○原(茂)
委員 時間のむだなんだけれ
ども、少しちょっと言わなければいけないが、この処理協の中にたとえば入って、いまのこういった牧草地の問題なり永小作権の問題なりの
解決をするように、払い下げ契約をするときには、山梨県は、県が問題のある団体なり個人との間に円満な
解決をするように必ずいたします、県が主体で、県が問題のある個人なり団体との間に問題の円満な
解決をいたします、それを大蔵省は信用しているから原の心配は杞憂にすぎない、心配するな、こう言ったのです。いままでの記録をよく見てもらうとわかる。県がやるんだ。
そのいまの処理協というのは一体県ですか、何だとお思いになる。そこに集まっている者は、いま言った二百十四ヘクタールの払い下げを受け、それによっても利益を受け、植林が敢行され、その植林によっても敢行されたがゆえに利益を得るという団体とか個人とかが集まっているメンバーなんです。なぜそういう処理協ができたかというと、山梨県は、もともとこの二百十四ヘクタールの払い下げを受けるときに、これはいつまでもいわゆる何々協とか何々組合のものではない、山梨県が再払い下げを受けるもの、最初は知事もそういう答弁を議会でしていたんだ。再払い下げを受けるのだ、山梨県のものになるんだ、こういうことをずっと長い間田辺知事が県会でもどんどん正式に答弁をしているのです。そういう記録を読んだり見せたりして、いままで私は論議をしてきたのです。
そこで、山梨県はいまだに再払い下げを受けられる、山梨県は受けるんだという前提に立って、再払い下げを受けたときに、地元の
人間が集まって問題があったら協議しようじゃないかという形の処理協をつくったのです。だから、山梨県はその処理協のメンバーなのかオブザーバーなのか。山梨県が問題
解決の衝に当たりますよ、山梨県が円満に問題の
解決をしますよ、だから払い下げてください、二百十四ヘクタールの払い下げはそれによって行われた。それをいままで論議してきたのです。
にもかかわらず、山梨県はどこかへ行っちゃった。山梨県はまるでオブザーバーなんだか本当のメンバーなのか、それもはっきりしないまま、県が円満
解決をなすべきその方法を、再払い下げを受けたときに地元の者同士で問題があるなら
解決をしようというので処理協という形をつくったのです。恣意的に、作為的につくったのです。
そこのメンバーはどうか、九割がいまの牧草地の入会権の問題なりあるいはまた永小作権の問題なりに反対の諸君なんですよ。万が一、ごくわずかな数の者が、忍草の諸君が、永小作権の諸君がそこへ入ってごらんなさい。何十対一ぐらいのメンバー。そこで決議をしましたという変な名分をつけられまして、その決議に従わないからあれは間違いだ、けしからぬと言われるだけだ。そんなのは世間によくありますよ。いやというほど日本じゅうにそのことは行われているのだ。そんな中にのこのこと入っていって、自分が正しいと思う、ずっと今日まで血を流して守ってきた入会権が、それはないのだと、たとえば九十九対一で決定をされます。それに従わなかったら、そのメンバーである
人間がいやしくもその処理協の決定に従わなかったということで、またそこへ指弾が来、知らずの間に、正しいと考えて長い間血を流してやってきた入会権を守ろうという主張というものが、一敗地にまみれるよりは、流れてしまうという作為的な処理協なんだ。山梨県が問題の円満
解決をすると言う。それなら山梨県はどこに行っているのか。ということをもう少し
検討をしていただかないと、いまの答弁では答弁になっていないのであります。そんなところに呼ばれたからといってのこのこと出ていって、メンバーはわかっている、九十九人が、断固正しいと主張する忍草その他の主張に反対の諸君で、何とかして忍草の諸君なり永小作権の主張をする諸君をとにかく踏みつぶして、自分たちの意向に従わせようとして今日まで闘いをやってきた。その片っ方のメンバーが九十九人いて、一人だけ、処理協でございますという中へ入っていけるか。いけないのがあたりまえです。作為的だから。
しかももっとおかしいのは、山梨県はどこに行っちゃったのだ。県が円満に
解決をすると言った山梨県はどこへ行った。その中に山梨県はどこにありますか。山梨県が主体的に問題の
解決をするという約束で国有地の払い下げが行われたにもかかわらず、それを実行しない隠れみのに処理協を使い、そこにオブザーバーのような、メンバーでもあるかないかわからないが、何となく発言をし何となくそれを指導するような、そういう形がとられているのが処理協なんだ。それは二つの点でいま
指摘したように私はおかしいと思う。したがって、その問題だけ言ってもしようがないので、それは私がいま申し上げたように、問題の
解決を山梨県が一生懸命やりました、話し合いをするように努力をしましたということには決してならない。
私がこの北富士問題を取り上げてからはや数年になろうとしていますが、全くいやになるほど歯がゆく思わせられるのは、一
国会議員としての法制上の限界ということもさることながら、何よりも増して
行政省庁の
国民に対する
責任と思いやりのないことであります。北富士の歴史を一度でもいいから振り返ったことのある人であれば、だれしもそこには物すごいまでに緊張した農民の生きるための闘いの歴史をかいま見ることができたはずであります。
忍草農民は、農民がすでに民法の中に確立させた入会権を土地所有者に対して守るために、全精力を傾け続けてまいりました。国、山梨県等地方公共団体は土地所有者として、その所有する強大な権力を背景として自己の完全なる所有権を確立させようとし、一方的に入会権の存在を否定してきたのであります。
ここに忍草農民は、かかる権力から押しつぶされることのないよう、いわゆる大声を上げ、わめき、どなり、もだえ、訴え、泣いてきたのが
現状なんです。この意味では、北富士における忍草農民の主張はきわめて保守的であり、おのが
権利を守るための闘いの歴史であり、権力から押しつぶされないための訴えの歴史であると言って間違いありません。
しかるに、半世紀にわたって北富士問題が未
解決の状態にあるという事実は、これまでいかに
行政が不在であったかということを示している。ある意味では、法に基づくべき
行政そのものが日本においていまだ確立していないということの証明であるかもしれません。
それに拍車をかけるがごとき今回の払い下げとそれにまつわる一連の
行政。
行政の基礎にあるべきものが一体合理性にあるのか、正義の実現にあるのか、はたまた一般意思にあるのか、それともそのすべてを含むのかの論議はともかくとして、少なくとも大蔵省の
行政が北富士農民の自発的服従を呼び覚ます力を持つためには、暴力と威圧、
子供だましみたいな言葉の羅列に終始することなく、それらに取ってかわって論証と説得とがここでの問題
解決の
最高の原理であったのであり、また近代
行政の原理でもあるはずだと確信をしています。
決して、山梨県をして率先して有無を言わさぬ実力行使を行わしめ、農民の丹精した収穫直前の牧草地をブルで壊滅させ、その力をもって農民の主張を圧殺するように
行政指導することでもなければ、この払い下げ地上に
権利を主張する農民に対し山梨県が一方の当事者として話し合うべしということは決して折り合いがつかないだろうから、山梨県としては直接農民と話し合わず、これを農民が居住している市村に任せてしまえと
行政指導することでもないはずであります。
なるほど諸懸案問題処理協議会、先ほど言ったいわゆる処理協の方法であれば、市村で農民を呼び出し、植林実行主体たる恩賜林組合及び分収造林促進を主張している人々、さらにはその植林によって利益を得る
行政主体などと同一テーブルにつかせ、植林を速やかに実現するにはどうしたらいいかという議題のもとで
会議をさせて、それを多数決で決定させるというのですから、すべてが思いどおりにいくということになるでしょう。しかし、かかる方法が農民にとって全く無意味であること、否、むしろその
会議に参加することによって、会の一員である以上会の議決には従うべきであるとの論法で、自後その主張すら抹殺されかねないということは、あえて
説明を要しないものであります。先ほど言ったとおりです。かかる方法をもって山梨県が払い下げ地上に
権利を有すると主張する農民と話し合いを行わんと努力していると言うのは、
子供だまし以下で、詭弁とも言えません。
これまで多くの学者等によって明らかにされている前近代における
行政の研究によれば、中近世の
行政のいわゆる最大の特徴は、領主が人民に対して最大限の支配力を得ておいて、それから若干のいわゆる寛仁さを示しつつ実施上の手心を加えていくことを理想としていたということは、間違いありません。その結果、寛仁さの程度、この寛仁さを要求する領民の反抗力等によって
行政のあり方、内容そのものが異なってきたということであります。中世の領主は、この意味ではまさに専制君主でありました。しかし、その領主をもって専制君主たらしめるか、体裁のよい略奪者たらしめるかの問題は、実に領主と人民との実力がどこでつり合いをとったかにかかっていたのであります。
私は、この国有地払い下げの
行政が、あたかも中世の専制領主の
行政であるかのごとき錯覚を感ぜずにはいられないのであります。
大蔵省
当局は、専断的にこの土地には入会権がないとし、それを山梨県に完全な土地として払い下げ、問題の処理はその反抗の程度いかんで山梨県が適当に寛仁さを発揮するようにと
行政指導をしているとしか思えない。しかし、その
状況いかんでは実力行使も構わないというのでありますから、これはもう中世の専制下の
行政と何ら異なるところはないと言わざるを得ません。否、
国民は法的に実力行使を禁じられている現代にあっては、これらはむしろ絶対専制的であると言わなければならないのであります。
しかし、少なくとも現代の日本を
法治国家として自認する以上、その
行政は絶対専制下の
行政原理とは異ならざるを得ません。まさしく、ここでの
行政の基礎は、偏見と独断を排除し、暴力と詭弁とにかわった論証と説得であるはずです。私は、暴力の時期から詭弁の時期に、詭弁の時期から論証、説得の時期に現代の
行政は到達していると確信をしています。
大蔵
当局は、忍草農民が事実として述べていること、単に事実を事実として述べるだけでなくて、事実を事実として信じない国、山梨県に対して、非力な力を振りしぼって、その事実を法的にも
行政的にも尊重するよう主張していることに耳を傾けなければならないと考えます。
そして、仮にその主張が法的にも
行政的にも通らないというのであれば、その旨の論証と説得を行うべき義務があると考えるのであります。もちろん、
行政は決して俗論にこびへつらう必要はありません。しかし、俗論にへつらわないことは、農民の生きるための
権利の主張に対し耳を傾けないことを意味するものではありません。
私は、現在の国政のレベルでこの北富士問題がいかほどに大きな問題であるかを論ぜんがためにかくも執拗に論を立てているのではありません。むしろ、この問題は他の多くの政治課題に比してじみであり小さな問題であるとすら言えるのであります。しかし、この北富士の問題には、決してないがしろにすることのできない
国家と地方自治と
国民の
関係から生じている諸矛盾が一世紀にわたって解消されることなく存在し、むしろ演習場とのかかわり合いにおいて増幅されつつ今日に至っているものと考えています。その意味において、これをどのように
解決すべきかはきわめて重大であり、今日の日本政府の
行政のあり方がどの程度にまで
法治国家におけるいわゆる政府たり得ているのか、その試金石ですらあると考えています。
私は、政治家として、政治の本来の中心は、大きなことのためならば小さなことは犠牲にしてもよいという
立場をあえて否定してきました。むしろ反対に、
社会におけるごく小さな問題であっても、それが
国民の
権利のいわゆる権力によるいわれなき侵害であるという主張である限り、それらの人々の当然有すべき
権利を守らなければならない
立場を代表する者として政治に携わってまいりました。その意味でも、この問題はさらに審究していきたい点がなお多く存在いたしております。
ここで、大蔵
当局として、本年の植栽期を直前に控えまして、山梨県に対し、今後払い下げ条件に即して忍草農民と話し合いを行うなど事態が円満に進捗するように、法的要求あるいは
行政指導等を行うかどうか、再度明らかにしていただきたいと思います。