○沓脱タケ子君 これは、ロッキード社の黒い商法というのは、わが国で非常に大問題になった。このロッキード社に係る黒い商法は、まさに今度のSECの
報告を見ますと、ダグラス社の黒い商法が同時進行していたという事実、これがいわゆるロッキード裁判の公判
関係の資料でも非常に明らかになってきております。
私が一々申し上げなくてもよいと思いますけれ
ども、ずいぶんその中ではいろいろ出ておりますが、四十五年の八月ごろには、田中は同四十五年中ごろ、若狭社長に電話で、三井物産からDC10を買うよう口添えしてくれと言われているので
検討してほしい旨要望した。これは丸紅ルートの冒頭陳述。
それから四十五年八月ごろ、田中幹事長から電話で、ダグラスを
検討してほしいと言われたと。これは五十三年九月二十日、丸紅ルートの五十四回公判、若狭の検事調書。
それから四十七年九月の二十一日。田中は四十七年九月二十一日ごろ、総理官邸を訪れた石黒から、ロッキード社がかなり暗躍している様子で、私
どもを援助してもらいたい旨の陳情を受けたと。これに対して田中は、
所管大臣によく言っておいたから何らかの達しが近くあるはずだと答えたが、前記丸紅社長桧山の請託を了承し、その線に沿って働きかけをしていたところから、三井物産からの右陳情を無視した。これは丸紅ルートの冒頭陳述ですね。
それから四十七年十月の二十日ごろ、私の家に三井物産の石黒副社長と村上常務が訪ねてきて、実は自民党の田中派、大平派など、重立った派閥の方々にごあいさつして手を打ってありますから、DC10をよろしくと言われた。
国会議員の方々に手を打ったとはお金を差し上げたことであると感じた。というのは五十三年九月二十七日、丸紅ルート五十五回公判の若狭調書。
さらに四十七年十月ごろ、三井物産が橋本登美三郎に働きかけ、佐々木秀世当時
運輸大臣に海外旅行をおぜん立てしたという知らせを受けた。しかし、児玉と小佐野に話したことにより、佐々木氏は帰国、われわれは十月三十日にトライスターの発注を受けたと。これは五十三年十月二十六日、児玉・小佐野ルート公判のコーチャン調書ですね。
それから四十七年十月二十四日には、若狭社長と二人で官邸総理室を退出する際、控え室で三井物産の若杉社長と石黒副社長を見かけ、やあと目礼した。これは丸紅ルート四十五回公判の渡辺調書。
二人に出会って、三井物産の売り込みが激しいなと驚き、いやな気がした。これは若狭調書、五十四回公判ですね。
それから、総理訪問の十月二十四日の前に若狭社長から、全日空がトライスター、日航がDC10に決めてくれるとありがたいという電話が総理からあったと聞いたのは、若狭さんは、私が三井物産と会社創立以来つき合いが深いので、トライスターになると悪いと思って言ったのかもしれません。というのは五十三年五月十七日の四十五回公判、渡辺調書。
まあ、ちょっと拾い上げてみましても一、ロッキードで名前の出てまいりました田中、それから橋本登美三郎、佐々木秀世氏らが介在していたということが明らかになってきております。
しかも、こういう
状況の中で東亜国内航空のDC9の導入がとられておりますが、この間の動きに大変深いかかわり合いがあると思われます。
そこで、東亜国内航空のDC9導入をめぐる疑惑について、ちょっとお伺いをしていきたいと思うんです。これはもう時間の
都合がありますから、大体私、経過を追って、どのように東亜国内航空がジェット計画を進めてきたかという経過をちょっと見てみたいんですが、
昭和四十五年の十一月五日に、「航空
輸送の運営体制に関する
基本方針について」という閣議了解で、
日本国内航空及び東亜航空が円滑、可及的速やかに合併して新会社を設立することを促進する。その場合、新会社は
日本航空の技術支援及び資本参加を受けるということを、これは閣議了解
事項として明らかにした。つまり、東亜、国内航空が合併をする場合には技術指導は
日本航空から受けるんだという点を閣議了解
事項として通知を出しておるわけですね。そういう過程で四十六年の五月の十五日に合併をして東亜国内航空が発足をした。
で、東亜国内航空は四十六年の十月六日にはすぐジェット計画なるものを
発表しているわけです。これによりますと、これはボーイング727-100型機、
昭和四十六年に三機、四十七年五機、四十八年十機、四十九年十四機、五十年二十機ということで計画をしておられます。そして四十七年、翌年の四月一日には東亜国内航空の
基本方針を
発表しているんですね。この
基本方針では、使用機種はボーイング727-100型機とする、そして
整備関係は全面的に
日本航空に委託するということを明らかにしている。その後、四十七年の七月一日には
運輸大臣通達が出されておりまして、これによりましても、
運輸大臣通達は、東亜国内航空は先発企業の
日本航空の協力のもとに運航を認めるものとするというのが出ているわけですね。
そして、その三日後の四十七年七月四日に、TDAから、「ローカル線のジェット化計画」についての申請が出ているわけです。その申請は、ボーイング727-100型機三機で出発をする。東京-大分間の一日二便。それから
整備その他は
日本航空に全面的に委託をする、こういう形で出てきているわけです。そして申請が出されて十日後の七月十四日には申請が承認をされて、八月の一日から就航が開始をされる、こういうことになっているわけです。
ところが、就航しておったところが、四十八年の一月の十八日に突如としてDC9の採用が
決定をされた。その間に社内では、実は四十七年の十二月六日付の内部資料によりますと、長期計画を策定をしている。ところが、機種の選定ができないので
作業を中断していた。そして、二月の六日付で、使用機種をDC9の採用
決定をしたので速やかな長期事業計画を策定して実施をしたいと、こういうことになっておるわけでございます。
まあTDAのジェット化計画等についての経過は日にちの
関係だけですから、経過は大体そのとおりだと思いますが、そのとおりですか、大体。