条文的には学長諮問機関として位置づけられているけれども、慣行的に大学の決定機関であるというふうに言われております。  そこで、私どももこのたびの法案を拝見いたしまして、ここで言われている評議会というのは、そういう国立大学の慣行の上に置かれておる評議会と基本的に同一の性格のものである、そして文部大臣の任免その他の事柄もほぼそれに準じたものであるというふうに理解いたしております。  学校教育法によって置かれるところの教授会は当然あり得るはずでありますし、それから、いまも御指摘がございましたように、今度の大学はいわゆる教育研究に当たる専門家だけではなくて、放送番組の制作等に当たる専門家もまた大学の中に含まれるのでございますから、したがって、大学の一番基本になるそういうスタッフ意見をどういうふうに集合し、どういうふうに意思を反映させて運営していくかということは基本的に重要な問題であって、ここに書かれていることの中で、そういうものを従来の慣行及び新しい状況に対応させて組織し発展させていくことが、この法律で妨げられているというふうには私は解釈しておりませんです。  これは少しよけいな話になりますけれども、私もしばらく放送大学創設準備の仕事をさせていただきまして、この放送大学の問題で一番問題になると思いますことは、大学自治教授会自治という問題は、ファカルティーというものが確立していることが前提になっているわけですが、その放送大学のファカルティーというものがどういう形になって、それが放送技術の関係方々も含めてどのような形態になるか、また、空間的にかなり広がっている各学習センター等の教官あるいはスタッフとの関係がどういうふうになるかということは、放送大学を現に創設をし、また放送大学自体自治的に相当慎重にかつ積極的な方向でこれから組織していかなければならない問題だろう。少なくとも現在の条文が今後の放送大学のそういう努力を妨げているというふうには私は理解しておらない。そして、先ほどから申し上げておりますように、これが学校教育法上の正規大学として国からも社会的にも認められているのはその意味であるというふうに私は理解しております。
  31. 木島喜兵衞

    ○木島委員 学校教育法の諸規定を妨げないからいいというのではなしに、繰り返しておりますけれども、むしろ他の大学以上に積極的にせねばならないではないかという観点から私は申し上げておるのであります。  それから、教官が集まるでしょうかね、そういう心配が一つあります。たとえば先生に来ていただいて任期が来て五年たった、しかしそのポストに帰るという保障はあるのだろうか。出向なら出向という形でも、その地位になってそれはもう補完されているわけですから、果たしてあるのだろうか。あるいは国立の先生の場合に、こちらは国家公務員ではないわけでありますから、身分、待遇等の保障は一体どうなのだろうかとか、その間における研究ができるのだろうか。そして本部の先生方は、先ほども飯島先生からお話がございましたように、コースチームもつくって、言うなれば放送内容をお決めになる。そしてある偉い先生が画面にあらわれると仮にいたしましょうか。そうすると、私この前も言ったのだが、これは芝居の役者と黒衣みたいな感じになりまして、その間に研究はできない、身分はわからぬ。それから今度スクーリングの場合に、仮に四十五万も最終的になったとして、そして学習センター教授一人、助教授四人、あとは国立なら国立の非常勤でもって兼務でお願いする、しかしそんな簡単なことでできるだろうか。そして、その中にたとえば学生なら学生はスクーリングでもって一定の先生に常につけるという保証もない。自分がスクーリングで習いたいところの先生を選択することの自由もない。ということは、逆に言うならば、先生方の教授の自由がない。となると、その膨大な、たとえば添削その他も含めまして、それを四十五万を前提にして、あるいは四十五万じゃなくてもいいですよ、第一次は五千なら五千でもいいですよ、そこへ一人分教授と四人の助教授とあと非常勤、大変な多忙だと思うのですよ。しかも幾つかの制限がある。果たしてそれは教官が来るのだろうか。それがなければ、この放送大学というものはまさに意味のないことになるわけですね。しかし、繰り返されますように、スクーリングの成果がこの放送大学の成功か否かのかぎでありましようから、そういう点の心配があるのですけれども、たとえば清水先生、先生どうだ、五カ年だぞ、こう言われて、先生すっと行かれますか。——いや、いま先生に質問したのじゃないのです。ただ、そういうやはり何かちょっとお考えにならなければならぬ要素というのはあるのじゃないでしょうか。その点飯島先生、どうでしょうか。
  32. 飯島宗一

    飯島参考人 いま木島先生御指摘のことは、まさに私はやはり放送大学本質のかなめになる問題点だというふうに思っております。ただ教官を集めるということであれば、これは私は集まると思います。しかし、放送大学責任と任務と仕事の内容というものを考えますと、やはりそこにはかなり多くの方々から信頼されるようなスタッフが集まらなければならないということでありますから、私はやはりその教官組織をどうするかということにはかなり問題があるということを先ほど申し上げたわけであります。  オープンユニバーシティーでも初めの時期には、かつて普通の大学に勤めておってオープンユニバーシティースタッフになった人が非常に戸惑う、つまり、いままでの大学における業務状態とオープンユニバーシティーにおける教授としての生活というものとはかなり違うので、かなり戸惑うということを言っておりました。しかし、それは大変に不愉快なことでいやなことであるかという質問をいたしますと、いや、そういう意味ではないのだ、かなり違うけれども一これはこれで一つのやりがいのある新しい職域としてわれわれは取り組んでいるんだということを申しました。私は、日本放送大学の場合にも、事柄がそれほど簡単に回転すると言うほど楽観的ではありませんけれども、しかしいまの御指摘の点というのが、まさにこれから大学設置をされるその大学自体が相当真剣に考えてこしらえていかなければならないことであって、もしその点について十分な配慮をなされるならば、たとえばその勤務上の問題、研究条件の問題、あるいは学生、研究員との接触の問題、あるいは学内における自由な発言の問題等が整理をされていくならば、必ずこの意味のある仕事に対して熱意を示してくださる多数の方がおられるということは期待をしております。  それからもう一つは、現在の予想されておる放送大学の職員数というものは非常に限定されたものでございます。言葉は少し悪いと思いますけれども、小規模大学の教養部のスタッフの数というぐらいのことがまず基本になっている可能性がありますので、そこで、たとえば調査研究会議で仮に提案をされておりますような三コース、百何十科目というものを十分な形でこしらえていくということがその少数のスタッフで可能であるかといえば、それは私は可能ではないと思います。そこで、先ほど清水さんからもお話がありましたように、この放送大学の重要な問題点というのは、国公私立を含めた大学間においてこの放送大学がどういういい協調関係、どういう位置づけを持ち、各大学の協力がどのように得られるかということが一つ問題点であるというふうに思います。それは中央ばかりでなく、たとえば地方の学習センターというふうなものも、これは数人の放送大学の職員が多数の学生の相手をするということが基本的には不可能でありまして、やはりその地域大学の先生方、あるいは大学の先生と申し上げなくても、いろいろな方面で学校教育あるいは文化事業等に関係をしていらっしゃる地域の熱心な教育力というものを学習センターというものに、オーガナイズすると言うと少し言葉が強くなりますけれども、そういう方々地域的な自発的学習者に対する教育活動のむしろいい意味の場を放送大学学習センターが提供していくというような、かなり広いネットワークの中での放送大学の活動というものがあってしかるべきだろうというふうに思います。  それから、テレビに映るのが偉い人ばかりだということは当然ないわけでありまして、いろいろな方がお映りになる。しかしまたある点では、やはり日本じゅうの若い人にこの先生のレクチャーはぜひ聞いてもらいたいというようなすぐれた方々をわれわれはあらゆる方面で多数持っておるわけでありますから、たとえばそういう方々にお願いをしてカリキュラムなりレクチャーなり特別講義の一部に出ていただく。あるいは、地方にはとうてい及ばないいろいろな文化財その他の問題等も身近な方法として伝達することができるというように、私は各大学あるいは博物館、美術館その他そういう公共的な契機というものが、放送大学のカリキュラムないしは教育内容の形成ということに積極的な力をかしていただけるようなそういうファカルティーをつくる。そういう中で、研究、教育というものの保証が十分に行われて、その仕事に関与してくださるという方を中心に求めたい。  任期制の問題は、私はこれは今後評議会なりで検討なさって、必要があれば任期制を導入なさるということもしかるべきことであると思いますが、何が何でも五年の任期制を導入するようにこの法律が指示しているというふうには私は考えておりません。任期制と申しますのは、メリットとデメリットが相応しているわけでありまして、これも新しい大学交流という観点からは、もう少し積極的にお互いに教授を交換し合うという方向として作用せしめたいという意図があると思いますが、できればその本旨に従ってこの制度運営できるのが望ましいのであって、機械的にこれを適用するということが目的ではないということは当然のことでございますから、その意味ではいま木島委員御指摘のように、この放送大学スタッフをいかにして構成をし、また各大学との協力関係をいかに強力にこしらえていくか、あるいは地域社会の非常にアクティブな教育関係のある方々との連携をどのように組織していくかということが大きな課題であるというふうに考えております。
  33. 木島喜兵衞

    ○木島委員 ありがとうございました。ただ、今回の法律は学園をつくる法律で、しかし、これは学園をつくるのが目的でございませんで、大学をつくるのが目的なんですから、その大学像が一向に浮かび上がってこないわけなんです。いまも飯島先生、期待するという言葉をちょっとおっしゃいましたが、期待するというのは外れることもあるわけでありまして、だからそれは外れたらだめになるわけですよ。しかも大変な巨額をかけるわけですね。しかも国民の大きな期待を背負っていくわけですよ。その点の見通しなきままに、一体替成してもどうなのかという、何が具体に——最初に申しますように、われわれは放送大学そのものを否定するつもりはちょっともないのですから、ただ、そういう大学像が具体的に見えなければ、この法律を一体どうすればいいのかとすらわれわれは迷っているのですよ。そういう意味で、準備室長飯島先生にもお聞きをしたところでもあるわけであります。  余り細かいことまで聞いては何ですが、清水先生、先ほどお話がございました既存の大学の利用というお話ですね、その中には、共同利用施設というような意味ということと、それから、各既存の大学の研究をこの放送大学を通して国民全体に公開するというこのかかわりと、もう一つは既存の大学がこの放送をどう利用するかという、二面がかかわりでは——先ほど清水先生からかかわりというお話がございましたが、かかわりではその二面があるし、そのことがまたこの放送大学をつくるところの一つの目的ともされておるようでありますけれども、ただ私が心配しますのは、じゃ、この大学のレベルは一体どのレベルなのかということです。  というのは、無試験で順番で入れる、しかし、それが全部卒業するかどうかは別として、正規大学だというようなことでもって、初めから卒業しないのだ、そう持っていくのだ、そういうのじゃ、これは教育に対する責任は成り立ちませんね。じゃ、そう持っていこうとすれば、レベルが低くならざるを得ないのではないか。レベルが低くなれば、国民全体に開放しようとすればするほど水準が低くなる可能性がある、水準を高めれば高めるほど国民全体に開かれたという機会均等の幅が狭まってくるという矛循のようなものを感ずるわけですね。そこで、この無試験でもって入れるという大学の講義内容というものが、単位互換なら単位互換として早稲田大学でもって使えるのだろうか、その辺はどう理解していいのでございましょうか。
  34. 清水司

    清水参考人 いまお話で、レベルを下げれば機会均等が広がるというお話がございましたが、これはあくまでもやはり大学でありまして、能力ある者に対して開かれた機会均等だということを御理解いただかなければならないと思うのです。入った者がすべて卒業できるとは限らないわけでありまして、しかし、おのおのに対してはそれなりの多様な能力と個性があるわけでございますから、違った意味でこの大学は開かれている。それはすべてのカリキュラムを消化して修得単位が百二十何単位という大学正規の単位数になり卒業単位数を満足して卒業できなくても、個々の科目についてやはり修得をするあるいは学習する機会を広く開いているというところに意味があるのだと思うのです。そういう意味では、先ほど飯島参考人からもお話がございましたように、正規の学校教育としての位置づけで、単位の互換といった問題もその対象になり得るというふうに御理解をいただいてよろしいのではないかと思います。
  35. 木島喜兵衞

    ○木島委員 飯島さん、さっきから、この目的の理由には国民全体に開かれた、すなわち国民全体の機会均等。ところが、この完成年次がわからないのですね。完成年次がわからないということは逆に言うならば、唯一の機会というものを、二十六条の機会均等を制限して、たとえば十年なら十年だというならいいのですが、唯一の電波を通じての正規大学である、だがしかし、電波は限定されておる、いつになるかわからない、とすれば、皆さんが機会均等のためにとおっしゃるのですけれども、実はそれがどうなるかちょっとわからないというところにまたわれわれ委員の悩みがあるのですが、飯島先生の個人のお見込みはどうでございますか。
  36. 飯島宗一

    飯島参考人 その前に、先ほど御質問が清水さんにあったレベルの問題、能力の問題ですが、これは実は何も放送大学のみにかかわったことではなくて、高等教育一般というものが、たとえば中等の教育という形でもっと普遍化されていくという世界的な動向の中で、一体従来考えておった能力とは何であり、従来考えておったレベルは何であるかということの再検討も含めて、大学教育にかかわる者あるいは教育にかかわる者全体が今後かなり真剣に考えていかなければならない問題であって、私はその点で、古典的な意味におけるスタンダードだけに固執をするということではせっかくの開放の意味が減少してくるであろう。また、われわれ人間の持っている知的活動分野というものが非常に広く多彩になっておりまして、そして決してある限定されたものではな。そのダイナミズムを放送大学だけが担うわけではありませんけれども、それの一つの手伝いをして、今後の未来のわれわれの社会の中にどういうふうに学習的な知的情報の資というものを人類の財産にしていくかという課題でございますから、御指摘のように大変むずかしいことでありますけれども、むしろ私は、それを後退的にとって、であるから大学はもっと減らした方がいいというところへいくのではないということで努力をしてみたいという方向に賛成でございます。  それから機会均等という点から言えば、いつ全国化されるかということが問題であって、おまえの見通しはどうだということでありますが、これはむしろ私どもとしては政府並びに国会の方々に本来そう言う趣旨のものでありますから、現在国の財政その他いろいろむずかしい問題はありましょうけれども、もしこれを国としてあるいは国会としても意味のあることとお認めになった以上は、なるべく速やかに——もちろん大学をつくるというのはそう簡単なことではございません。しかも全国にネットワークを拙速的に広げるということはかえって弊害があると思いますけれども、ステッディにそれを広げていく努力に対してぜひ御配慮をいただきたい。  機会均等が十年奪われるのではないかという御論点もまさにそのとおりであると思いますけれども、逆に言えば、現在の状態はそれではゼロである、ゼロをいつまでも固定しておくよりは少しでも百の方向に向かって努力をする、その実績を私どもはつくっていきたいし、それから国、政府の方は、いろいろ財政上の問題等はおありでしょうけれども、その趣旨をおくみ取りくださって、十年と言わずもっと早い時期でもいいですが、とにかくもしそれが価値のあることであるならば積極的な取り組みをしていただきたい。私どももいまここで木島先生に、いや、十三年後には絶対大丈夫でございますというような見通しを申し上げる能力はございませんので、むしろお願いを申し上げたいと思います。
  37. 木島喜兵衞

    ○木島委員 大学の創設は、たとえばヨーロッパなんかでは、一つのあれでも五十年も六十年もかかっているということもある。それから同時に、それは財政だけではなしに、この問題は金さえあればそれですぐに機会均等は確立するのだという問題ではないだろうという観点からも含めて、御質問を……。
  38. 飯島宗一

    飯島参考人 確かにおっしゃるとおりでございます。ですから、先ほど申し上げたように、大学教育内部の問題としてもこれからまだ考えていかなければならないことはたくさんあります。しかし、お説のとおりではありますけれども、もしこれを当面日本一般化していこうとすれば、やはり財政措置というものが伴っていくという見通しがあることがどうしても必要な条件でありますので、その点で積極的な御支持をいただければ大変ありがたい。  それからもう一つは、準備に大変かかるということもありますけれども、もしそうであるなら、その間にいわゆる機会不均等という現に経過中に出てくる状態というものに対して、われわれが何らかの策をとり得るかどうかということも考えていかなければならない。たとえば一例を申しますと、実際の電波は届かないかもしれないけれども、ビデオカセットあるいは通信教材その他でかなりオープンにしていくとか、その他のこともこれは私は検討課題だと思います。
  39. 木島喜兵衞

    ○木島委員 そういう意味ではビデオセンターも、八百七十億という基本計画でいいのかどうかもそれは疑問もありますが、これは次に譲ります。  それから、飯島さん、私はこれはわかるのですけれども大学あり方とかかわるものは、大学の名称ですね。放送大学学園、常識的にですよ、仮にこれが大学そのものの名前が公開大学だということになるなら、本来なら公開大学学園法の方が素直ですね。なければならないというわけじゃないのですが、放送大学学園が公開大学をつくるなんというよりもいいですね。しかし、そこにはいろいろな理念がおありで、なお煮詰まらないという、もし名は体をあらわすという意味で名が決まらないということになると、先ほどから申しますように、この学園法案というものは、大学が一体何かというための学園なんでありますから、そうすると、その大学の名は体をあらわすという大学あり方大学の理念というのでしょうか、何を対象とするのかというものが、ねらいが明確でないと名前がわからないのだということになると、この大学学園法案を一体われわれはどう理解したらいいかということにもかかわってくるわけです。しかも、十年かかって研究をなさったわけですよ。この中身はどのように詰まっているのですか。
  40. 飯島宗一

    飯島参考人 実は私はかつて準備室長はいたしましたけれども、現在別にそれを継続しているわけではないので、特にこの準備責任のあることをやっているポジションではありませんけれども、名称の問題につきましては、いまお話があったように、まさにこの検討が始まって以来どういう名称にしようかという議論が非常にたくさんございますけれども、現在まで適当な名称がないままに放送大学ということで通っておるわけでございます。これはいまお話しのように、実体が不明確であるから名称が決まらないということではなくて、実体は明らかにイメージがあるのだけれども、それがかなり新しいいろいろな要素を含むために、どの熟語を持ってきてもどうも十分に表現できない。開放大学公開大学国民大学、これは日本大学というのはもうすでに名前がありますし、そういう意味から申しまして市民大学というのもいろいろ名前があるというので、実体というよりもむしろそれにふさわしい日本語がなかなか見つからないということで、これは私のような者ではなくて、大変多くの識者の先生方がいろいろ知恵をおしぼりになったのですけれども、現在のところ放送大学ということで落ちついたわけでございます。  それからもう一つは、仮称放送大学ということで議論をされている間に、社会的にも一般国民の間にも放送大学であるというイメージが大体において通ってきつつあるという状況でありますので、非常に名案がこの際提案されて、それはまさにいい名前だというものがあればそれを採用するということはあり得ることだと私は思いますけれども、実態はそういうことで経過をしておるというふうに思います。オープンユニバーシティーというイギリスの名前のつけ方は非常に鮮やかな名前のつけ方で、それに相応する親しまれるいい名前というものはお考えいただいたのですが、むしろ事情は先ほど申しましたように、実体がはっきりしないからというよりも、持ってくる熟語の側にふさわしいものがないというのが現実ではないかと思います。
  41. 木島喜兵衞

    ○木島委員 ただ、先ほどのお話にございましたように、イギリス公開大学オープンユニバーシティーとしたにはしただけの実体の変化があったわけでしょう。とすれば、当然そういう配慮がなければならないし、変わるなら法案の名前だって変わらなければならぬだろう。だから、実体と無関係だとは私は思っておらないのです。そうなると、討論になりますから結構です。  最後に一つ。  広島の実験等でも、スクーリングに行くことがなかなか困難であって、そのために途中でやめていかれる方が非常に多いわけです。しかも成人を相手にするわけでありますから、有給教育休暇があるかないかが——スクーリングが一つの生命である、そのスクーリングにすべてが行ける条件を法的にも経済的にもどう整えるかということがなければまた成功しないのだろう。放送大学をつくるけれども、その方をおろそかにしたのではこれは成功にならぬだろうと思うのです。この点、たとえば私はいつも言うのでありますが、いま準備されつつある、かつて教員養成大学と仮称されておったあの大学院は、言うなれば二年間大学院に現職のまま、現給のまま行くわけですね。そういう意味で、言うならば二年間という期間の有給休暇であります。そういう長期に、それは早稲田に行こうが東大に行こうが名古屋大学にいこうが、そういう制度も、あるいはその場合有給でなくても身分なり休暇だけでも保障する、あるいはスクーリングならスクーリングに行くのに合わせて一年間に何日間とりたいときに行ける、幾つかの方法があろうかと思うのです。そのことが前提だろうと思うのです。だから、この法案を出す限りは、それがなければ国民に開かれたものにはならない。形では国民に開かれたと言うけれども、実は行けない、開かれておらない、一機会均等にならないことになる。このことを、両面からやらなければならないものなんだろうと思うのです。この方が片手落ちじゃないか、一向に進んでいないのじゃないかと思うのですが、いかがでしょうか。
  42. 飯島宗一

    飯島参考人 確かにおっしゃるように、いまの御論点は大変重要なことだというふうに私は思います。  それで、イギリスオープンユニバーシティーは非常に成功しているように言われておりますけれどもイギリスの中で多少批判がございますのは、本来オープンユニバーシティーは労働党の政府が、特に工場等で働いている方々高等教育機会を与えて、そして資質の向上を図る、それはまたひいては生産性の伸長につながってくるということも、イギリスの国として配慮をされた向きがあるようでございます。ただ実際問題として、オープンユニバーシティーの当事者も言っておりますのは、スクーリング等ももっと大幅に用意をしたのだけれどもイギリスの労働条件は私は日本よりははるかにいいんだと思いますが、イギリスの状態ではなお、そういう学習あるいはスクーリング等の機会に対する労働条件としての保障が不十分である、したがってその面ではまだイギリスオープンユニバーシティーも本来の意味で完全に成功しているとは言えないんだということを聞いたことがございます。  それで、この放送大学あるいは通信制大学というのが、さっき大学はたくさんあるからいいじゃないかというお話もございましたけれども、実はパートタイムスタディーということが非常に重要なことなので、職業的活動、社会的活動を犠牲にしないで、それと並行しながら学習のチャンスが与えられるということが、老若を問わず新しい学習機会が与えられることになるわけであります。しかし、それでありますけれども、本業をやりながら大学勉強をするということは大変なことであります。そこでやはり一面においては、労働時間の問題とか、いま御発言のような学習的な休暇の問題というふうな、それを条件づける側の事柄が並行して進んでいくということは必要なことであります。  それからまた、これは私の全くの個人的な意見でありますけれども学習センターのようなものも、ただ機械的に県庁所在地に置くというふうな考え方では恐らく硬直化してしまうであろう。たとえば大きな工場があれば工場の中に学習センターがあるということも考えられましょうし、あるいは農村では農村青年の活動の中に学習センターがあるということが考えられましょう。したがって、学習センターのアクティビティーは、放送大学市民生活ないしは職業的活動から遊離したところに押しつけられるのではなくて、その生活のリズムの中で溶け込んでいけるような、そしてそれに基本的な素材を放送大学が提供していくような形になれば、私はこの形での新しい学習形態というものは漸次それなりの定着をしていくだろうと思っております。  したがって、私はまさに御指摘のとおり、いまからでももう少し学習をする人たちの側の条件づくりということに関して、これは多分文部省所管の問題だけではなくて、農林省も労働省も、あるいは場合によると通産省関係のこと、あるいは地方自治体あるいは労働組合その他を含めた広い層の方々とのお話し合いの中でそういうものを具体化していくことが望ましいのではないかというふうに思っております。  ただ、いままでは、たとえば各大学への協力をお願いしようということであっても、あるいはいま御指摘のようなことを少し計画しようということであっても、何分にも放送大学というのは一体できるのですかできないのですか、できない架空の話ではどうもそれ以上のおつき合いはできませんというような、これは卵が先か鶏が先かということで、両方で努力していかなければならないことでありますけれども、そういう隔靴掻痒の部分がございました。しかし、もしこのたびこのことが認められるということであれば、大学の創設、発展ということは今後の問題でありますから、私は個人的には、いま御指摘の画をもっと広範な層にお話し合いをして進めていかなければならない、そういうことが終局的にこの学校体系というものを市民のものにし得る唯一の方法ではないかというふうに考えております。大変不十分ですけれども……。
  43. 木島喜兵衞

    ○木島委員 いろいろなお教えをいただく参考人の先生方に、あるいは失礼な言葉があったら——ずいぶんあったと思うのでありますが、お許しください。  私の質問を終わりますが、ちょっと関連して嶋崎委員からあります。
  44. 坂本三十次

  45. 嶋崎譲

    嶋崎委員 わが党に与えられている時間が余りございませんので、いままでの議論に焦点を合わせながら二、三意見をお聞かせ願いたいと思います。  参考人の諸先生方の全体に共通していることは、この放送学園の大学学問の自由、大学自治、講義の自由、こういう一連の問題の担保が相当保障されなければならないという点では共通していたと思います。  そのことに関連して、木島委員からもいろいろ議論がありましたが、第一点としてそれぞれの参考人の方にもう一度お聞きしたいのは、いまの電波法、放送法の体系からは国営放送というものはできない。後で法改正すればいいという塩野先生の御意見がありましたが、現行法制下でわれわれが出発するにはどうするかという議論を私が小委員長として全体をまとめたわけであります。その際に、現行法制の体系の中でどうするかという観点に立ったときに、国立大学放送局を持つことは無理であろう、私立大学は無理であろう、それで特殊法人という形態で現行法制下ではやむを得ないであろう、こう考えたのが小委員長報告で、各党共通した意見であります。したがって、ここでNHKと放送学園の放送大学との間の問題が残るわけであります。  NHKは御承知のように聴視料を取る、民放はスポンサーつきでやっていく、今度のものは全部国がめんどうを見るということになりますと、実際にはチャンネルをひねりますと国民はたたで放送大学放送は聞くことができます。NHKの教育放送も聞けますが、これは聴視料を払わなければなりません。現に高等学校、中学、小学安ではNHKの教育番組を相当使っておりますから、親が民放だけ見ていてNHKを見ないのだからNHKに金を払わないという理由にはなりません。こういうことになりますと、現行法制のもとで片一方ではNHKが長い間、国からの金をもらわずにNHKの主体性を強調し、番組編成権の自由と言論の自由を守るために大変な努力をしてきた今日までの歴史的経過がある。ところが他方で、特殊法人ではあってもまる抱えの国の放送大学ができて、電波という威力で教育番組が送られる。そうしたときに、NHK自身の財政上の問題が対抗関係として出てくる可能性を秘めている。現在でもなかなかNHKの聴視料は集まらないのです。そうしますと、そういう現状の中で、NHKが放送、言論の自由という観点から番組編成権の自由を含めて、なぜ今日まで国家権力からの自由という問題で努力をしてきたかということ、同時に、今度の放送大学ではまる抱え国がお金を出すけれども、国立大学は伝統的な学問の自由と大学自治を憲法の要請に基づいてやることができた、だから放送大学でもそれは可能なんだ、この関係が依然として——理念としては頭で統一することもできれば、法律改正で解決することは理論的にはできるし、矛盾はありません。大学自治という問題をきちっと担保というか、後でもう一つの問題を聞きますけれども組織制度の問題にきちっとした担保を保障していけば、放送法上の制約があっても、その対立的なものがアウフヘーベンしていくことは可能だと思う。  ところが現実には、長年NHKがなぜわが国の政治、カルチュアのもとで国家権力からの自由という観点で番組編成の自由を守り、そして財政的な援助をもらわず——実際には六億円あります。国から援助をもらっても、番組編成の自由を持っておるNHKの財政的側面がありますから、国から金が来たからだめだということじゃありません。その萌芽はすでにNHKにありますけれども、NHKが長い間闘ってきた。大学も闘ってきた。ところが、大学は今度はまる抱えで国が経営する、しかも電波という威力でもって。御承知のように選挙をやってみますと、アナウンサーは必ず全国区で当選するのです。それだけ威力があるのです、質がいいか悪いかは別として。ですから、そういう威力でもって放送大学教育の手段として動き出すという際に、NHKが今日までなぜ国家権力からの自由という意味で言論、報道の主体性を守るためにがんばってきたかということと現実の運用では矛盾する。片一方は聴視料を取っておる。払わなくてもいいという議論が出てくる。現在NHKはただでさえも財政問題で大変な事態になっておる。そういう観点からすると、理論的や理念的に学問の自由と言論の自由という問題を放送大学という形態を通じて、仮に大学自治学問の自由という担保を通じて保障するとしても、この問題は残るのではないか。だからこそ、逆に言えば特殊法人という形態をとらざるを得ない。NHKの問題が片一方にあるがゆえに、そういう問題を国営放送というかっこうではとれなかった、国立大学放送局を持つという形をとれなかった背景があるのではないかと考えております。  したがって、そういう現実のNHKが今日までやってきた日本の政治風土の中での公的な放送あり方という問題と、今日の放送大学が発足することによってそれが機能するであろうという問題との間に現実に起きる矛盾の中で、果たして放送大学大学自治学問の自由を守り得るような大学たり得るのかどうか。NHKがそういう努力をした経験にかんがみて、大変な努力をしないと、教授会の伝統もなければ、教授会の人事のいままでの経験も持たない評議会が力を持った大学が、先生方が共通しておっしゃる学問の自由、大学自治を守り得る大学たり得るかどうかという懸念を私は持つわけであります。その点について、現実の運用などを頭に置いた上で、NHKが今日まで対処してきたあり方を考えた上で、学問の自由の保障はあり得るかという点を含めて、それぞれ御意見をいただきたいと思います。
  46. 飯島宗一

    飯島参考人 ご質問の論点がNHKとの関係の問題、それからもう一つの面では大学自治の問題ということのように私は理解いたしたわけでございますが、確かにNHKの、特に教育番組の系統と放送大学関係というのは初めからの課題でございまして、私どもは多少いろいろな準備、調査のことをお手伝いいたしました段階でも、NHKに実験番組をお願いし、あるいはその後もNHKの方々とはいろいろな機会にお話をいたしまして、私の個人的なレベルでの理解では、放送大学放送大学として、NHKはNHKとしての分野があるということで今日まで参ったように思います。  しかし、ごく客観的に見て、放送大学放送業務に関する限り、NHKと密接な協力関係を持っていくことは絶対に必要なことであるというふうに私は思います。それはいま御指摘の放送というものの位置づけを確立されたという長い伝統も尊重し、その教えも受けなければなりませんし、また、この間NHKが開発された放送技術上の目覚ましい蓄積あるいは資料その他の蓄積というもの、このNHKのお力をちょうだいして、放送大学の番組の方も豊かにしていくということは当然のことだと思います。そういう経過で、NHKと放送大学とが何か一つのフィールドをお互いに争う、そしてどちらが勝ちどちらが負け、どちらが立てばどちらが立たないというふうにこの問題を理解するのではなくて、国民の持っている電波の与えてくれる可能性の中に、教育チャンネルそれから放送大学というせめて二つぐらいのそういうチャンネルが国民の財産として提供されるということがむしろ望ましいことである。そして、電波の中身がその意味で多少とも豊かになったというふうに国民に受け取ってもらえる、そしてNHKの聴視料の問題も、めぐりめぐっては放送大学の方の放送にもいろいろな点で寄与をしていただいているというふうな形で国民の御理解をいただく、そういう関係論がNHKの放送教育と今度の放送大学の間にはなければならない。しかもNHKは、大学以下の学校放送教育に対しては今後も御活躍でありましょうし、それから放送大学放送の性質上、とうてい放送大学の電波ではカバーできない広い意味の文化的な分野というものがあるわけでありますから、私はその意味で、両者が協調してむしろ国民のために電波の中身をふやすということで協力し合うという観点でお話し合いができないのであろうかということを個人的には考えるわけでございます。  それからもう一つ、歴史が非常に少ない、これから発足をする放送大学というものが、自治をどう獲得していくかということは御指摘のとおりでありますが、しかし、およそどこの国の大学においても、自治、自主性というものは保障によって与えられるものだと私は思いません。つまり、時の政府によって与えられた保障というものが絶対的な自治、自由であるなんてことはないわけであります。したがって、いま日本の中でそういうコンセンサスが与えられているものをわれわれは大事にいたしますけれども、しかし、大学の教官なんていうのは、常に自分たちでそれだけの努力をしていくということは当然のことでございまして、私は、放送大学が今後設立されるならば、その関係者は当然大学人としてその努力をするものだと思っております。  それからもう一つは、先ほどから申し上げているように、この放送大学はいろいろな意味で私はむしろ、一つ大学というよりも日本の全大学連合の一つの機能をあらわすというような位置づけで、各大学との密接な協力関係というものの中になければならないと思うのです。したがって、大学自治学問の自由ということがいわば日本大学総体の中で守られていくという部分についても、放送大学はその仲間の一人になり得るわけでございまして、そのような方法で今後の放送大学づくりというものをしていくということが一つの要点ではないかというふうに存じます。
  47. 石村善治

    石村参考人 嶋崎先生がおっしゃいました危惧は、私は全くそのとおりだと思っているわけです。それだからこそ組織がこの状態、この法案のままでは、危惧されておるそのままになるのではないかということを思うわけです。もしこのままの状態で放送大学が突っ走るということになれば恐らく、悪い予想をすることが考えられるならば、教育関係の番組は放送大学関係放送としてNHKの中から吸収されていくのではないか、あるいは淘汰されていくのではないか。残ったものとして果たしてNHKが存在の意義をどの程度持ち得るかというのはきわめて悲観的である。それから、もしそういう危惧があるにもかかわらず、全国的な放送大学というふうなことで発足しなくてはならないというのであれば、これは最終的にはほかの各園がいっておるように、やはり放送には重点が置かれない、通信その他のメディアによる教育というところに重点を置かざるを得たくなってくるのではないか。そうするとまた、これは堂々めぐりになってくる、いまあるものの中でどうして放送メディアを使う努力をしないのかという堂々めぐりの議論が起こってくるのではないかというふうに思います。先生がおっしゃっておる危惧、私もそのまま危惧だと思って、このままの法案ではだめなんじゃないかというふうに思うわけであります。
  48. 塩野宏

    塩野参考人 放送の自由の確保のためにいままでNHKが払ってまいりました努力は、私も非常に高く評価いたします。そしてその基礎に、受信料契約というものに基づく受信料制度という、これまた世界にもきわめて特異な制度があった、それをてこにして守ってきたということを私も認めるにやぶさかではございません。その意味で、この受信料制度というものが放送大学が発足することによって影響を受けるかというと、私は影響はないと言い切る自信は毛頭ございません。  というふうに申しますのは、現在すでに受信料制度に対する理解というものを大方の国民にはいただいておると思いますけれども、しかし、そうでもない方もおられるわけでございます。そういう状態にさらにもう一つ、本当はただでないのですけれども、いかにもただで見られるような放送が加わるということにつきまして、いままでの受信料制度に対する理解の度を国民の間に広めていただくためになお一層の努力が必要である。さらに場合によっては、現在の受信料制度そのままの形で維持することがあるいはできなくなる、どういう形でこれを直すかは別といたしまして、できなくなることもあろうかと思いますけれども、しかし、それに至るまでの間にも、受信料制度の基礎が崩されないような努力が各方面においてなされなければならないと存じます。  その場合に一つ問題になりますのは、やはり放送大学放送の範囲というものが多少問題になろうかと思います。この点は、この法案におきましては二十条におきまして、学園は、「前号の大学における教育に必要な放送を行う」ということである程度のしぼりをかけております。しかし、仮にこれから放送大学がもっと国民の間に定着しようということで、いろいろなおもしろい番組を多少枠を外してお始めになるということになりますと、NHKの教育番組との間にかなりのあつれきが生ずることは事実でございますので、その点では、NHKとそれから今後設置が予定されている放送大学との緊密な協力と、場合によっては放送大学の方の自制というものを私は望んでいる次第でございます。  それから次に、放送大学あるいは放送大学学園の独立と申しますか自主の問題でございます。お説のようにこの場合には、資金の大部分が国から出ます。その意味ではNHKのように、受信料制度というものをてこにした自由の確保、そういう手段はとれません。しかし一方において、この放送大学学園というのはまさに大学を設立するということでございますので、論理といたしましては、大学教育とその自由という、これは憲法に根拠を置きますところの議論があります。そういうわけで、いま御発言もありましたように、理論的には大学自治あるいは学園の自治の保障というものは私は考えられると思います。しかし、確かに歴史は浅いと申しますか、これから生まれるか生まれないかわからないものについてそう大きな期待を持つことは多少危ないかと私は思います。私は楽観はしておりません。その意味からいきますと、特に発足の時点が非常に重要である。発足の時点において国民に喜ばれないで生まれたということ、そしてまた、そのために適切な人材が得られないということは、大変禍根を後に残すものだというふうに考えます。先ほどからお話もありましたように、そういう形で発足のときに評議会においていろいろな基本的な大学の構造というものができてくるわけでございますから、私は、設立の後というよりも設立の過程というものに十分御留意をいただきたいというふうに考える次第でございます。
  49. 清水司

    清水参考人 私も、この放送を用いた大学教育という問題で、いろいろ調査をされた段階の中で参加をいたしたわけでございますが、実際にいま現在NHKでやっておりますとこうの教育番組また大学講座といった中で、この放送大学が発足したときに全然影響を受けないと言えば、これはある程度誤りであるかもしれません。しかし、先ほど飯島参考人からもお話がございましたように、これは大学の講義の放送でありまして、それなりにカリキュラムが限定されてくる。ただいまちょっと御発言がございましたように、文化的なものというような範囲も含めて枠を広げて、娯楽番組らしきものも入ってまいりますとこれは問題だと思います。私は、枠をはめていった場合に、NHKとお互いに協力関係の上において豊かな内容を盛り込み、お互いに助け合うといいますか補完し合う内容のものが得られるのではないかと思います。NHKは確かに長い間、聴視料を自分で自主的に徴収するという形で言論の自由を確保してまいりました。大学は、いまお話にもございましたように、確かに国費でそれを賄うということになりますが、これは大学教育ということと放送が受け持つところの言論の自由との枠組みの違いにあるのではないかということで、問題は、そういったコンセンサスが国民の中に得られるかどうかということではないかと思うので、自主的にはNHKのそういった今後の運用に対して、放送大学はむしろある程度プラスになるような形での進み方を考えなければいけないし、そうあるべきだというふうに思うわけでございます。
  50. 嶋崎譲

    嶋崎委員 私の党の質問時間は四十五分までですから簡潔に、私も短くやりますから……。  そこで第二番目、教授会評議会関係についてですが、確かに国立大学の場合には、学校教育法あり教育公務員特例法ありであります。しかし、大学自治の場合に、学校教育法では教授会中心にして論じておいて、そして事人事の問題にはさらにそれを保障するために、教育公務員特例法四条読みかえ規定ということで制度化してあります。したがって、評議会諮問機関であっても、事実上は教授会中心にして人事が行われるところにいまの大学自治一つの特徴があると思います。それが、評議会が先行して教授会を無視した人事案件が全国に幾つか起きて、いままで紛争があったことは先生方御承知のとおりであります。  したがって、今度できる放送学園大学大学自治組織として、評議会というものと、当然学校教育法上の教授会というものが併存するわけでありますが、片一方は法律事項として起こし、片一方また教授会学校教育法に基づいてできる。そうした場合の教授会評議会との関係は、評議会がすべて大学制度その他について規則やその他をつくって教授会にかける性質のものではなくて、やはり放送大学は開かれた国民大学でありますから、相当広範な全国の国公私立の大学方々関係機関とどのような連絡をとり、どのような地方、何と言うか、リージョナルな、たとえば国立大学で言えば全国教養部長会議なんというのがありますから——今度のものには、先生方はお気づきじゃないかもしれませんけれども放送局が免許を出すときには、どれだけ何%放送するというので、教育、教養、娯楽とこう出すわけですよ。今度の場合には、教育とだけ出せない、やはり生涯学習権の問題と関連して教養学部なのですから、教育、教養と出すのですよ。そうすると、それはNHKの教育番組と同じ項目になりますから、制度の上では事実上競合する。ですから、そういう問題が残るのです。  いずれにしても、国民に開かれた大学ですから、その大学自治組織である教授会というもののあり方を一定程度、評議会との関連において明確にしておく必要があるのではないかと思うのです。しかも、この教授会は非常にあいまいであります。評議会もまたきわめてあいまいであります、その構成は簡単だけれども。しかし、教授会と言ったって、われわれがやってきたように助手だって教授会に参加させられるのだし、ときには客員教授だって、人事は別としても教授会に参加することはできます。カリキュラムの編成については発言権があります。そしてまた、地方の学習センターに参加する教授たちも、カリキュラムその他について発言の自由がなければなりません、権利が保障されなければなりません。そうなりますと、この放送大学における教授会評議会関係はかなり新しい試みになるわけであります。  筑波の場合には、法律事項として評議会を起こしまして、人事委員会をみな特別に起こしました。ですけれども、今度の場合は、特殊法人でありますから国立大学じゃありませんし、ここらは労働組合をつくることができるのです、ストライキもできるのですから、だからそういう意味では、普通の大学と大分違ういろいろな動きが出てくるはずであります。ですから、それだけに教授会評議会との関係、それから教授会にプロデューサーその他の放送技術者というものをどう考えるのか、これも教授会の議によって、ときには教授会に参加することができるはずであります。ですから、教授会評議会というものを、評議会優先ですべて考えていくような運営、それから同時に、さっきからたくさん出ておりますように、ビューロクラシーの文部大臣権限がかなり肥大化している、こういうことと関連して、もし教授会評議会の問題について現実の慣行を形式輪として言えば、ちっともおかしくありませんけれども、実態的に新しいものをつくるという場合に、教授会あり方評議会との関係について御意見があれば、参考人に対する質問というのは私の意見を述べるのではなくて、お聞きをして次の討論の参考にするものでございますので、四十五分までの間にそれぞれ一、二分で簡潔に御意見を承れれば大変幸いでございます。これが最後でございます。
  51. 飯島宗一

    飯島参考人 私は基本的には、大学管理運営組織の細部をどうつくっていくかということは、まさに大学自治に属する事項であって、今後設立されるであろう大学自体が慎重な御検討をもってお決めになるというのが筋だと思います。しかし、先ほど塩野参考人からお話もあるように、そのスタートラインでは非常に大事でありますが、しかしその趣旨は、私が繰り返して申しましたように、私どもの個人的な意見では、これはあくまで大学としてのあるべき自治組織をとるという前提ですべてが行われるのが当然のことだと私は思います。  それから、管理組織というのは、単に管理運営は上なり中を見た権力関係だけにあるのではなくて、いかにみんながそこでいい仕事をやっていくかということが非常に大事なことである。よしんば評議会が独走してみても、この種の大学では番組一つできないという可能性が出てくると思う。私は、その点については全く心配はしておりません。むしろ放送大学大学という自覚のもとで発足をするならば、当然その責任に対してこたえるべき自治能力を持つべきであって、それにお任せして構わない。もちろんそれがわれわれ第三者から見て問題があれば、いろいろな機会に批判をするということは当然保留されていいだろうというふうに思います。
  52. 塩野宏

    塩野参考人 教授会について、この法案ではすべて学校教育法にゆだねておりまして、明確なところがないということは事実でございます。しかし、従来の教授会のまま、この放送大学においてそれがそのまま妥当しますとすると、果たしてうまいぐあいに機能するかどうかという技術的な問題はどうしても残ろうかと思います。その意味で私は法律の形としては、従来の教授会権限そのままだということを決めない方がむしろいいのではないか、むしろそれは今後の評議会あるいは設立された場合の教授会との間で、まさにいま飯島参考人の言われたような形で自治的に、自主的に決めていかれるべきものであろうと思います。たとえば具体的に申しますと、人事の点につきましても、なるほど法律的には評議会で議決し、そして順次に任命するという形になりますけれども、その場合に、たとえば教授会のあるコースの推薦を前提とするとかいろいろやりようはあるかと思います。問題は、むしろそういった従来の大学のい伝統を残しながら、なおかつ、こういった新しい組織に適合的なものをつくるだけのそれこそ能力あるいは人が得られる万どうかという点でございます。しかし、私はいまり段階で、人はいないよなどということを申し上げる立場にございません。
  53. 嶋崎譲

    嶋崎委員 問題は人ということになりますね。  私の質問を終わります。
  54. 坂本三十次

    坂本委員長 この際、十分間休憩いたします。     午後三時四十一分休憩      ————◇—————     午後三時五十分開議
  55. 坂本三十次

    坂本委員長 休憩前に引き続き会議を開きます。  質疑を続行いたします。伏屋修治君。
  56. 伏屋修治

    ○伏屋委員 参考人の皆様方にはもうすでにお目を通してみえると思いますけれども大学局から出しました「放送大学について」の「放送大学設立の目的」の中にウの項としまして、「大学関係者の協力を結集する教育機関」ということがうたわれておるわけでございます。私も不勉強でございますけれども、この放送大学が一応軌道に乗るためには、どうしても国公私立大学の強力な協力体制、これがなければ、名実ともに放送大学というものの将来というものは危ぶまれてくると思います。そういう面におきまして、先生方が所属されます各大学で、この放送大学についての協力体制ということのお話し合いということがどの辺までされておるのか、その辺から聞きたいと思います。
  57. 飯島宗一

    飯島参考人 初めに私からお答えいたしますが、個々の大学でその放送大学に対する対応と申しますのは、私どもの経験しております範囲では、いままで放送大学がどういう形に終局的になってどうなるかということがすべて試験段階でございましたので、設立を予定してこういう協力体制を考えようというところまで議論が習熟しているということはないと思います。  ただ、一つは、御案内と思いますけれども、二、三の国立大学公開講座に当たって電波を利用するということを、これは放送大学準備の問題を兼ねていままでやってまいりまして、広島大学、東北大学あるいは金沢大学等のその御関係大学では、この授業のためにかなり積極的な御協力もいただき、またそれぞれの経験について詳しい調査研究の御報告もちょうだいをしております。  それから第二に、国立大学協会は、もともと私も実は国立大学協会からの委員として調査研究会議に加わらせていただいたわけでございますけれども、当初からかなり深い関心を国立大学協会としては寄せておりまして、そして第一常置委員会その他が窓口になりまして、随時進行の状況その他については国立大学の方に御連絡を申し上げているということでございます。  それから三番目に、いままで実験放送あるいは実験番組等をつくります過程におきましては、これはもう国公私立各大学の非常に多くの先生方に、番組の編成あるいは番組への出演、あるいはテキストの執筆あるいはその効果についてのいろいろな御議論というものをちょうだいしてまいったように思います。  そういうことで、そういうレベルでの関心ないしは体制というのは、現在まで徐々に進んでおりますが、初めに申し上げましたように、放送大学がすぐできるのかどうかという点にいままでは明確な点を欠いておりましたので、それ以上具体的なところまで踏み込んだ議論というのは恐らく、各大学のレベルでは少ないのではないかというふうに思います。  それから最後に、放送教育開発センターが国立大学共同利用機関として発足をいたしましたので、その方面との、それを一つの場として国立大学関係放送教育開発の問題についての話し合いが行われているということだというふうに理解をいたしております。  大体以上でございます。
  58. 石村善治

    石村参考人 私は、そういう計画について参画をした経験もございませんし、全くの個人的な経験だけでございますが、学園紛争が盛んでありましたときに、紛争のない大学という形で若干仲間の中で問題といいますか話し合ったことはございますが、それ以降十年の間、私、幾つかの論文を書いて仲間などに送ったり話をするのですが、中身がやはりよくわからないという点、それから実際に切実な問題ではないのではないかという印象も受けるわけです。それから、そういう発言ということで、これは東京と九州ではまた違うのかもしれませんが、少なくとも私の個人的な印象では、われわれ教員の仲間ではほとんど問題になってこなかったのではないか。今回改めてこういう法案が出て新聞社説等で若干の意見が出たということで、それでもやはり余り関係ないんじゃないかという印象を漏らす人が多いと思うのです。それはやはり私なども含めて、どういう審議の状況がいままで審議会の中で行われていたのかというふうなことが、私の努力の不足もあると思いますけれども、なかなかわからないようになっているのではないかということをちょっと感じます。
  59. 塩野宏

    塩野参考人 大学協会の個人個人に一ついてそれなりの意見ないし知識を持っている人は多いかと思います。しかし、これが大学がその個別個別の大学としてあるいは機関として、これについて何か討論をしあるいは大学意見を決めたかといいますと、たとえば東京大学についてはそういうことはないように私は記憶しております。この点は、多少残念なことではございますけれども、いま石村参考人から御発言がありましたように、自分の大学に直接関係がないということについては余り積極的に発言しないという体質が日本の場合にはございます。しかし、今度のその法案におきましては、各大学関係ということがうたわれておりますが、そのために各大学の協力を得るということにはかなりの努力が必要ではないかというふうに私は率直のところ思います。
  60. 伏屋修治

    ○伏屋委員 いま各参考人の先生方から御意見を承ったわけでございますが、それにしましても、この放送大学学園法案というものがいま提出され、しかも五十四年、今年の十月にそれが発足し、五十五年、そして五十七年学生受け入れ、こういうような段階に進んでおるその過程で、いまお話を聞く段階におきましては、何か各国公私立大学の方がおくれておるのではないか、何か文部省がひとり先に進んでしまっておるというような印象を非常に強く受けるわけでございます。とりわけ、その「放送大学について」の中にすでにカリキュラムまでが、一応教育内容までが組み込まれております。そういうものが組み込まれておるにもかかわらず、各国公私立大学関係においては、そういう対策の小さい委員会すらも持っておらないということでは、何か文部省がひとり勇み足で進んでおる、こういう感じを強く受けるわけでございます。  先ほども申し上げましたように、この放送大学が成功するかしないかということは、一にかかってやはり国公私立大学の協力にあると私は思います。とりわけ、先ほど飯島参考人からお話がございましたように、カリキュラムの構成の問題、それから一方的な放送を通じての教育でございますから、どうしても人的接触の場はその面接授業しかございません。それが文部省の構想では一応、学習センターの形でそのスクーリングを行うという形でございますが、その学習センター構成する教官はどうしても地元の国公私立大学の教官に頼らざるを得ない。この二つが完璧にそろわない限りにおいては放送大学というものは私は成功はあり得ない、こう思うわけでございます。  先ほども飯島参考人のお話にもございましたとおり、全国をカバーした教育体系の確立、あるいは地域性を配慮する、あるいはその地域の住民の自発性にこたえるものでなければならない。また、石村参考人からもお話がございましたけれども、発想が逆であるというようなお話もございました。そしてまた、地方の文化の向上というものを考えていくならば、放送大学に疑念を持っておるというようなこともございました。そういうような疑念を晴らすためにも、どうしてもカリキュラムの構成というそこに大きなウエートがかけられてこなければならないし、いま参考人の方がお述べになったようなことがその中で生かされてこなければ、ただ一方的な何か味気ない教育に終わってしまうんではないか、私はこのように考えるわけですが、カリキュラムの構成あるいは学習センターの教官のありよう、こういうものについて各参考人の先生方からちょっと御意見をお伺いしたいと思います。
  61. 飯島宗一

    飯島参考人 御質問の趣旨を正確に承ったかどうか不安がございますけれども放送大学のカリキュラムの内容につきましては、準備調査研究会議で一応のモデルとして三つのコース、それぞれの基本科目あるいは専門科目、総合科目というふうなものを配分をした案ができておるということは御案内のとおりでございます。しかし、これは本来は大学が設立をして、大学自体が自主的に作成をするという筋合いのものでございますから、これはあくまで放送大学というものを構想すべきかどうか、あるいはそれを実現すべきかどうかということを考える際の放送大学計画段階での教育内容をやや具体的に示すものとして作成されたものでございます。作成はそういう趣旨のものでございますから、当然、放送大学独自で再度検討されて自主的に御作成になる必要があると思いますが、作成の過程自体におきましては、先ほどちょっと申し上げましたように、各国公私立大学の多くの教官の方々にそれぞれの専門領域別に御協力をいただきまして、かなり長いことかかっていろいろな御討論をちょうだいしてできたものでございますから、重要な参考資料にはなり得るかというふうに思っております。  それから第二に、放送大学設立の暁のカリキュラムの作成の手順というのは、これはあくまで大学自体の判断に属することでございますけれども、私どもが個人的に多少こういうあり方もあるのではないかというふうに思いますのは、やはりこれは放送大学の教官会議が十分にカリキュラムの内容について検討いたしまして、そしてその年度のカリキュラム構成というものを決定をし、それをどういう方向で手当てをして実際のテキスト、番組につくっていくかという作業を展開するということになると思います。ただし、先ほど申しましたように、放送大学が順次カバーすべき領域というのは非常に広いわけでございますし、それから国公私立大学間の御協力ということがありますから、したがって、国公私立大学から客員教授あるいは併任教授あるいは非常勤講師というふうな形で、そのカリキュラム作成段階に多くの方々に御参画をいただくということはあり得るだろうと思います。また、そのカリキュラムの内容、結果等について学生社会一般あるいは大学関係者等からいろいろなエコーを受けて、そしてそれを今後の方針のために反映していくということも、放送大学が自主的に行うべき業務であろうと思います。ただ、各大学放送大学のカリキュラムについて議論をするということは直接にはあり得ないことであろう。これはやはり独立の一つ大学でありますから、独立の大学として十分に責任を持ってカリキュラムをつくる。しかし、それについて広範な意見を各大学からちょうだいをし、批判もちょうだいをし、あるいは協力もお願いをするという形でいくことになるであろう。  ただ、そういう関係で現在までの段階で私どもが若干承知をしておりますのは、一つは、通信教育との関係でございます。通信教育をなさっている大学で、ある部分のものについて電波を利用する、あるいは放送大学のカリキュラムを利用するという可能性はございます。そういう段階で特別な話し合いというのは今後あり得る可能性はございます。それからもう一つは、短期大学とかあるいは夜間部等を持っておられる大学で^放送大学とそれらのカリキュラムとがお互いに相補的な関係になって両者にプラスをもたらすということも、前々からいろいろな申し出もあり議論もありますので、そういう関係で、また特別の関係の作成過程というものを持つということもあるだろうと思いますが、いずれにいたしましても基本的には、できるべき放送大学が多くの意見を結集して、しかも自己の認められた大学としての責任でカリキュラムを決定していくというのが本筋ではないかというように思っております。
  62. 伏屋修治

    ○伏屋委員 各参考人の先生方の御意見をお伺いしたかったわけでございますが、次へ進めさしていただきたいと思います。  いま飯島参考人の方から、カリキュラムの構成に当たっては、やはり各国公私立大学内の話し合いはできなくとも、各国公私立大学から専任の方が出てそういうカリキュラム構成に当たるだろう、こういう手順になるだろうというお話がございましたけれども、そのカリキュラム構成に当たられる方がどの方になるかわかりませんが、やはり各大学における教官の方はそれぞれ専門分野の研究を持っておられると思います。そういう方々がこの放送大学のカリキュラム構成メンバーになることによって大きな負担になるのではないか。それが負担増につながるとするならば、やはりそのカリキュラム構成員メンバーを辞退されるということも起こってくるのではないか。こうなってきたときに私は非常に懸念を持つわけでございますが、その辺の事情は、現場の大学の先生方としまして、塩野先生がひょっとそのカリキュラムの構成メンバーとして文部省から委嘱を受けた場合にどういう立場をとられるか、ちょっとお尋ねしたいと思います。
  63. 塩野宏

    塩野参考人 文部省からではなくして恐らく大学からだと思いますが、仮定の御質問でございますので何とも申し上げられません。そのときの私の本務がどの程度授業あるいは演習等が詰まっているかということとにらみ合わせの問題でございます。ただ、そういうようなことが大学からお話がありましたときに、いかなる場合においてもお断りするということもまた言えないと思います。
  64. 伏屋修治

    ○伏屋委員 仮定の話で申しわけございませんが、それが教官の全くの負担増になるとお考えになるかどうかということをお尋ねしたいわけでございます。
  65. 塩野宏

    塩野参考人 これは各教官によって違いますけれども、非常勤講師ということで各大学でそれぞれ相互に助けていることがございます。その意味におきまして、放送大学が仮に設立された場合に要請がありましたらば、恐らくほかの大学に非常勤講師に行くということと同程度とは申しませんが、それよりもどの程度負担があるだろうかということからそれぞれに御判断があろうかと思います。
  66. 伏屋修治

    ○伏屋委員 いまのような問題は、先ほど申し上げましたように、カリキュラムの構成に当たりましては、やはり住民の自主性、自発的な学習意欲を満たすものでなければならないし、地方性というものを生かさなければならないし、また、全国をカバーしたそういう教育体系をつくらなければならぬということになりますと、カリキュラム構成に当たられる方々は非常な負担になるのではないか、私はこのように懸念をいたしましたものでいまお尋ねをしたわけでございます。  それともう一方、たとえばカリキュラムが仮にできたといたしまして、ある大学教授の学説が一つ教授内容として流される、そういうことになってまいりますと、一方的な放送を通じての指導でございますので、ややもすれば流されたその講義、その学説というものが一つの決まった学説としてとらえられる可能性が強いわけでございます。その辺のお考えをちょっとお尋ねしたいと思います。  とりわけ飯島参考人にお尋ねしたいのは、大学間の格差ももちろんでございますけれども、聞くところによりますと、大学教授間の派閥というものが非常に強いということも私は聞いております。特に医学系におきましては、京大系、東大系というような大きなグループに分かれておるとも聞いております。そういうような事柄も、一つの学説が流されたときにそれが定説になるような懸念があるというときに、それをどう排除するような努力をしていったらいいのかというようなことを、飯島先生にお尋ねしたいと思います。
  67. 飯島宗一

    飯島参考人 大変むずかしい御質問なんですが、先ほど私ちょっと申し上げましたように、現在の大学でも、いわば学部レベルでの教育というのは、かつて古典的にヨーロッパで考えられた大学レベルというものは、各教授が開講をする、そしてそれには多彩なそれぞれの学説の展開があって、学生はそれをいわば任意に自分でカリキュラムをつくって勉強をしていくというのが、いわばドイツ型の古典的な大学システムでございます。それから、これも十分御案内のことを申し上げて恐縮ですが、イギリスのオックスフォードとかケンブリッジとかいう大学では、むしろ個人的なチュートリアルな指導というのが大学教育の主体を占めておりまして、そうしてもちろん講義があり、演習がありますけれども、カレッジでのチューターによるところの個人的なカリキュラムというものが重要な位置を占めておるというので、大学教授方法、カリキュラムというものについては、学問の進歩あるいはそのときの状態等で種々いろいろな変動がございます。それで、最近の大学レベルの問題として一番各大学が意を用いるようになっておりますのは、やはり個人個人がただ学生にある時間を受け持って話をするだけではなくて、そのジャンルの学問の状態がどうなっておって、そこにどういう学説があって、問題点がどうであり、いままでの蓄積がどうであるかというようにして、一つシステムをこしらえて学生に与えるというのがカリキュラムの思想でございます。したがって、カリキュラムを大学の教官団が放送大学の場合につくるという以上は、その過程で、いまお話しになりましたようなことを白紙の学生に対してどういうふうに取捨して教えるべきかということも当然、大学教授教育責任の問題として議論をされ、そしてそれがカリキュラムの中に取捨されていくという形が基本でございますから、私はそれができるということは、放送大学のみならず今後の大学の当然の属性であって、それができないようであれば、極端に言えば大学教育の名に値しなくなっていくかもしれないというふうに思います。  しかし、ただそれだけでは不十分であって、やはりパーソナルな意見あるいはパーソナルな学説の発表ということも当然あっていいはずでございます。しかし、たとえばそれが放送というメディアを全部そこに使う必要はないわけでありまして、テキストの中で表現されてもいいことでありましょうし、あるいはチュートリアルの場面で表現されてもいい。あるいは放送を使う場合でも、今度は放送規定に従ってある学説の紹介をある方がおやりになれば、それと同時に、それに対して違う考え方の発表があるということをカリキュラム化していくということが当然のことだろうというふうに思います。  それから、大学教授の実態が、おまえはそう言うけれども、いろいろ派閥があって、特に医者の方はひどいだろうというふうにおっしゃいますが、私も医学に長くおりますが、別に派閥のおかげで学説が、がんのでき方が違うということはないと私は思います。やはり真理は一本でございまして、そのためにみんなが協力していく。先ほどお話を伺いますと、各政党も満場一致で御関係になっていただくというくらいのことですから、とても医者や学者の派閥などというようなちゃちなものは私はこの際問題にならないし、またそれを打破していく方向にこそ放送大学あり方があると思いますが、現実にはいろいろな努力が要るだろうと思います。
  68. 伏屋修治

    ○伏屋委員 それから、学習センターでいわゆるスクーリングの形で指導を担当される国公私立大学の教官の方が現実に担当されなければ、この放送大学というものの運営も成り立ちませんので、そういう場合に、いまのことでないのですけれども、カリキュラムを構成した。それが一方的に流されてくる。国公私立大学の教官の方はそれに関知しない専門分野を持ってやっておった。ただ上からあてがわれたようなそういう放送大学内容を、具体的にスクーリングで質疑応答のときにどういうふうにこたえていくのか、この辺もちょっと疑問を持つわけでございますが、その辺を飯島先生石村先生にお尋ねしたいと思います。
  69. 飯島宗一

    飯島参考人 これも私の全くの個人的な見解になりますから、そのつもりでお聞き取りいただきたいわけでございますけれどもイギリスオープンユニバーシティーがいわゆるスタディーセンターというものをつくりましたとぎのチューターと申しますのは、大体においてその地方の、日本で申しますと教育委員会関係のある指導能力のある先生方、あるいは高等学校あるいは大学関係のある先生方というような方々をチューターということにお願いをして、そして学生の相談に乗って補助的な相手をしてやるという形であった。それで、これは当時もうオープンユニバーシティーの問題になっておりまして、だんだんに学年が進んで専門が高度化していくと、そのチューターにどういう人を得るかということは一つの問題であるということを言っておりました。  それから御指摘のように、大学教育でありますから、指導要領というふうなものがあって、何か一つのことを受け持って、現場の教師はただその線に沿って指導すればいいというだけのものではございませんで、そこにやはり学習センターという場面で、特に教育に当たる人の自発性と申しますか、そういうものがある程度許容される必要もありますし、場合によれば奨励されなければならないということがございますので、放送大学においてある科目について放送メディアあるいはテキストのメディアで出されるものは、かなり普遍性のある基本的なデータがそれによって出される。放送時間と申しましても、実は一日は時間が限られておるわけでございます。それから、科目がどんどんふえていきますと、それをあるメディアの中に押し込むということには限度があります。それから、放送の時間帯というものがございまして、いつでもやればいいというわけではないということになりますと、放送大学内容が豊富になりあるいは高度化していくにつれて、確かに放送メディアというものは重要なものであるけれども、それ以外の方法というものの役割りが大きくなっていく。私は個人的な意見としては、表現にはいろいろ問題があると思いますけれども、したがって、放送大学でつくられてカリキュラムが出されるものは、いわばテキストブックみたいなものでありまして、それを基準にしてそれぞれの地方でカリキュラムがつけ加えられてもいいし、あるいはそのカリキュラムについての解説が、先ほどもお話のある学生との対話、エコーの中で、かなりな教育的な自発性というものが介入される形で学習センターでの教育というものが展開する方がいい、またそうでなければ、これはいい意味でも悪い意味でも、日本じゅう放送大学勉強する人のトーンないしは内容が単調に一本化してしまうというのは、私、先ほどから申し上げているように、これはいろいろ問題がございます。教育における契機、国全体の教育というのは、やはりいろいろバラエティーというか、いろいろなニュアンスがあっていいわけでございますから、私はその意味では、先ほども申し上げましたように、学習センターでの教育というもののウエートはかなり大きいし、その場面での教員自発性というものもかなり大幅に活用できるような形で、今後の組織展開をしなければならないというふうに思っております。
  70. 石村善治

    石村参考人 私は、カリキュラムの問題についてはもう全くの素人で、お答えになるような話ができないわけですが、印象的に、もし学習センターなどに私などが呼ばれるというか、学習センター教育をしてみないかというふうに言われた場合にどういう反応をするだろうか。それは一つは、流されてきた番組について、果たしてその番組を使って独自の教育ができるかどうかという判断を恐らくまず最初にするだろう。しかし、それは教科書を見ただけでは、放送ですから見てみないとわからない。やはり前もって見せていただきたいということになってくるのであります。  もしそういう形で私が意欲を持って教育に当たりたいというふうな番組であったとした場合に、もう一度教科書をおさらいをするというようなことはまさかやらないだろうと思うのです。教科書でもって自分の問題としているところをもう一遍学生に投げかけてみる、そしてその中でいろいろな質疑応答をするというやり方になっていくのではないか。そうしますと、恐らく人数としては大学のゼミナールと同じようなせいぜい二十人程度でないとやってみようという気は、学習センターに私が呼ばれたときには意欲が起こらないのではないか。そうしますと、そういう二十人程度の学習センターに私くらいの年配で、私くらいの何か学内で役職を持っているような者が果たしてそこに参加できるかどうか、かなり疑問があると思います。  そうすると、これはだんだん架空の問題になっていくわけですけれども、現在大学の中で一つ問題になっておるのにオーバードクターの問題がありますが、恐らくオーバードクターの人たちがそういう教育に携わることになるのではないかという感じがします。そうすると、学習センターの中の教育水準というのは、普通の大学教育水準、少なくとも国立大学教育水準から言うと、恐らくちょっと懸念があるのじゃないかという危惧を持たざるを得ないのです。
  71. 伏屋修治

    ○伏屋委員 いま石村参考人からお話がございましたように、先ほど木島委員からもお話がございましたけれども、私も放送大学というイメージがぴったりと浮かんでこないわけでございまして、文部省の「放送大学について」の「設立の目的」等にいろいろ挙がっておりますけれども、それを見ましても、高等教育機関としての性格づけなのか生涯教育としての性格づけなのか。いま学問というのは日々進歩するものであるにもかかわらず、飯島参考人がおっしゃったように、自然科学、特に医学とか実験的な段階のものに対しては弱い。そういうことになってまいりますと、勢い教養的な面が表に出てまいります。教養学士という学士付与という形になって落ちついておるようでございますけれども、そうなってくると、性格が非常にあいまいであるということと、それからNHKでやっておるところの市民講座というものに非常に似通ってその差がなくなってくるのではないか。そうなってきたときに、いま石村参考人がおっしゃったように、学習センターで担当される教官がどれだけ意欲を持たれて御自分の専門をその中に生かし切っていかれるのか、ここら辺も私、非常に疑念を持つわけでございますが、塩野参考人からもその辺の御意見をちょっとお伺いしたいと思います。
  72. 塩野宏

    塩野参考人 スクーリングの方法は恐らく科目によってもかなり違ってくると思います。わりあい基本的な知識を教授しなければならないという科目もありましょうし、あるいは場合によりましては、放送あるいは教科書によって得た知識を前提として、その上でさらにもう一つ何かをつけ加えるということが必要となる場合もあろうかと思います。したがいまして、一般論としては言えないことと思いますが、仮に法律学の分野でまいりますと、昭和五十年十二月十七日の基本計画に関する報告に挙げられておりますようなたとえば「労働基本権と労働法」といったものあるいは「経済活動と法」ということになりますと、これはいわば法律学の中での学際的なものに近いところがございます。これをこなすのは私は相当困難なといいますか、かなり高度の能力がなければできないのではないかと考えます。場合によりましては放送するよりもスクーリングする方がむずかしい、放送あるいはテキストブックで得た知識をスクーリングでさらに深めるというのはよけいむずかしいのじゃないかという感じも実際のところいたします。そういう点からいたしますと、こういった分野について人を一体得られるか、あるいは意欲を持ってそこに参加していただけるような方が一体おられるかという点は、私は決して楽観的には考えておりません。自分の身に及んだ場合でもかなり慎重に考慮して、場合によってはお断りをするということだってあり得ると思います。ですから私は、両手を挙げて大丈夫だなんということはとうてい言えないと思います。
  73. 伏屋修治

    ○伏屋委員 いまお話がありましたとおりで、しかもそこにそのほかの大学にないいわゆる任期制ということが取り入れられてまいりますと、そうでなくても大学の先生方はそれぞれの専門分野に非常にお詳しい方でございますので、学際的な非常に広く浅くというような学問的な困難さというものにぶつかったときに非常に壁ができてくるのではないか。そこに任期制というものが出てくるということで、何となくその身分の不安定、それから、研究が五年ということではできないというような問題もいろいろあると思います。何となく文部省大学局は新鮮さをそこに求めておられるようでございますけれども、新鮮さでなくて、五年間だけは何とかというような後退的な姿勢で臨まれる人もなきにしもあらず、こういうような懸念もするわけでございます。そういう面からも任期制というのは、先ほど木島委員からもお話がございましたけれども、そういう任期制というものがこういう大学になじむのかなじまないのかという問題ですね、その辺について飯島参考人から御意見をお伺いしたいと思います。
  74. 飯島宗一

    飯島参考人 大学教官の任期制一般の問題として、直ちになじまないということは私は言えないと思います。これは実は任期制と申しましても、たとえば外国の大学などでも、任期を付与されておる職階とそれから任期を付与されていない職階というものがいろいろな条件で混在をしておるというのが実情でございます。それからもう一つは、任期制という問題がうまく動くためには、一つ大学だけが任期制をとったのではそれはとうていうまく動かないわけで、やはり大学間での教官の交流ということが十分に行われるという必要があります。それから特に自然科学系では、人一人が動けばそれですぐ仕事が始まるというわけではございませんで、どうしてもチームが編成されておりますし、それから研究の場、研究の器具機械というようなものの整備というのがやはり相当の時間をかけて構成をされるわけでありますから、したがって、私がさっきちょっと申しましたように、任期制ということにはそれをうまく活用すればプラスになる面があることは事実でありましょうけれども、ただ機械的にそれを導入するということ自体は意味がないし、それから問題点が多く派生してくるということがあると思います。  私ども理解では、これも評議会の決定事項の中の一つとして数えられておるのでありますから、大学局がどういうふうにお考えになっているかは知りませんけれども、私はやはり現実に即して、放送大学が仮に設立されて、それが日本大学人の環境の中であるいはその業務の中でどういう動き方をするかという段階で必要があり有効であれば、任期制ということを御検討になるのも決して悪いとは申しませんけれども、そのような段階を経て決めるべきものであって、あらかじめ放送大学はすべて五年間の任期を原則とするというふうにすべき事柄ではないと思っております。
  75. 伏屋修治

    ○伏屋委員 学習センターのことに終始いたしますけれども、先ほども塩野参考人からお話がございましたように、学習センター内容をより濃く充実したものにするためには、やはり先ほど飯島参考人から学生の主体的な学習意欲にまつということもお話がございました。そういう面におきまして学生の主体的な意欲とともに、学際的であろうと担当される教官の指導姿勢というものも大きな問題になってくると思います。そこで、学習センターにおける学生自治組織あるいは教官の自治組織というものがはっきりしておってこそ、いまのような内容に実のあるものが生まれてくるのではないか、このように考えるわけでございますけれども、その学生自治組織、教官の自治組織はどのようなありようが望ましいのか、架空の話でございまして非常にむずかしいと思いますけれども、その辺の御意見をお伺いしたいと思います。
  76. 塩野宏

    塩野参考人 自治組織というのは私は基本的には、そこにいる集団が自分で決めることだというふうに考えます。したがいまして、私の個人的な意見ということであれば別でございますけれども、たとえば国会あるいは特に文部省あたりで、学習センター自治組織はこうあるべきだと言うのはかえっておかしいことではないかというふうに考えます。
  77. 伏屋修治

    ○伏屋委員 私がそのことをあえてお尋ねいたしましたのは、放送大学というのはいままでかつてない大学であるがゆえに、いわゆる既存の大学においてはキャンパスがあり、その中で学生自治活動もでき教官の自治活動もでき、そして学問の自由というものを守ってきた。けれども放送大学においては、キャンパスなき大学であるがゆえに、自由活動というものが阻害されてくる。それがひとり放送大学だけに終わればいいけれども、それが学校教育法に示された正規大学であるということであると、波及的に他大学に及ぼす影響というものもそこからおのずから派生してくるのではないか、そういう懸念を持ってお尋ねをいたしたわけでございます。  塩野参考人がおっしゃられるように、こちらから規制して、組織はこうあるべきだというほどの筋のものではないということは十分承知しておりますけれども、他の大学にない自治組織というものを放送大学の中でどう考えていかなければならないのか、この辺が大きな問題ではないかと思います。ある学者によると、自治抜き大学、これは大学の鬼子であるというような説を発表しておられる先生もおられるようでございますので、その辺の御見解をちょっとお尋ねしたいと思います。石村参考人にお願いします。
  78. 石村善治

    石村参考人 私が先ほど申し上げましたものの中に、大学の民主的参加という話をしたわけでございますが、その基本的な中身として、教授並びに学生の参加といったようなことは当然ではないかと思います。現にオープンユニバーシティーの中の組織を見ますと、かなりはっきりと学生権限というようなものを明記しております。それから、一定の機関の中に代表者を送り込むことができる、そういうようなシステムをとっている。したがって、そういったイギリスの例を引くまでもなく、日本大学においても、学生組織といったようなものが一つの有力な、学問の自由とかあるいは学園の自治といったようなものを守ることを期待されておるものだと考えております。私は、そういう組織が当然考えられなくてはいけないのではないかというふうに思っております。
  79. 伏屋修治

    ○伏屋委員 放送大学そのもの自治活動というものを積極的にするためには、放送大学全体にかかる、いま石村参考人がおっしゃったような民主的な構成と民主的な運営というものが先行しない限りは、そこに健全な自治活動が生まれてこない、このように考えるわけでございます。特殊法人は初めての試みであるということから種々指摘をされたわけでございますが、それぞれの参考人方々から、その運用に一段のあるいは特段の配慮をする必要があるとどなたもおっしゃったわけでございますが、その面で、飯島参考人が最後に結ばれました特段の留意をするということが、具体的にはどのような面で留意をしていくのか、そこら辺をお聞きしたいと思います。
  80. 飯島宗一

    飯島参考人 ちょっと御質問の趣旨がよくわかりませんが、私は個人の意見として、これは大学自体運営に当たって、その設立の趣旨及び責任を感じて、まさに大学自治を行使していくべきであろうということを申し上げたわけでございます。私は現在、別に放送大学責任者ではございませんので、私がどうこうと言うことはないと思います。  それで、これは繰り返しになりますけれども理事会組織にしてもあるいは放送大学評議会教授会等の組織にしても、確かに自治を守るということは大事であると私は思いますけれども、問題は、一体何を守るのかということが問題なんです。大学自治を守るというのは、そこに学問があるからそれを守らなければならない場合が起こってくるわけでありまして、私はそれも非常に重要な論点だと思いますけれども、むしろ問題は、いまわれわれが放送大学という形でわれわれの持っている知的財産あるいは知的な問題をなるべく多くの人に一番有効な方法で正しく伝えてあげるための組織としてどうあらねばならないかということが管理運営組織の基本であって、その過程の中に先ほどから御心配になっておるような問題があるとすれば、それに対して十分な配慮をすると同時に、その枠の中で運営する理事会大学というものは、社会的な市民の関心の中でその責任を十分に尽くすだけの配慮をすべきである、私はいまの段階では第三者としてそういう希望を述べるにとどまるわけでございます。
  81. 伏屋修治

    ○伏屋委員 最後に、この放送大学が軌道に乗るような形になってきたときに、既存の大学が行っておられるような通信教育あるいは夜間制の大学、これに及ぼす影響の度合いというようなことについて、お考えがございましたらお聞きしたいと思います。飯島参考人にお願いします。
  82. 飯島宗一

    飯島参考人 実は通信制大学からは、これももう私が申し上げるまでもなくいろいろ御案内だと思いますけれども、この放送大学の話が発足をいたしました直後からいろいろな意味で大変に切実な関心が寄せられまして、それで私どもも調査研究会議の過程の中で、通信制大学運営に当たっておられる方々と数次にわたっていろいろお話し合いをしてきたわけでございます。また、現在まで放送大学計画等にも、通信教育関係方々が積極的に御参加になって、いろいろな御注意をちょうだいしてきたと思います。したがいまして、ある意味で一番深い影響を受ける可能性があるのは、通信制大学であるかもしれないということはございます。  ただ、現在のところは、通信制大学の扱っております学部学科の大部分とそれから放送大学で現在企画しておりますコースというものとは、直接的に競合するというものばかりではございません。むしろこういうお話し合いを通じて、両方相補的に力になり合い、あるいは通信制に在学をしておる学生諸君も一部は放送大学の講義でカバーをし、あるいは放送大学の側も通信制でやっておられることをお互いに認め合うという形での協力関係をぜひつくっていくと同時に、たとえば先ほどからお話しになっておる学習センターの問題は、現在通信制大学では一年のうち一カ月足らずのいわゆるスクーリングという形で行われているわけであります。このスクーリングというものにも非常に意味はありますけれども、しかし放送大学はまた学習センターという形で、そのスクーリングを別の形で日常化していくという努力をするといたしますと、たとえばそれも通信制大学の御協力をいただいて、通信制大学学生諸君もそのスクーリングのある部分については共同で行うという可能性もあるのではないか。通信制大学とはお互いにいろいろな意味での密接な協力関係で、要するに、全日制の大学に通う機会を持っておられない学生諸君に対して、両者は共同的な立場で協力をするというのが本筋であろうというふうに思っております。  それからもう一つは、先ほどもちょっと申し上げましたけれども、短期大学という大学がございまして、これも本来は四年制のところで勉強をしたいのだけれども二年の課程で済んでいるというところでは、すでに準備段階でも、私などの個人のレベルにもいろいろ御照会がございましたけれども、たとえば短期大学が教養課程の一部を放送大学学習ということでカバーをするという可能性があるとすれば、実質二年間でありますけれども、その中にもう少しそれぞれの短期大学の特徴に応じた、より専門的あるいはより特異的、特徴的な教育を行う可能性が短期大学に出てくるかもしれないというお話もございました。私は、それも放送大学と他の大学との関係論の中では非常に大事なことであって、積極的に考慮していくべきであろうというふうに思います。  それから、他の昼間の大学については、これはお互いにいろいろな影響があると思いますけれども、私はやはり放送大学教育内容というものは他の大学の場合と違って、これはその大部分と申しますか骨組みの部分がラジオないしはテレビあるいはテキストを使って天下にオープンになるわけでありますから、その意味では、閉鎖的なメディウムの中でいままで大学教育というものが行われていましたけれども、こういうふうに一部の大学教育を思い切ってオープンにしてみることで、大学関係者がこれを素材に大学教育あり方というものについていろいろ議論をし、そのレベルで放送大学も、大学全体の教育、研究の中への一つの役割りを果たしていくという可能性はあるのではないかというふうに思っております。
  83. 伏屋修治

    ○伏屋委員 どうもありがとうございました。  終わります。
  84. 坂本三十次

  85. 石田幸四郎

    ○石田(幸)委員 わずかな時間しか残っておりませんので、一つ二つだけ御質問をいたしたい、こう思うわけでございます。  まず、飯島先生にお伺いをするわけでございますが、この放送大学が実際に実施をされた場合にいろいろな影響が出てくると思うのでございますが、と申しますのは、四十四年に大学紛争が起きましたときに、わが党としましては、各大学の単位の互換制というものをかなり強く主張いたしたわけでございます。これは先生御存じのとおり、これ自体いろいろな議論があるにいたしましても、今日の大学状況を見て、そのレベルを統一化するためにも必要であろうし、また学習者の立場からいきましても、ぜひあの先生の講義を聞きたいというような学生も相当おるわけでございますので、そういう意味も含めて単位の互換制度を主張いたしたのでございますが、いま先生が、この大学が実際に実施された場合にどういうような影響、いい面、悪い面もちろんあると思いますが、お考えになっているのか、この点を一点伺いたいわけでございます。  それから、塩野先生に一つお伺いをいたしたいのでございますが、先ほど国民学習権と学問の自由とのバランスの問題、御意見があったそうでございますが、この放送大学によります教育の実施というものは、大学に入ったという資格を取得しただけではなくして、大ぜいの人に影響を与えていくわけでございます。そういう意味におきまして、大学の自主性というものもございましょうし、学問の自由という立場から、講義をなさる先生の学問的な見識の問題もございましょうし、いろいろむずかしいわけでございますが、現在の大学とはかなり違った、公共性といいますか広範囲な影響力を持つわけでございますので、大学のいわゆる運営審議会ですか、それだけのもので果たしていいのかしらと、意見具申の機会を他に設ける必要があるのではないかなという感じもいたしておるわけでございます。と申しますのは、講義を担当なさる先生の研究の自由、学問の自由があるわけでございますから、その意見具申を聞く聞かないはもう当然、その担当の先生の御判断によるわけでございますけれども、恐らく他の大学と違って、その放送なら放送内容に対する賛否というものがかなり広範囲にこれは上がってくるのではないかというふうに思われますので、そこら辺の意見を吸い上げる方法一つ必要ではないかなというような考えを持つわけでございますが、この点についてお伺いをいたしたいわけでございます。  それではまず、飯島先生からお願いいたします。
  86. 飯島宗一

    飯島参考人 いまお話しのように、大学の中での単位互換制度というのは、大変好ましいことでもあり重要なことでございまして、国立大学関係でもそのことは可能になり、各大学でそれぞれ単位互換に関する規定を制定してそういう方向に動きつつあるということは事実でございます。ただ、全体としてながめますと、まだ日本大学の場合には、規定上はそういうことができ上がりましたけれども、いろんな意味の隘路があって、必ずしも期待されたほど大きな互換制の長所というものが発揮されていないきらいはあると思いますけれども、方向としては今後非常に重要なことでありますし、それから、各大学との連帯の中に放送大学が入るというお話をたびたび申し上げておりますが、その連帯と申しますのは、単に教官の側だけの問題ではなくて、学生諸君の学習の側での交換制というものが漸次発達をしてくるということがあれば、これは放送大学にとってもまた各大学にとっても大変好ましいことであると思います。  ただしかし、その基礎はやはり何といっても各大学の側が、放送大学のたとえばこういう語学のコースなら語学のコースを受けたということを認めてやろうというふうに大学自体が決めてくださるということが問題でありますから、そういたしますと、やはり放送大学の側が、先ほどレベル云々というお話もいろいろありますけれども、これは単位互換の対象としてこのコースは認められるという内容をそのコースが持っておるということが当然の前提になることでありますから、その努力をしなければなりません。それからまた、放送大学の側の認定というものも問題になってまいりますけれども、そういうことも、これは現実の問題として原理的にも実際面にもいろんな問題があると私は思いますけれども、しかし、やはりできるだけ大学間の交流というものの中に学生諸君が位置づけられるような努力を目指していくということは、これは御指摘のように放送大学としては努力をすべきことであろうというふうに存じます。
  87. 塩野宏

    塩野参考人 御質問の要点は、放送教育との関係というふうに考えてもよろしいかと思います。この点が非常にむずかしい問題があるということは、先ほど来申し上げているとおりでございます。確かにこれは放送大学学生だけでなくて、一般にこれが聞ける、あるいはそういう人のためにも放送するということで放送となるわけでございますね。学生だけに向けて電気通信を送るならば、これは同報通信であって放送ではないわけでございます。その意味で、法律的に具体的に申しますと、放送法四十四条三項の適用がある、それもやむを得ないところであろうというふうに私は申しました。しかし、その実際の適用の場面において、一つは法律論として、放送法四十四条三項が法規範であるかどうかという点はいろいろ議論がございます。そういった細かな法律論はさておくといたしましても、これはやはり大学関係者にも守ってほしいということであることは事実だろうと思います。その際、これは大学自治という点から考えますと、大学がまさに自律的な判断でもってその枠を守っていくということであろうかと思います。しかし、それだけでは恐らく足りないのではないかというのが御質問の趣旨だろうと思います。  この点について、まず運営審議会をお挙げになりましたけれども運営審議会がこういった教育の問題プロパーについて一体発言権があるのかどうか、これは一つ問題があるところだろうと思います。と申しますのは、運営審議会は、理事長の諮問に応じ、重要事項について審議をするということでもございまして、これはその限りにおいては、理事長権限の範囲内に限られると私は思うわけでございます。そういたしますと、理事長が果たして大学に対して、このカリキュラムはおかしいということが言えるのかどうか、あるいはこの個別の番組について放送法の範囲を越えているというようなことが言えるのかどうかという点が実は問題でございまして、私は、個別の番組ということは要するに教育ですね、これについては理事長は口を差しはさむことはできないのではないかというふうに考えます。そういたしますと、ますますもって何もチェックの手段がないのではないかということになろうかと思いますけれども、それは制度的に何か審議会みたいなものをつくって、そこでチェックをするというのはいかがなものかというふうに感じます。  大学の教官は、外部からの批判についてもそれを謙虚に受け入れ、それでみずからの非があればそれを正すということはもちろんでございますけれども、それはやはりみずからの判断においてなすべきであって、ある制度をつくって、その審議会なり何なりの意見があるからこう考えるというものではないと思います。しかし、私も手放しでいいと言っているわけではございませんで、もちろん放送大学による放送がありますと、いろいろなところからの御意見が寄せられると思います。むしろそういう意見を積極的に吸い上げる、意見を聞くという場を設けることは必要であろうと思います。それはある機関の代表の意見ではなくして、国民の声を聞くという、そういう組織をつくることが必要であって、それは大学に置いた方がいいのか、あるいはその事務が大変だから学園の方に置いた方がいいのかということは別の問題でございますけれども、たとえばNHKの視聴者センターのような形で、電話等で積極的に御意見を聞くというような手だてはとってしかるべきだというふうに考えます。
  88. 石田幸四郎

    ○石田(幸)委員 ありがとうございました。
  89. 坂本三十次

  90. 山原健二郎

    ○山原委員 どうも遅くまで御苦労さまです。大変勉強させていただいております。  最初に、四名の参考人の方たちが申されましたことを要約してみますと、この放送大学における国家統制の排除の問題について、当然ながら非常に危惧をされておると思います。私も、この法案のままではこれに対する歯どめはないと思っておりますが、では、仮に法案を修正するとすれば、どの点をどのように修正すればいいかという点についてお伺いしたいのです、非常に端的な質問でありますけれども。  それで、いままで述べられました点で、時間の関係でちょっと要約をしてみますと、飯島先生の場合はちょっと後でお伺いしたいと思いますが、石村先生の場合は、この法案文部大臣並びに理事長権限の強さを指摘されまして、たとえば十三条の解任の問題ですが、ここは改めるべき点だと指摘をされたと思います。それから、学習センターについては、法の定めが乏しいので法定する必要があると述べられたと思います。さらに、これは法定ではありませんが、学問の自由の保障の問題についても触れられたと思います。  それから、塩野先生の場合は、理事会理事長の独任制、ピラミッド型ではなくて、これを法律上明確にして、いわば合議制にすべきではないかという御趣旨ではなかったかと思いますが、その点が述べられました。それから、文部大臣任命権につきましての手続の問題については配慮すべきではないかというふうにおっしゃったと思います。それからもう一つは、運営審議会のことにつきまして、構成メンバーあるいは推薦権の問題については法律で明記すべきじゃないか、こういうふうにおっしゃったと思うのです。さらに、学園と大学の見解の相違が出ました場合に、法文上の明文化はむずかしいけれども、なし得る方法が講ぜられる必要があるのじゃないか、こういうふうにおっしゃったと思うのです。  この点、私の間違いであるかどうか、最初に石村先生と塩野先生から端的にお答えいただきたいのです。
  91. 石村善治

    石村参考人 ただいま御指摘をいただきました点について私は、修正なりあるいは望ましくないのではないかというような意見を申し上げました。十三条の「その他役員たるに適しないと認めるときは、」というのは非常に漠然とした規定であるわけで、これはいかようにでも運用可能な規定ではないかというふうに思うわけでございます。  それから、学習センターについて法定をすべきであるというふうに考えておりますのは、放送大学の基本的な考え方としては、やはり直接的な対話の教育といいますか、あるいは相互の切瑳琢磨といいますか、そういったものが中心であるべきだということで、放送大学放送大学たるゆえんというのはまさにそういう学習センターにあるのではないかということで、それを抜きにしてはこれは普通の大学と全く変わらないのではないかという点が一つであります。それからもう一つは、現在の教育制度全体から見て、学習センターの意義というのは、教育の地方分権といいますか地方分化といいますか、そういったものの尊重を意味しておるものであって、私は教育制度の現在のあり方として、もっと地域の文化あるいは地域教育といったようなものに力を注ぐべきであるというふうに思います。そういう意味で、放送大学というようなものが発足するとするならば、そういう地域に密着したことを考えなくてはいけないのではないかということで、学習センターはぜひとも法定されるべきではないかというふうに思っておるわけです。  それからなお、申し上げたかと思うのですが、教授会規定がこの中にないわけで、それは学校教育法等々で当然だというふうな御意見があるようでございます。私は、やはり大学の基本的な機関として教授会といったようなものが重要な役割りを果たすことは言うまでもないことですし、それから、これは五十年の基本計画に関する報告の中には、たとえばこれの二十一ページのところには、「放送大学の行う教育について第三者に対して責任を負うことができる者は、形式的には……(山原委員教授会のことは後で伺います」と呼ぶ)そういう意味で、教授会といったようなものも重要なものだということを指摘したわけです。
  92. 塩野宏

    塩野参考人 いまお挙げになった点に一点だけつけ加えさせていただきますと、理事メンバー大学の教官を、学長だけでなくて、もう少し増員した方がいいのではないかということを申し上げたつもりでございます。  それから、理事会の点について二つだけ補足いたしますと、理事会を置くべきだ、放送大学教育機関設置する法人であるということにかんがみてそうあるべきだということは、すでに放送大学(仮称)設置に関する調査研究会議昭和四十九年三月二十二日の放送大学(仮称)の基本構想にも明記されております。それが何ゆえに現在のような形に変わったか。恐らくこれは特殊法人に横並びしたと思いますけれども特殊法人といってもいろいろなものがあるということを御考慮いただきたいと思います。  それからもう一つは、かといいまして、理事会がすべてのことについて意思決定すべきだというふうに私は考えてはおりません。場合によってはピラミッド的な構成をとった方がいい事項もございますので、その点は別に考慮する必要があろうかと思います。
  93. 山原健二郎

    ○山原委員 飯島先生の御発言の中に、大学自治、研究の可能などについて既存の大学の持つすべての大学の機能を保障すべきであるというお話がありましたが、これは先ほどの一連の話と一致した点だと思いますけれども、この点が私どもどうしてもこの法案を見る限りにおきましては危惧があります。先ほどからの委員の質問の中にもそれが出てきたのではないかと思います。この点、大学自治あるいは研究の可能などの既存の大学の持つすべての機能を保障するということが、この法律案から見まして保障されるかどうかという点ですが、簡単に伺いたいのです
  94. 飯島宗一

    飯島参考人 私は実は、法律関係のことに対しては全くの門外漢でありますから、この法律の規定だけでいまの点が確保されるかどうかということについては、専門的には判断することができません。ただ、現在の国立大学にかぶせておりますいろいろな法的規定とそれからここに掲げられているものとの間に、これは読み方にもよりましょうけれども、私どもが読んでみて、ひどくこちらに欠落があるというふうには思えない。問題はむしろ、たとえば教授会自治の問題とかあるいは評議会の機能の問題というのは、先ほどNHKのお話もありましたが、大学が長い時間をかけて半ば慣習法的に確立してきた部分がございまして、私が申し上げたのは、そういう慣習法的に確立されてきたものも含めて、日本におけるあるいは世界的な意味での大学における属性というものは、これが正規大学である以上、必ず付属するべきものであるという基本的な態度に立ってむしろこの条文を読みたいということでございます。  ただ、強いて構成上の問題で、あるいはもう少し考えなければならないということになりますと、やはり学園と大学との関係ということでございまして、これはむしろ理事組織の方が重要なものでありますけれども、やはり教官団及び放送専門家を中心とした大学のアクティビティーというものに対して学園側が強く規制的に働くということがないような配慮があるいは必要かもしれないという印象は持ちますが、その他の点についてはいま申し上げたとおりでございます。
  95. 山原健二郎

    ○山原委員 一応いま石村先生の方からの学習センターの法定の問題に絡んで、地域の住民や文化の自主性の尊重という問題、同じく飯島先生も先ほど出されまして、地域の住民や文化の自主性の尊重の必要性を強調されたと思いますが、この点も、法案を見る限りにおきましては出てきていないと思うのです。たとえば放送法四十四条の一項二号では、NHKに対しては地域向けの放送を義務づけておりまして、その点では私は、学習センターの問題と絡めまして、この点もこの法律としては不十分ではないかという考えを持っておりますけれども、これ以上申し上げません。  それから、その次に塩野先生に、これは私の聞き違いかもしれませんが、一つは、評議会諮問機関ではなくて決定機関と解することができるかというお話があったように思うのです。でも、これは法文上は「学長の諮問に応じ、」となっておりまして、これは明らかに諮問機関とこの評議会は位置づけられているのではなかろうか。これまでの評議会は、暫定規則が諮問機関としてきたわけでございますから、いわば省令で諮問機関としての位置づけをしておったのが、今度は明らかに法律で評議会を誇間機関としておるということについて問題があるのじゃないかというのが第一点です。  それからもう一つは、さきの質問者に対しての答弁の中で、運営審議会理事長諮問機関であるというふうにおっしゃったのですが、私は、この運営審議会はかなり強大な権限を持っておるというふうに見ております。たとえば確かに十八条の三項では「運営審議会は、理事長の諮問に応じ、学園の業務の運営に関する重要事項について審議する。」こうなっておりますが、その次の四項では「運営審議会は、学園の業務の運営につき、理事長に対して意見を述べることができる。」となっておりまして、諮問機関としての審議する権限と同時に、理事長に対して意見を述べることができるという、これはかなり強烈なものではないか。筑波大学の参与以上の力を持つ内容を持っているのではないかという点で、運営審議会構成その他も問題になるわけでございますけれども、そういうふうに私は理解しているのですが、その点、先生の先ほどの説明は、私が過って受け取ったかもしれませんが、どうでしょうか。
  96. 塩野宏

    塩野参考人 まず、評議会権限の問題から私の解釈を申し上げたいと思います。  評議会権限を包括的に定めておりますのが法案第二十三条第四項でございます。ここで「評議会は、学長の諮問に応じ、放送大学運営に関する重要事項について審議し、及びこの法律の規定によりその権限に属させられた事項を行う。」と書いてございます。私の読み方が間違っていれば、また内閣法制局等から御意見を聞いていただきたいと思いますけれども、「学長の諮問に応じ、」とありますのは、「重要事項について審議し、」までにかかると思います。「及びこの法律の規定によりその権限に属させられた事項」というのは、これは一々学長の諮問に応じなくて、この法律に定められた事項について審議をし、または意思決定をするということ、そういうふうに読むべきではないかと思います。その筋からまいりますと、たとえば学長任命に際しての「評議会の議に基づいて行われなければならない。」という第二十一条六項というのは、何も学長から諮問があって意見を申し出るというのでは毛頭ありません。次に「議に基づいて」という言葉、これは法令用語でございますけれども、それは一般には非常に拘束力の強いものであるというふうに解釈をされております。現に教育公務員特例法の書き方でも、大学管理機関の「議に基づき」ということがございます。そこで、大学管理機関というのは、ものによりまして教授会ということもございますが、その場合には、まさに実質的な決定権は教授会にある、これが長年積み重ねられてきた解釈であり、またこれについては法制局等もそういうふうな意見をとっているように私は思います。その限りにおきまして、この法律で、特に人事関係について評議会の議が行われた、そういたしますと、これについては実質的にはそのとおりにその後の人事の手続がなされなければならないというふうに考えます。それは何もここで新しい解釈を打ち出したというのではなくして、すでに同じような文言が使われているところの教育公務員特例法の解釈をそのままここに適用したというだけの話であります。さらにつけ加えますと、教育公務員特例法の場合とそれからこの大学法案の場合とで違った解釈をするという理由を私は見出すことができません。  第二の運営審議会の点でございますが、先ほど諮問機関と申しましたのは、通常言われているという意味で私、申しました。通常の諮問機関にも建議権というのがあるのがむしろ通例でございます。私の関係しております審議会におきましても、諮問に応じ、それからみずから建議をすることができるというふうに書いてあるのがむしろ通例ではないかと私は思います。しかし、これが実際上どういう機能を果たすかということ、これはいまから何とも言えないところでございまして、通常の審議会でも、非常に実質的にその機能を果たしているところと、必ずしも、これも率直に言わしていただければ、余り活躍していない審議会もあるわけでございまして、これはかなり運用の問題になろうかと思います。ただ、私が先ほど申し上げたかったのは、そうは言っても、この場合の運営審議会には審議事項には限定があるのではないかということを申し上げた次第であります。
  97. 山原健二郎

    ○山原委員 いまの問題について、時間の関係で少し省略をしていきたいと思います。  次に、教授会の問題ですけれども、従来、教授会権限についてはずいぶん論議されてきたところでありまして、もちろん入学、退学、卒業、単位の認定とかあるいは人事、学長の選考、概算要求等々従来、既存の大学において確立されている教授会権限から申しますと、今度の場合は、教授会というのはありませんし、当然大学だからあるんでございます、こう言っても、人事権は評議会に移っていますね。そういう点から考えまして、この教授会というものは非常にあいまいなわけです。聞きますと、教授会を置くのですというふうに文部省としては答えるわけですけれども、しかしその教授会というのは、いままでの既存の大学における教授会とは異質のものになっているんじゃないかという、この教授会の変質ということがこの法案の中で非常に心配をしているわけですけれども、これについて簡単に御意見を伺いたいのです。一言ずつ三名の方から……。
  98. 飯島宗一

    飯島参考人 さっき私、申し上げましたように、この法案放送学園のことを規定しておりまして、放送大学自体運営をどうするかあるいはそれの規定をどうするかということは、これで読む限りは、放送大学設置準備をされる段階あるいは放送大学が成立して以降、自治機能としてそれを定めるという余地があって、その場合に理性的な教授会の位置づけをすることがこの法案の枠から不可能であるとは私は読めないということを先ほど申し上げました。  それから第二に、では、具体的にその教授会というものをどこにどう位置づけるかということは、大学の自主性に任されているとは申しますけれども、しかし、それがどういうふうになってもいいというふうには考えない。それはこの大学が、やはり先ほどから申し上げておりますように、既存の大学と基本的な属性において同一のものであるという理解で、当然私どもは、放送大学がそれに準じた部内管理機構というものを整備するということを期待しているわけでございます。  ただ、そう申しましても、いま御質問の中に私も多少感じるところがございますのは、放送大学教員組織あり方の通常の大学との差異というものがあるだろうということは考えられると思います。一つは、これが一学部の大学でありますと、通常は、一学部大学の管理機関というのは恐らく、私よく知りませんけれども評議会が実質的には省略をされて教授会がそれを代行するような形になっておると思いますが、この場合には、一学部であるけれども教授会という表現を使わないで評議会というものを置いている。これは、一学部であるけれども、その中の構成というものがいろいろなコースに分かれているという複合性を持っているということ。それから第二に、教官職だけではなくて当然、放送の番組作成ということにかかわる専門家がスタッフとして加わるのであろうということ。それから第三には、先ほどからいろいろ御議論のように、学習センターに関連のするいろいろな職分の教官ないしはスタッフを抱えるであろうということ。したがってこの場合に、教授会という言葉を使ったときに、どれがどれの範囲を規定するかということが明確でない限り、そこつに漠然たる法案の範囲内で教授会ということに触れることはないのではないか。恐らくこれは教授のグルーピングをどうするか、全教授会というものを開くのか、あるいは各系列別の教授会というものがあるのか、あるいは教授会には放送の専門家は入るのか、あるいは学習センターはどうなるのか、あるいは相当なウエートを占める客員教授はその教授会運営についてどういう役割りを果たすのかというような問題が私はまだ残されていると思うのです。  したがって、先ほど申し上げた二つの原理で私が期待いたしますのは、放送大学学園及び放送大学が、われわれがいま危惧し議論しているところを、現実の放送大学の自己規定の中で最も正しい形で位置づけていただきたい、それを妨げる条項はこの法律には見出されないのではないだろうかということでございます。
  99. 石村善治

    石村参考人 教員組織あるいは教授会についてこの法案の中に触れられるところがないということを私は指摘したわけですが、これは学校教育法の中にあるから当然だという御意見の方もおありと思うのですけれども、やはり放送大学そのもの放送といったものを中心にあるいは放送といったものを手段にしながら教育をやるという意味では、そのスタッフ構成も違うでしょうし、それから中身も違ってきておるという意味で、必ずしも学校教育法の中で定めたからそれでいいんだということにはならないのではないか。特にこの法案の場合に、人事権の問題について非常にあいまいな規定が多いという、そのためにも教授会あるいは教員会議といったようなものがどういう権限を持っておるのかというふうなことを明確にしておく必要があるのではないかというふうに思うわけです。  さらに、これは昭和四十九年の放送大学の基本構想の中には「教員会議」の項目が掲げられておりまして、「教育課程及びコースチームの編成、学生の入退学」云々、こういった「教員及び研究に関する重要事項を審議するため、専任教員から成る教員会議を設ける。」という規定が掲げられております。それからさらに五十年の基本計画の中にも教授会について、「放送大学の行う教育について第三者に対して責任を負うことができる者は、形式的には学長、実質的には教授会以外には考えられない。」という非常に強い位置づけを基本計画の中ではやっておるわけです。法案の中でその辺の立場を明確にしておくのが、全体の放送大学の民主的な運営といったようなものに寄与するのではないかというふうに私は思っております。
  100. 塩野宏

    塩野参考人 法律の解釈論といたしましては、この法案の中に教授会という名前が出てくるかどうかということは関係がないと思います。教授会学校教育法によって設置することとされておりますので、当然これに適用がある、解釈論としてはそういうものとして解釈せざるを得ないということになろうかと思います。したがいまして、問題は、仮にこの放送大学法案教授会の項目を置くといたしますと、その組織あり方学校教育法の場合と違うということと、それからさらに、この法案には大学評議会が置かれるということでございますので、その評議会との関係について何か一項を設けるかというこの二つだろうと思います。  そこで、前者について申しますと、実は学校教育法もかなり広範な書き方をしているわけでございます。大学には教授会を置くのですが、「教授会組織には、助教授その他の職員を加えることができる。」という定めがございます。これはまさに大学自治にゆだねたという趣旨でございまして、私は放送大学大学であるということを力説されるならば、むしろこういった広い形で置いておいた方がいい。そうなれば、何もこの学園法案にあえて規定を置く必要はないという考えを持っております。  ただ、権限の問題をどうするかということが次の問題になります。この点はまさに、評議会という構成をとり、そしてそこに人事権等その他の重要な事項についての審議権を与えたという、これをどう見るかということと密接な関連があります。  この点は、先ほどちょっと申しましたけれども、その実際のあり方として教授会に一々、たとえばある学習センター教授の個別の人事に関して全体教授会を従来の大学のように開かなければならないかということになりますと、かえってその運営の円滑さが損なわれるのではないかというふうに私は考えるわけでございます。しかし、先ほど申しましたように、それでは全部評議会に任せればいいじゃないかということにはとうていならないわけでございます。見方によりますと、現在は研究所がございませんので、一学部一教授会ということになりますので、むしろ評議会というのは教授会の代議員会であるというふうに実質的に見た方がよろしいのではないか。そういたしますと、その代議員を選出する以上は、自主的に各コースなりあるいは職階なりで選挙なり何なりをして、それを評議員として送り込むというやり方がとられるべきであるし、またこの法律の構成の仕方からすればそう解釈すべきではないか、私はそれはちっとも強引な解釈だとは思っておりません。
  101. 山原健二郎

    ○山原委員 この問題で、評議会教授会関係がどうしてもわからないのです。しかも評議会は、学長、副学長、そして六名ないし十二名の教授ということになっておりまして三コース六専攻から出てくるという形で、この選出基盤というのがわからないわけですね。ここらをはっきりさせないと、教授会というもの一その任免もされるわけですから、自治能力のないところで大学自治が守れるはずはありませんし、その基盤のないところに私たちは非常に心配していままで論議してきたところでございまして、当然評議会というものができるならば、基盤はどこに置いてどういうふうに選出されるか、その任務は何か、教授会との関係はどうだということははっきりさせないと、この法案の審議は非常にやりにくくなっているということを私は痛感しております。そういう点で、これ以上意見を申し上げませんが……。  これと関係しまして、私どもは、資料の不足といいますか、この放送大学のイメージがわいてこないのです、どんな大学になるのか。文部大臣は、とにかく発足させてくれ、早くやってくれ、そうすれば後は何とかなる、こういうことで全く、たとえばいまお話のありました教授会の問題についても、基本計画の中にはこういうふうに書かれておる。それから基本計画の中には、学習センターだけでなくて、演習センターもあれば、ビデオセンターもあれば、そういう実習センターもある。それが、文部省がこの法案審議に当たって出してきました資料によれば、そういうものが消えている。いや、それは将来つくるのでございます、こういうふうになってきまして、国会がこの審議をする場合に、一つの新しい大学をつくる、しかもその大学はかなり特殊性を持った大学をつくるということを予想しました場合に、これくらい資料なしに審議させられているのはいま初めてなんです。私ども筑波大学のときにもずいぶん論議をしましたけれども、これは文部省としても相当筑波大学についての構想と理論の構築をして私たちに対応してきましたから、そういう点から考えますと、本当にこれは恐らく大学関係者の間においても、まあ先生方は論文も書かれたりいろいろしておりますけれども、論議そのものが起こっていない状態で、国民的なコンセンサスもないし、この放送大学は全大学の協力が一番必要だということを皆おっしゃっても、協力をしようにも何が出てくるか何ができるかわからぬというようなことで、協力のしようがないじゃないかというような論議も当委員会では出されて、私だけの意見ではありません、そういう意見がございます。そういう点で、本当に先生方が論文を書かれる場合でも、資料不足ということで悩んでおられるのではないかと思いますが、これは質問しておったら長くなりますからおきますけれども、そういう感想を私は持っています。  それから、たとえばこの間の委員会で指摘したのですが、一科目が全部更新をされるのは四年の後なんですね。しかも十六カ月前にこの編集がなされて、そして一学期前にでき上がって、四月なら四月、五月なら五月に私たちの目の前に映像として出てくるのは何と五カ月前のものが出てくるわけです。しかもそれが四年間変わらないわけです。五年目にして初めて変化が出てくるわけで、新しい教育と言ったところで、四年間テープが変わらないわけです。この間も言ったのですが、途中でその教授が亡くなったらどうするのだと言った。幽霊が出てきて教育をしているということになって大変な事態なんですね。大学局長が後ろにおいででありますけれども、そういう点聞きましたら、大変恐縮ですが、それは事実の変化については変えますと言う。変えますと言ったって、テープができて、もう六カ月も前に準備したものが映像されるのをどこでどう変えるか、そんな財政上の余裕とかスタッフなんてないじゃないかという質問もしましたけれども、こういう点も先生方お考えになっておられるでしょうが、特に飯島先生の場合、広島大学放送教育のことの経験を持たれておりますので、その点なんか簡単にいくものかどうか。  それから、学習センターにしましても、今度この東京タワーを中心にして六つの学習センターができるわけですが、文部省の計画では三万人の学生がここで勉強するわけですから、六つに分けますと、一つ学習センターに五千名が集まるわけです。しかもその五千名の方が一学期の間に三回スクーリングに行かなければならない。それから実習に至っては週に一回でしょう。こうなってきたら、一人の教授と四名の助教授と三十名の非常勤で、こんな五千名が三回来たら、一万五千人の人間をどうして処理できるかという、そういった問題なんかもあるのですね。だから、かなりの決意がなければこれはできませんし、かなりの計画性をもって将来展望というものを持たないと、私たちは審議が非常に困難なんです。そういう点は私、先生方にもお考えいただきたいと思うのですが、これはもう時間も余りありませんので、そんなことの検討をされておるかどうか、検討しておる、大丈夫だ、いや大丈夫でありませんと、その辺、一言だけ御返事をしてください。
  102. 飯島宗一

    飯島参考人 大変むずかしい御質問をちょうだいしたわけですが、一つは、放送番組の更新というのは、これは私も四年というのは余りに機械的なことであって、実際的ではないと思います。それで、極端に申しますと、私どもいま学生の講義をしておりますけれども、ほとんど毎回のようにその内容については点検を加えて新しくしていく、これは分野にもよりますけれども、そういう努力は絶対に必要でございますから、この四年というのは恐らく、たとえば財政上の積算等を考える場合に一つのめどとして事務的に考えられた面が多分にあると思いますけれども、私はこれが現実の問題になった場合には、これで事柄が固定されるというのは大学としてははなはだ困ることであって、やはりそこにダイナミズムがあり、場合によれば新しいものが始終でき、あるいは物によってはずいぶん歴史的なものでも利用できるという、そこに緩急自在のものがなければならないということは確かでございます。  それからもう一つ、これは準備会議等に関係したものとして申しますと、確かに御指摘のように、人員計画その他等は大変に私は窮屈だと思って見ております。ただ、これは私もよくわかりませんけれども、国の予算等をおつくりになる行政の手続の中で、いたずらに膨大なことを言ってもやり得ないので、そこである限度内で一応認められる範囲のものをいま構想している、行政上にはそうやって構想しているということはよくわかりますけれども、しかし、これは実は日本でこういう新しいものをつくっていく過程で、たとえば大学改革のときにも私どもはしみじみ感じたわけでございますけれども、すべての問題が単年度主義でございます。それで単年度で物を勝負をつけなくてはならないのに、しかし大学づくりというのは、先ほどお話もあったように、場合によれば五十年、六十年かかる問題である。そういうものに適合する計画の進め方というものが非常に窮屈であって、たとえばこれがことしまただめであって延びたといたしますと、その間に、それでは放送大学の問題というものはちゃんとしたプロジェクトとして保障されておって、いま御指摘の問題点というのは積極的にどんどん解明できる基盤が保障されているかといえば、それは大変当てにならない。来年のことは来年のことで決めるんだ、再来年の金のことは再来年の金のことで決めるんだという、そういう行政上の制約の中で計画ということを考える立場としては、大変に困難があるということはお考えをいただきたいと私は思います。  学習センターの問題にいたしましても、三万人の中の学生が現実問題としてフルコースをとる者が何人いるか、あるいはパートコースはどのくらいいるか、あるいはどういう居住分布を持っているのか、それからどういう科目にどういう集中度があるのかということについては、もし欲を申せば、これは確かに特殊法人という形で国の予算に財源を負うものでありますから無限のぜいたくはできませんけれども、かなりのダイナミズムが実際の作業上にも保障されていくということがまず私は根本だと思います。それがまた、先ほどから御議論になっている大学自治ということが現実になる、その現実は何であるかといえば、そういう教学上の問題にみんながいいと考えたことがやはりちゃんと実現できて、責任が負えるようになるということが非常に大事なことであって、私はその意味で、いまのような取り扱い方で今後三年、十年議論をしてこの問題がうまくいくとは思いません。やはりこういう新しいものをつくっていくプロセスで、どういうやり方をすればいいのかという基本の問題も御配慮いただいて、もう少し現実面でこの新しい試みのダイナミズムを何とかして保障をしていただくということが大変大事なことではないか。御返事になったかどうかわかりませんけれども、感想でございます。
  103. 石村善治

    石村参考人 お答えになるかどうかはわかりませんが、私のこれは印象ばかり話し続けてきているわけですが、日本放送大学構想を見てみましても、具体的にたとえば私が住んでおるような福岡で、一体どこに学習センターをどういう形で置くのか、それから、実際に大学である以上は図書館が問題になると思うのですが、図書館についてどうするのかということがわれわれのイメージとして全く浮かんでこない。たとえば私の大学は私立大学ですけれども、私立大学にそういう申し込みがあったときに、それに対応するだけの財政的な基盤が一体あるのかどうか、あるいはそういう財政的な補助といったようなものがあり得るのかどうかといったようなことなど、地域研究者としてもなかなかはっきりしたイメージがわかないわけです。  それからもう一つは、私、西ドイツの放送大学について若干文献等で見てきておるわけですが、これは一九六〇年の末から一九七一年にかけて、西ドイツでは放送大学がかなり活発に議論されました。そしてその議論の結果は、一挙に放送大学といったようなものを西ドイツの中でつくるということにはかなりの抵抗、ちゅうちょがある。そしてその結果、一九七四年ですが、各州政府間で協定を結びまして、一応メディアの連携による、通信大学と普通言っておりますが、そういったものとして一応の計画を立てながらやっていこうというやり方をやっておるようです。そして物の本によりますと、ことしの十二月の末でそれについての報告を出すというふうな形の進行をしておるようでございます。  そういった点を見ますと、日本の場合にはもう少しそういった実験計画といいますか、いままでもなさっておるわけですけれども、もう少し時間をかけてその影響を考えてみるべきではないか。やはり放送といったようなものについて教育の中でどこまで利用し得るのかどうかというふうなことをひっくるめて、余り外国の状況に追いつけ追い越せというふうなことじゃなくて、もう少し日本状況を見ながら進める必要があるのじゃないかという感想を持っております。
  104. 塩野宏

    塩野参考人 イメージがつかみにくいという点については、私も御出席の先生方と同じだと思います。ただ、こういった新しいものは確かにイメージがつかみにくいことは当然でございまして、イメージがすみずみまでわからなければ認めないということであれば、これは結局いりまでたっても認めないと同じことだと思います。問題は、どの程度のイメージが出ればというそこなんですが、その場合に、たとえばいまの学習センターがどこに何年度にどのくらい置かれるかということ、それから、たとえば放送の方からいくと番組ですが、大学の方からいけば教育の材料、これをつくるのに具体的にどういうコースチームがどういう形でつくられるか、それから、先ほど来お話にありますように、仮に大学と学園の間に意見のそごが生じたときにそれはどういう形で調整されるのかという、その点ぐらいは明らかになっていなければいけないし、またそういう点をぜひ明らかにしていただきたいというふうに考えるわけでございます。先ほども申しましたけれども、こういった全く新しいものが生まれるときに、難産をすることはもちろんでしょうけれども、喜ばれないで生まれるというのは私は大変不幸なことだと思います。
  105. 山原健二郎

    ○山原委員 その点で、いまおっしゃいました学園と大学との関係でございますが、法人大学関係と申しましょうか、たとえば運営審議会権限の問題が出てまいりますけれども、この法案ですと、いわゆる放送局、大学というもの、両方をやはり法人が支配する、こういうかっこうになっているのじゃないかというふうに私は思うのです。特に理事長の独任制の問題がございますから、学長は言うならば理事長の補佐機関、言うならば教学担当の理事としての権限のようなかっこうになっていると思います。大学ですから、少なくとも学長最大権限を持ってしかるべきだと私は思うのですけれども、その点でこの間の文部省の答弁では、理事長は番組についてもチェックをする可能性があると御答弁されておりますから、そうしますと結局、大学というものよりもむしろその上に法人の方が支配権を持っているのではないか、そういうふうに読めるのではないかという気がするのですが、その点は塩野先生、どういうふうに解釈しておられますか。
  106. 塩野宏

    塩野参考人 法律ですから幾つかの解釈の可能性がございます。いまのような読み方も私は荒唐無稽ではないと思います。そういうことを危惧いたしますがゆえに、私は理事会というものを提唱したわけでございます。
  107. 山原健二郎

    ○山原委員 文部大臣権限が非常に広範囲にわたっておるということは、たとえば人事にしましても、事業計画にしましても、また予算、決算にしても、文部大臣権限を掌握する形になっております。この点で、これは学長教員の人事について、いわゆる教特法を適用すべきではないかという考えですが、この点は先生方どういうふうにお考えでしょうか。
  108. 塩野宏

    塩野参考人 大変むずかしい問題でございますが、教育公務員特例法と申しますのは、やはり公務員の身分を前提としてできているわけでございまして、これを特殊法人、すなわち、この雇用関係あるいは身分関係は公務員関係ではございませんで、普通の私法上と申しますか、そういった雇用関係にあると思います。そういった身分につく人たちに対して、そもそもは公務員に適用するところの教育公務員特例法を準用した方がいいかどうかというのは、多少私も自信を持って申し上げるわけにはまいりません。  ただ、それと同じようなシステムがこっちにとられているかどうかという点が問題でございまして、私が先ほど来申し上げておりますように、人事については、これが教授会ではなくして評議会という点が問題であることは私も重々承知しておりますけれども、少なくとも評議会の議に基づきという点においては教育公務員特例法と同じ趣旨であるというふうに解釈いたしますし、これこそ強引な解釈ではなくて、ごくあたりまえな解釈だというふうに私は考えております。
  109. 山原健二郎

    ○山原委員 この人事に人を得るという問題ですけれども、たとえば理事長あるいは運営審議委員任命に当たりましては、国大協とか公私立大学協会というような機関あるいは学術会議とかいうような広範な人々の推薦を必要とするとが、こういうこともないと、人事といいましても、文部大臣理事長学長運営審議会、言うなればまさに文部省直轄放送大学というふうな印象を絶対受けるわけですね。だからその際に、たとえば理事長にしましても運営審議委員任命に当たりましても、それは文部大臣任命する場合もあるでしょうが、その推薦の基盤というものは相当広範な形で民主的に構成されることが一番大事だと思うのです。この点については絶対引けない問題だくらいに私ども思っておりまして、頭から任命したのでは、幾ら学問の自由だとか大学自治だとかいったところで、人事の面でずばり系統、系列がつけられるということは大学にとって好ましくありません。そういう役職といいますか、重要部分の任命に当たっての推薦といいますかそういう手続、そういったものは当然どこかに明らかにすべきものだと思うのですが、その点についての御見解を承りたいのです。
  110. 塩野宏

    塩野参考人 私も先ほど大体御趣旨に沿った意見を申し上げたと思います。ただ、運用上は最低限そうあらねばならないと思いますが、それでは足りないと考える場合には、法文化する場合には、実は私も考えてみたのですけれども、なかなかむずかしいところがあるわけでございます。たとえば任命に際しては関係大学機関の、というふうにやるだけで果たしていいかどうか、そして今度はそれを政令ないし省令に落とした場合にどういうふうに拾っていくかという点に、私も立法作成の専門家ではございませんので確信を持ったお返事はできないわけでございます。  しかしながら、特殊法人におきましても、そういった任命に際して関係人の意見を聞く、あるいは推薦を求めるという例が決してないわけではございません。これはお調べいただければおわかりかと思いますけれども、幾つかございます。いわんやこういった放送大学におきましては理事長運営審議会委員等について、文部省関係特殊法人には先例は余りないかもしれませんけれども、幅広くごらんいただいて、その点を御検討いただければというふうに私の方から申し上げたいと思います。
  111. 石村善治

    石村参考人 私のお話の中で、理事あるいは運営審議会委員の選任について、イギリスオープンユニバースシティーの例を参考こしながら申し上げたと思うのですが、日本では放送制度について、たとえばドイツの放送協会のように、放送委員会の中にいろいろな階層の人たちの積極的な発言の場を与えるという考え方が残念ながら育ってきていないと思うわけでございます。しかし、放送制度あるいは公共放送制度からいえばむしろ、そういった公共の放送制度の担保者として理事なり運営審議会委員があるとするならば、そこの中に登場してくる人たちの推薦母体なり出身の階層なりといったものが、もう少し日本制度の中にも取り入れられてしかるべきではないかというふうに思います。オープンユニバースシティーの場合には、明らかにそういった方向をかなり厳格な形で義務づけておるわけです。それだけ放送公共性とか、あるいは国の直接のコントロールを排除しようという姿勢がそこに示されておると思うのです。日本の場合にも、新しい仕組みあるいは試みになっていく点で、立法上かなり問題がむずかしいのかもしれませんけれども、私は、放送大学といったような新しい制度ができるのをきっかけに、国際的な水準としてあるいは国際的な常識として考えられていることを取り入れたらどうかというふうに思っております。
  112. 山原健二郎

    ○山原委員 先生の書かれておるもの、またきょうの御発言の中にもありました例の参加民主主義というのは、いまおっしゃったことはその一つとして理解してよろしいですか。
  113. 石村善治

    石村参考人 オープンユニバーシティー参加民主主義、全体的に言えばそういうことだと思いますが、参加民主主義という場合には恐らく、内部の放送大学スタッフ、これは学生を含めてと言っていいと思いますけれども、そういったものの参加、それからもう一つは、やはり外部に開かれたという意味での参加があり得るのだろうと思うのです。ただし、その外に開かれた大学という場合に、これは一つの目的は、直接に国家権力でもって放送制度を牛耳ってしまうということを排除しようとする趣旨だと思います。これは西ドイツの放送委員会もそういう考え方に立っておるわけですが、そうだとすれば、そこの人選について、どういうふうな形でやればそういったことが可能なのかという検討はなされるべきではないかと思うわけです。
  114. 山原健二郎

    ○山原委員 人をどう決めるかという点は非常に大事なことだということを各先生方とも言われておりまして、私は、国会がもう本当にその辺の合意に達する必要があるのではないかということを感じております。たとえば理事長とか学長、副学長評議会委員任命などにつきましては、やはり大学の総意が反映できるような状態をつくる必要があるのではないか。確かにこの大学の場合は、学習センター等散らばっていますから、教授会というものはむずかしいかもしれませんが、しかしむずかしいからといって、教授会権限というものをいささかも軽視するようなことがあってはならぬ、それはやり方は出てくると思うのです。評議会委員の選出の仕方にもそれが生きてくるような方法もあるでしょうし、評議会委員の人数をふやすとか、あるいは学習センターからも評議会に入れるとか、いろいろな方法があるわけです。そういう点の運営の問題も今後非常に重要になってくると私は思っております。その点では先生方のお考えと私どもも全く違うというような状態ではないと思うのです。  それからもう一つは、たとえばNHKの場合などで行われています国会の承認問題です。法人役員、この場合で言えば理事長、監事あるいは理事などについては国会が承認してもおかしくない。先ほど木島先生は、各党による満場一致制という一つのお考えを、たとえばという形で示されましたが、これとても私は一つ方法であろうと思います。  この法人役員と同時に、あるいは事業計画、この中には授業料も入るわけですからね。授業料などはほとんど論議されていませんけれども、授業料だって大変な問題なんです。授業料の収入がどうなるかによってこの大学の行く末が占われるような問題も持っていますし、同時に、学習権の問題から考えましても、授業料という問題も大変大事なわけです。ただ、授業料だけでなくて、スクーリングに行かなくてはならぬ、その交通費から何から考えてみますと、私は四国の高知県ですが、高知県に一つ学習センターができた場合に、ここへスクーリングに行くなんといったら、授業料の上に旅費から宿泊費から加わりますと大変なことなんです。そういうことは当然国会としても検討しておかなければならぬ問題ですけれども、それなどもいまのところ、ほとんど私たちにはわかりません。そういう学生諸君のために聞かれた大学をつくって、たくさんの意欲を持っておる人たちを吸収して勉強していただくんですよということはわかるのだけれども、じゃ、そのことが、それに対するサービスがそれだけできるような体制があるかどうかというのは、当然国会としても論議をしておかなければならぬことですが、この辺の事業計画とか予算などについては、これは国会が各党が集まって満場一致でなければならぬという意見もありますが、私は少なくともNHKに対するように国会が承認をするというようなことが、一定の歯どめをかけるあるいは常に国民の代表機関である国会というのがこの放送大学運営について関心を持つというふうな点からも必要な問題ではなかろうかという気もしておるわけでございますが、これは最後の質問になりますから、三人の先生方からそういう点については一定のお考えがあればお伺いをしておきたい。
  115. 飯島宗一

    飯島参考人 私は、特にその具体的な考えがあるわけではありませんけれども一般論として、理事長理事あるいは学長等の職務、学長等は将来は当然、大学自治の原則によれば大学自体が選出をするということがルールになるはずでございますけれども、しかしそういう人選について、なるべく多方面の意見を聞いて適切な選出が行われることが望ましいというのは、全くそのとおりだと思います。  ただ、先ほど私が申しましたように、この放送大学学園の理事会というものをどう一体位置づけるのかというのは、いろいろな見方があると思いますけれども放送法制約特殊法人という形をとらざるを得なかったという点で、この放送学園の理事組織というのは一体、本来国立大学になるべきものの一つの事務組織的なものの一種のモディフィケーションであるのか、あるいはむしろ実体としてこの理事組織というものが放送大学の基本方針を決めていく中心組織であるのかというところは、この法律に書いてある書いてないという問題ではございませんけれども、私どもにとっては非常に関心のあるところであります。先ほど申し上げたように、私はやはり放送上の問題があると思いますけれども、これが大学である以上は、教学組織というものの考え方が貫かれるということが全体の組織の基本になるということは大変望ましいことであって、その点については運用上の御配慮を十分にお願いをいたしたいというふうに思っております。
  116. 塩野宏

    塩野参考人 この法人あり方等について、国会の権限と申しますか、チェックと申しますか、そういうことを考えたらどうかという御提案であったかと思います。この点は、NHKにも先例はございますし、その他の特殊法人にもあろうかと思います。ただ、NHKの場合には、受信料という国民、公衆から徴収するところの金を預かっているという、いわばNHK流の言葉を使えば国民的基盤に立ったという組織体でございます。そうしてさらに、放送事業の性格上、行政機関の直接のコントロールはよろしくない、がしかし、どこかで受信料を集めた金の使い方についてある程度のチェックはしなければいけないだろうということで、国会がその任を負っておられるのだろうと思います。  この特殊法人の場合には、そういった形ではなくて、税金について国会で御審議をいただき、それを今度は各省各庁の長が責任を持ってこれの使い方を見る、そういったシステムになっておりますので、そういった点から見ますと、国会というのは私も一つの考え方だとは思いますけれども果たしてそこまで制度化できるものかどうかという点で技術的に多少疑問がありますのと、それから、国会で責任を負って国会がかなりチェックをなさるとして、そうしますと、学長あるいは理事長がときどき国会に呼ばれて各党の先生からいろいろなことを追及されるということになりますと、これはかえって放送大学にとってはマイナスではないか、むしろそっとしておいていただきたいというのが本音でございます。しかしそうすると、文部大臣権限は残るわけですけれども、その点をできるだけ抑えていかざるを得ないのではないかという感じがいたします。場合によっては国会の方の追及の方が厳しいのではないかという危惧さえ持ちます。
  117. 山原健二郎

    ○山原委員 終わります。
  118. 坂本三十次

    坂本委員長 これにて参考人に対する質疑は終了いたしました。  参考人各位には、御多用中のところ御出席くだされ、貴重な御意見をお述べいただき、まことにありがとうございました。厚く御礼を申し上げます。(拍手)      ————◇—————
  119. 坂本三十次

    坂本委員長 この際、お諮りいたします。  逓信委員会との連合審査会において放送大学学園法案審査のため、参考人から意見を聴取する必要が生じました場合、参考人出席を求めることとし、その人選等につきましては、委員長に御一任願いたいと存じますが、御異議ありませんか。     〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  120. 坂本三十次

    坂本委員長 御異議なしと認めます。よって、さよう決しました。  次回は、公報をもってお知らせいたします。  なお、明十日午前十時から、ただいま審査中の放送大学学園法案について、逓信委員会との連合審査会を開会いたします。  本日は、これにて散会いたします。     午後五時五十六分散会