○林参考人 私は、この
元号法案に賛成する立場で意見を申し上げたいと思います。
私は、
憲法あるいは法律一般を専攻しております。主としてここで申し上げますのは、やはり
憲法及び法律的な立場でこれに対する意見を申し上げたいと思います。
わが国の
元号の歴史については、先ほど坂本
先生からも
お話がございました。私が繰り返す必要もございませんけれども、すでに約千三百年の歴史を持って続いてきておるわけであります。ただ明治以前においては、いわゆる改元、
元号を変えることは吉凶禍福というふうなことを原因として頻繁に変えられたわけでございますが、それが明治元年の行政官布告で、慶応を明治に改元すると同時に、今後は、
天皇一代の間は一つの年号でいく、いわゆる
一世一元のことを決めたわけでございます。これは一つは便利だということもあったと思います。それから
元号の手本になっておりますお隣の中国でも、あれはたしか元の
時代、あるいは明からは非常にはっきりしておりますが、明、清と
一世一元をとっておったわけでございます。そういうことを見てやったものであろうと思うわけでございます。
明治憲法下においては、行政官布告がまず第一に法的な
根拠としてできたわけでございますが、
明治憲法が制定される際に、同時に
皇室典範、いわゆる旧
皇室典範でございますが、これができまして、この中に
元号についての
規定が第十二条で入っております。
〔
委員長退席、竹中
委員長代理着席〕
それからその後、
明治憲法下において、
元号を変える、いわゆる改元の手続については、
皇室令である
登極令で決められました。
明治憲法下においては、
法的根拠はそういうことで続いてきておったわけでございますが、
現行憲法になります際に、旧
皇室典範及び
登極令は当然に廃止されたわけでございます。行政官布告については、特に改廃の手続はされておりません。したがいまして、この行政官布告の効力はどうなったかということについては、いろいろ意見があるわけでございまして、現在でも若干の意見があるわけでございますが、これはやはりその
内容から申しまして、
現行憲法下においてはそのままの形では存続し得ない、そういうのが有力な見方でございます。現在、私が昔おりました
法制局もそういう見解をとっておるようでございます。私、
法制局長官時代にこの国会で答弁をしたことがございますが、そのときは、非常にどちらともつかないあいまいな答弁をしたことを覚えております。これは金森国務大臣が当時、前にも言っておられまして、そういうどちらとも解釈がつくという趣旨のことを言った記憶がございます。しかし、現在においては、これはやはり効力を持ち得ないという見方の方が私は正しいだろうと思います。そういうわけでございまして、
明治憲法下において
元号制の
法的根拠になっていたものは、現在は廃止されたか、あるいは効力がなくなった、こう考えられるわけでございます。
ところが、昭和二十二年
憲法施行後もずっと、国家機関あるいは地方団体、あるいは
国民の多くも昭和の
元号をそのまま使ってきております。これについて法的にどういう
説明をするかということになりますが、これはいわゆる事実たる慣習として続いてきているのだ、そういうように解釈されておるわけでございます。事実たる慣習として続いておるならばそれでいいじゃないか、わざわざ法制化する必要がどうしてあるのかという
議論がそこで出てくるわけでございますが、この事実たる慣習の
内容についてまたいろいろ
議論があるわけでございまして、現在の昭和は、確かに旧
皇室典範と
登極令に基づいてできたものでございまして、この昭和の年号については、できるときにまさに法的な手続をとっているわけでございますが、これは今上
天皇御一代については問題はない。そういうふうな事実たる慣習は続くであろう。ただ、それで事実たる慣習は終わるのではないかという
考え方と、いや、やはり
天皇の代がかわった場合には新しい
元号がつくられる、そういうものも事実たる慣習の中である、そういう
考え方と両様の
考え方がございます。しかし、いずれにいたしましても、昭和だけで終わるんだという
考え方をとれば、いま
国民の多くは
元号制の存続を望んでいるようでございまして、これは世論調査の結果でもそれが出ております。
そうなりますと、やはり
天皇の代がかわりました際に新しい
元号をだれがどういう手続で決めるかという問題がどうしてもそこで出てくるわけでございます。事実たる慣習は昭和で終わらないのであって、
天皇がかわられた後でもやはり新しく
元号をつくるという事実たる慣習はあるのだ、そういう
考え方を仮にとりましても、その場合、一体だれがつくるのかという問題はございます。行政官布告とか旧
皇室典範のように、
天皇が勅定されるということは現在の
憲法下ではあり得ないわけで、しからばだれが、どういう手続で決めるかという問題がそこで出てくるわけでございます。したがいまして、この
元号を将来も存続させるというような、また、大
部分の
国民が支持しているということになれば、やはりこの際、
元号を将来も存続させる
意味で法制化する必要があるだろうということになるわけでございます。これは
元号でなくて、仮にそのほかのいわゆる紀年法、年の数え方をわが国で採用する場合でも、同じ問題はやはりあるわけでございます。仮に西暦を採用しようという場合でも、やはり法制化の必要は当然にあるわけでございまして、その点は、別に
元号だけについて法制化の必要があるという問題ではございません。いま
元号の法制化は、
元号を存続させるという
意味の法制化ということになっておるわけでございます。
そこで、
元号を法制化する方法としては、いままで言われておるのは
内閣告示あるいは
政令でいいんじゃないかという
考え方と、法律がいいんだという
考え方と両方があるわけでございます。
なぜ
内閣告示とか
政令でもいいんじゃないかという
議論が出てくるかと申しますと、これは
元号あるいは紀年法というものは、その性質上、仮に法制化した場合でも、いわゆる宣言的、告示的と申しますか、あるいは訓辞的と申しますか、要するに、
国民にそれに違反することを許さないというような、法的拘束をするような性質のものではないと考えられます。つまり、私的な
関係で、仮にそういう
元号なりあるいはほかの紀年法がつくられた場合でも、それに従う、従わないということが一般の
国民の問で法的強制を伴う、そういう性質のものではない、いわゆる宣言的、告示的なものである。たとえ話は余り適当でないかもわかりませんが、たとえば当用漢字とか、かな遣いというようなものとそれほど違わない、つまり
国民に基準を示して、こういうものを決めましたから使ってください、そういう性質のものだと考えられます。
これは、
明治憲法下においても私はそうだったと思うのであります。
明治憲法下においても、仮に
元号を使わずに西暦を使ったからといって罰則があったわけでもございませんし、何らかの法的な不利益を受けたということは、一般私人間においてはあり得なかったわけでございます。これは同じことだったと思うのであります。したがって、そういう性質のものであれば必ずしも法律を要しないのじゃないか。つまり
内閣告示とかあるいは
政令――
政令については若干の
議論がございますが、
政令もいわゆる
内閣告示と同じような
意味で、
内閣が決めるという
意味で、いわゆる法律に基づくという
意味じゃなくて、法規、命令という
意味じゃなくての
政令というような形もあり得ないわけではございません。そういう
意味で
政令が言われているのだろうと思いますが、
政令とか
内閣告示でやることも法的に不可能ではございません。一時
政府が考えたのも、
内閣告示あるいは
政令というようなものを考えていたようでございます。これは法的には別に不可能な問題ではないわけです。しかし、それじゃ法律では悪いのかということになりますと、法律で悪いはずがないわけで、法律は、国権の最高機関である国会が決められるわけでございますし、また、国会は唯一の
立法機関でございますから、法律で決めるのがよい、その方がいいということは多言を要しないところだと思います。つまり
内閣告示とか
政令でもいい、場合によってはそれの方法もあり得るということでございまして、法律がベターである、あるいは法律によるのが普通の行き方であるということは、もう
議論の余地のないことでございます。
それで、しからばなぜいまこの法制化をそんなに急ぐのかという問題になりますが、これは仮に
天皇の代がかわるというふうな事態が起こった場合においては、やはり何らかの法制的な措置を講じておくのがいい、そのときになって急にあわてるのではやはり困るのじゃないか。そういう趣旨でこの法制化がいま出てきているのだと思います。また、これは私は適当なことであろうと思います。戦後三十数年
たちまして、いろいろ
議論がございましたけれども、この際区切りをつけるということはいいことであろうと思います。
これはずっとさかのぼりますが、
明治憲法からいまの
憲法に移ります際に、昭和二十一年の暮れに、当時の
内閣で
元号法案を用意したことがございます。ところが、当時は占領中でございまして、当時のGHQから、占領が終わってからにしてくれというような要望がございまして、あのときは見送られたといういきさつがあるわけでございますが、そういう事情が解消してからすでに二十数年たっておるわけでございます。この際
元号制を将来も存続させるとすれば、その決まりをつけるということは、私はいま適当な時期じゃなかろうかという気がいたします。これは蛇足でございますが、仮に
元号をとらないならば、別にかわるものを決めるという措置は当然要るのだろうと思うのであります。そういう問題としてでも、
元号というものを存続させる趣旨であれば、これを法制化するのは適当な時期だ、かように考えるわけです。
この
元号法案の
内容でございますが、
元号は
政令で決めるということと、皇位継承のあった場合に限って
元号を変えるということの
二つが決められております。
元号法という法律でやることは適当だと申しましたが、しかし、具体的に
元号を法律で決めるというのは、なかなか性質上無理だろうと思います。また、急場の間にも合わないという問題もございます。したがって、これはやはり
政令に委任するということが適当なのだろうと思います。これは具体的な名前をどうするかということでございます。
あと、
元号の改元の手続につきましては、一つは、皇位継承のあった場合に変えるということがこの法律案で条件としてついております。これはいわゆる
一世一元と大体同じ、実質的には同じことだと思います。皇位継承があった場合に変えるということであります。ただ、具体的に、皇位継承のあった場合に即時にやるのか、あるいは一日ぐらい置いてやるのか、あるいは若干日にちを置いてやるのか、そういう問題は一つの
問題点としてあるわけでございますが、やはり
元号法、いわゆる
一世一元的な
考え方が
憲法の趣旨に違反することは、私は絶対にあり得ないと思うのでございます。これは後で申し述べます。したがって、やはり
一世一元的な、つまり皇位継承とともに変えるということであれば、なるべく早い時期に決めるのが適当だろうと私は思うわけでございます。そこらの手続が具体的には決まっておりませんけれども、やはりこれは
政府の適宜の措置でやるべきような性質の問題じゃなかろうか、かように思うわけでございます。
法案の
内容は、ごく簡単でございますが、こんなことで私は適当だろうという気がいたします。
そこで、
元号法案について、
憲法的ないろいろな異論が一部にあるようでございます。それから法制化した場合のいわゆる強制問題、これがあるようでございますから、この二点について若干私の意見を申し上げたいと思います。
この
元号法が
憲法の趣旨に反するという意見は、私はどう考えても理解はできないのでございますが、これは、確かに明治
憲法時代の
元号は
天皇が勅定するということでございました。それは、
主権を有する
天皇がみずから決められるということであったことは間違いございません。しかし、いまつくろうという
元号がそういう性質のものでないことは明らかである、また、そういうものができるはずもございません。ここに書いてございますように、
元号の
根拠は、国会がこれを決めようということでございます。その具体的な
元号は
内閣が決めるということでございます。これは別に
天皇の権能に何らのプラスをするわけでも、何らのマイナスをすることでもございません。また、こういうことを決めたからといって、
天皇に元首的
性格がふえるとか減るとかというような問題でもございません。そこに何らのかかわりはないわけです。
しからば、いわゆる
一世一元的な
考え方で
天皇の在位と結びつけることが
憲法の趣旨に反するかという
議論でございますが、これは
天皇の
象徴制の問題でございまして、
憲法第一条で「
天皇は、日本國の
象徴であり日本國民
統合の
象徴」であるということがはっきり書いてございます。
元号を、日本のいままでの
国民の
考え方、つまり多数の
考え方だと思いますが、それと
天皇の
象徴的
性格からいって、これに結びつけることは、私は、むしろ
象徴制に最もふさわしいことじゃないかと思います。
象徴制については、いろいろなところに
象徴制があらわれると思いますけれども、
元号を
天皇の在位と結びつけるということは、
天皇の
象徴制ときわめてふさわしいことであろう、これはどうして
憲法の趣旨に反するのか、私にはどう考えても理解できません。これによって
天皇が元首的なものになるわけでも何でもないわけでございます。
憲法に関しては、私はそういうように考えるわけでございます。
それから、あと法的強制の問題と
関連して
憲法問題もございますが、それも後でちょっと触れます。
法的強制の問題でございますが、これは前にも申しましたように、
元号とか、およそ紀年法、年数の数え方を仮に法制化した場合に、それが
国民の一般の私的
関係において強制力を持ち得ない、持ち得るような性質でないということは、これは性質上明らかでございます。これは宣言的、告示的というような
言葉でわれわれ表現しておりますけれども、一般の私的な
関係においては、それを使わなければならないという拘束は生じません。これは、今度の法律案でもその点ははっきりしております。これは、先ほど申しましたように、
明治憲法下の
元号でもそうだったと私は思います。そういう
意味においては、これはそこに何らの法的拘束力、強制はないわけです。
問題は、国家機関なりの問題でございますが、国家機関は、こういうものを決めた以上はこれを使うということは当然のことであろうと思います。また、地方団体も公的な機関でございますから、こういうものを使うというのも、これは当然のことであろうと思います。それから国とか公共団体に文書を差し出す場合、これもやはり一応はこういう
元号を決めた場合にはそれによるというのが、私はたてまえだと思います。これも
元号に限ったことではございませんが、こういう紀年法を法律で決めた場合に、法律で決めるというのは、要するに、いろいろな年数の数え方についてばらばらでは、国の事務でも地方の事務でも、これは困ります。事務処理上も困りますし、あるいはいろいろなことの証明をする上でも困るわけで、やはり統一が必要であるということになります。統一が必要であるとなれば、やはり法律で決めたものによるというのがたてまえでございまして、そういう
意味においては公文書、あるいは国、公共団体へ差し出す文書については、これは原則としてそれによるというのがたてまえで、公文書でも外交
関係のようなものは、これは明治
憲法時代からそうでございますが、西暦を使っている例もあるわけでございますが、それは事態によるわけでございますが、公文書とかあるいは国、地方団体に出します文書は原則としてそれによるという、また、それによらないと混乱を生じます。各自ばらばらのものを、ことに国の機関とか地方団体の機関に差し出す文書について、西暦ならまだいいのでございますけれども、たとえば自分はヘブライ暦を使うとか、神武紀元を使うとか、それは自分の自由であると言ってやられたのでは、やはり事務処理上も非常に困ります。あるいはいろいろなことの後で文書の証明をするような場合でも困るわけでございます。なるべくならばそれに協力してほしいというように言うのは、これは当然のことであろうと思うわけでございます。そういう
意味においては、この
元号なら
元号を決めれば、そういう
意味の、法的にそれを使わなかった場合に何らかの不利益を受けるというようなことは普通は考えられませんけれども、事実上の強制力的なものは、そこに働くことはあり得ると思います。これは、仮に西暦というものを日本が採用した場合だって同じことでございます。
ただ、その場合に、それが一体
憲法の十九条とか二十条とか二十一条の問題になるかということでございますが、
元号を決めたこと自身は、私は、思想、表現、良心の自由とは直接
関係ないと思います。どういう
内容を決めたということが、すぐ表現の自由とかなんとかいう問題に直接
関連はない。むしろ西暦の場合には、信教の自由の問題が出てくる可能性がございます。自分はキリスト教はいやだというようなことで、それを使うことに非常にこだわる人がないとは限りません。西暦は、日本人はいまキリスト教との結びつきをそんな明確にはみんな感じておりませんけれども、しかし、もとを正せば、キリスト暦であることは間違いない。外国の表記を見れば、ADとかBCという表記がございますね。ADとは主の年であり、BCはキリスト以前ということでございまして、明らかにキリスト教との結びつきがあるわけで、そういうものがいやだと言う人は、これは必ず出てくる可能性がございます。むしろそういう場合にこそ
憲法二十条の問題なんかが出てくる。それもそんなことにこだわる必要はないと私は思いますけれども、そういう
議論は出てくる可能性はございますが、
元号自身について、十九条とか二十条、二十一条の問題が出てくることはちょっと考えられないと思います。そういう性質のものじゃないというような気がいたします。しかも、私的
関係において使うことは、何を使おうと自由でございますから、その点についても問題はない。国、公共団体に出す場合には、これはやはりいわゆる公共的な理由で余りばらばらのものを使われたのでは、役所の事務も混乱するばかりでございます。なるべくそれに協力してほしいということになることは当然なことであろう、そういうふうに考えるわけでございます。
大体時間になりましたので、私の賛成意見は、以上のとおりでございます。(拍手)