○村田
委員 奥平康弘東大教授、これは憲法の
先生でありますが、この人が書いておられるものを見ますと、法学セミナーの増刊の中で、学生についての世論調査をしたのです。「大学生の天皇観」というアンケート調査でございますが、この調査の中で
元号制度について「次の天皇の代になっても、
昭和とか大正というような
元号制度はあった方がよいと思いますか。それとも廃止した方がよいと思いますか」という質問に対して、学生の二八%は「あった方がよい」、同じく二八%が「どちらかといえばあった方がよい」、両方合わせると五六%だと。逆に「どちらかといえば廃止した方がよい」というのと「廃止した方がよい」という「ふたつを足した
元号廃止派は約三〇%をしめるにすぎない。要するに
元号制度は、学生諸君のあいだでも存続を支持する割合が高く、廃止論は存外に不人気だ」ということが
指摘をされております。これは学生さんでございますから、学生さんの場合は比較的改革的な思考が強くて、共産党のようなことを言っている学生が多いのでございますけれ
ども、その学生さんですら
元号支持論が非常に多い。おもしろいことです。したがって、
元号制度はこんなにもつよく国民に支持されている以上、
政府は内閣告示などのような裏道をとおらずに、正々堂々、国民代表機関たる
国会にはかって、これに法律上の基礎を与えるべく努力すべきであろう。その方が「一世一元」にこめられた尊皇思想に忠実なことはまちがいない。
こういうように奥平教授が結論をつけているのでございます。こういった世論調査その他の調査を読んでみますると、まさに
元号という問題についての国民の思考、国民の
考え方、それは非常に堅実な、歴史的なものを踏まえておるということを私
どもは感ずるわけです。その
意味では非常に力強い印象を持つわけでございます。
だんだん時間も迫ってまいりましたから、この辺で結論的な
考え方に私入っていきたいと思っております。
元号法案の
審議について、いままで出ました官報その他大体目を通させていただきました。たとえば本
会議における討論というようなものも読ませていただきましたし、
委員会におけるいろいろな質疑も一応目を通させていただいたのでありますが、野党の一部の討論の中に、
万人に共通な悠久の歴史の流れを、生物体である君主の在位期間によって区切るというところに、
元号制本来の致命的欠陥があるのであります。天皇の寿命によって時間が分断され、いつ変わるかもわからず、また日本でしか通用しないような
元号は、年の数え方という観点からすると最低なものであります。だからこそ世界じゅうから消え去り、日本にだけ残っているのであります。
という強調された
部分がありました。これは恐らくアクセントを特につけられたのだと思いますが、この発言の中には、
元号法の、私
どもがいままで述べてきたような歴史的な沿革も御
理解をいただけなければ、
元号に対する一億一千万の国民の愛着というものも
理解しない、言うなれば大変なアナクロニズムというのですか、歴史と現実を踏まえない議論、不毛の議論が残っておるというふうに私は感じたわけでございます。
いろいろな意見がたくさんございまして、学者の意見、その他ジャーナリストの方の意見、いろいろ読んでみました。がしかし、これらをことごとく
紹介することは不可能でありますから、私が多くを読んだ中で、特に二つのアクセントのある議論が
元号法、
元号の
あり方というものについて私は非常に典型的なものだろうと思うので、この際、最後にそれを
紹介して、三原
長官の御所見を承りたいと思います。
一つは、武田清子さんという国際基督教大学教授の書かれた「
元号問題を考える」という、これは朝日に二日続きで連載されたものでございます。大変骨のあるりっぱな論文だと思います。この論文全部を
紹介することはできませんが、その筋だけを申し上げますと、
国民の間に
元号問題をめぐる論議の高まる中で、
政府は既に同
法案を
国会に
提出しており、
元号法制化の問題は、今
国会の
一つの対決課題となってきている。
ところで、新憲法下の「
元号問題」ということは、最近になって、急に論議の的になってきたかのようであるが、実は、これは初めてのことではない。一九五〇(
昭和二十五)年二月には、「
元号廃止」の
法案(「年の
名称に関する
法律案」)が用意され、今にも
国会に
提出されるか――という状況にあった。ということを書いておりまして、
昭和二十五年、一九五〇年から二十九年を経て逆の
法案が登場したのだということを、武田教授は
紹介をしておる。
二十九年の時の流れを距てて、「
元号」に関して全く逆の
法案が用意されるという現象は、日本人の何を物語るかを私共に考えさせる。何年かの時の流れを距てて、同一のものに対して全く反対の
考え方が出てくるのは必ずしも
元号問題に限らない。
国民思想(思潮)が国際主義、あるいは、合理主義的思想にむかって開かれている時期と、日本の特殊思想に固執して閉じた伝統主義に向かう時期とが、時計の振り子のように反復を繰り返してきたように思える。「世界暦」と「天皇暦」
元号のことを天皇暦と規定しているのですね。
との間を二十九年の時の流れを距てて
一つの極から他の極へゆれている
元号問題も、こうした反復の
一つの典型的事例のように思える。国民の運命を未来にむかってきり開いてゆくための信頼出来る羅針盤なしに時の風向きのままに流されてゆく舟のような心もとなさを覚える。
普遍的価値を見定めて、そこに特殊的価値を
位置づけてゆく上に、共通の超越的な拠(よ)り所が国民思想のふところに不在のように思えるのである。これが
元号問題を考える基礎なのですね。そしてさらにそれが具体論としては
元号法制化慎重論になっていくわけでございますが、「伝統文化の持つ特殊性」、つまり日本の伝統「と人類的な国際社会に意義をもつ普遍性との緊張
関係を、新しい歴史形成のためにどのように創造的に展開させてゆくかということばこのあたりで根本的に考えあうべき国民的課題なのではなかろうか。年の数え方における“天皇暦”(
元号)と“世界暦”(西暦)との問題は、その応用問題の
一つである。」こういうふうに言っているのですね。そして最後に、「「天皇暦」(
元号)の法制化は、この普遍概念の不在の自覚、あるいは、それの探求への関心において深刻に考えなければならない問題である。」と武田教授は述べております。そして「第一に、今日の日本国民にとってのアイデンティティ」、同一性でございます、同一性「の
一つの拠り所は日本国憲法をささえる“精神”にあると思うのであるが、「天皇暦」の法制化は、その精神に“くつわ”をはめるものとならないかということが問題である。第二に、年号に限らず、時間、距離、重さ、容積、広さ等を測定する単位は出来るだけ世界共通のものが良い。歴史も日本史を世界史の中に
位置づけて考えることが大切である。」「“天皇暦”を伝統的慣習として併用する自由は保持すればよい。」しかし、「普遍性と特殊性との間の生産的な対話には充分に時間をかける必要があると思うからである。」こういうふうに言いまして、
元号法の制定について非常に慎重な態度を持っておられる。私は
それなりにこれは慎重論のいわば非常に典型的な書き方であると思いまして、実は大変論理の展開が精緻であると思って感心をしたのでございますが、ただこの武田教授の
考え方も、いわゆる世界的なもの、世界国家であるとか、コスモポリタンであるとか、そういうものに対する学者の純粋なあこがれというものが
元号制に対して結論的には非常に否定的な
見解になったのであって、本当は武田さん自身の心の中にも脈々と打つ日本人の血というものがあり、本来は日本の歴史、そういったものの上で恐らく
元号を大いに参照しなければならない、そういったことがあるのではないかというふうに私は感じました。
その反面、もう
一つ元号賛成論で非常にこれはすぐれておると思うものをここで御
紹介をしたいと思います。おもしろいことでありますけれ
ども、たとえば新聞でも西暦年号とそれから
元号とを併記している新聞が多い。赤旗におきましても西暦を書き、そして括弧の中に
昭和年月日を書いておるのでありまして、この点共産党のドラスチックな考えでない点に、私はこの点だけは敬意を表するのでございますが、「正論」の方の賛成論の
一つを最後に
紹介をしたいと思います。
それは「
元号法案について考える」という勝田吉太郎京大教授の
考え方でございます。この人はこういうことを言っています。
およそわれわれが抱く時間観念には、数種のものがある。第一は物理的時間である。大学入試が午前九時にはじまり午後四時に終わるという時のそれだ。だが、受験生にとってこの数時間はあっという間に流れ去る。他方、試験監督者にとっては、実に長く退屈な時間と実感される。これが第二の心理的時間観念である。何本もタバコに火をつけ、いらいらしながら恋人を待つ男が感じる時間もそれである。第三に、時間の流れがはたと停止して“永遠の今”が現前するといった実存的ないし形而上的ともいえる時間がある、と哲学者は説く。なおこの他に、国民が
一つの運命共同体として受けとめ、体験する歴史的時間の流れがあるはずだ、と私は思うのだ。
そして「日本民族の“顔”となる時間」というものを勝田教授は力説するわけであります。
「国民とは、日日なされる人民投票である」と言ったのは、前世紀フランスの思想家ルナンであったが、国家を形成し、それを支える国民とは決して自然的な存在ではない。そこで国を作りそれを担っていくことの
意味合いを、毎日とはいわないまでも折にふれて
確認し合い、決意を新たにする特別の日が必要となる。そういう
意味で、どんな国民でも「建国の日」や「革命記念日」をもっている。日本のように古い国は、建国の日の証言をいわば“超記憶的な”歴史の物語のうちに見出そうとする。そうした民族共同体に固有の時間の流れの記憶のなかに、
元号というものも錨をおろしているのではないか。
大変これは雄澤な自覚だと私は思います。
「明治の気骨」、「大正教養人」、「
昭和一ケタ生まれ」などといえば、各時代相と一緒に実に豊富なイメージが湧く。西暦は、こういう国民史の具体的個性を切り捨ててしまう、だからして西暦一本では、特殊国民的な追体験をなすこが困難になる。西暦には、民族特有の体臭がない。無臭で、無機的で、“顔のない”時間の流れとは、物理的時間の属性である。
こういうふうに言っておりまして、そして
わが国は、憲法上、英国と同じく「王冠を頂いたデモクラシー」だ
と勝田教授は解しておる。
元号法を考える場合、国民統合の象徴としての天皇が、わが国の政治文化の構造のなかで一種の安定剤となって機能していることの
意味について、お互いに静かに考えてみたいものである。
こういうふうに結んでおるわけでございますが、私はこの
元号法案というのは、非常に事務的に総理も、また三原
長官も御
説明をされておりまして、それは
それなりに大変正しい態度だと思いますが、私が最後にこの二つの論文を提起をいたしましてその
考え方を聞きたいという気持ちは、恐らく三原
長官はよくわかっていただけると思います。この二つの
考え方についての三原
長官の人間としてのお
考え方をお示しいただきたいと思います。