○岩上二郎君
大臣の御答弁をお伺いいたしますと、非常に徳の概念がはっきりしていない。しかし、
日本人の体質には、はっきりしてないのが特徴だ、こういうふうに言われております。だからこそ
日本の今日の
文化があるんだとさえも言われているわけですけれども、元来、歴史的に見ましても、
日本民族は自然神を崇拝する、素朴な神道を持っていた。そこにすんなりと仏教が入ってくる。さらに、きわめて異質なキリスト教
文化というものもどんどんと入ってきてもそれほど矛盾を感じない。また、漢字導入後においても、
日本独特のひらがな、かたかな
文化、こういうようなものをつくり上げた古代から中世にかけてのけんらんたる
文化を築き上げた歴史もあるわけでございますが、非常に包容力を持っている、それだけにこれだと決める決め手が実はないというところに、徳の非常に包括的な
内容を持っているようにうかがわれているのであります。
したがって、徳とは何か。英語で言えばバーチューというものなのか。いや、そうじゃなくて、もう少しモラルの入った
内容のものなのだと。しかし、これがはっきりしていないわけであります。これは
外国語を翻訳する場合に、非常にすべての
日本語の表現そのものがむずかしくて、どれが本当なものなんだろうかということで、翻訳者は非常に苦労するものでございますが、そういう体質を元来
日本人は持っている、このように私は思うのです。現にわれわれの社会生活の中にあっても、たとえば、午前中に仏教のお葬式では数珠を持ち、それから、午後のお葬式ではサカキを挙げて、また、帰ってくればキリスト教の集会にも出ていく。あるいはまた、一家の家庭においても、生け花をやっている娘が、今度はベ-トーベンのシンフォニーを聞くとか、あるいはまた、お茶をやっていて、今度はミニスカートをはいてロックの踊りに出ていくというか、そんなことが平気で行われているような、そういう
日本民族の一般的な表情であろうと思うんです。
そういう中で、
外国の
文化の摂取、これも非常に何というか、融合性があって、それかといって、それに完全に巻き込まれない、何かそういうふうなものを抱きながらも、自分のものとして消化していくような、そういう体質を
日本は持っているんじゃなかろうか。
特に、
日本人は自然とともに楽しむというか、自然合一の姿を追っていくとか、そういうふうな性格もあって、これは最近読んだ本でございますが、アメリカの女流社会学者であるフローレンス・クラフフォーンという方が、
日本人はマン・イン・ネイチャーである、いわゆる自然の中に人間がある、こういうふうな特徴をとらえております。で、欧米人はどちらかというと、マン・オーバー・ネイチャーである、自然の上に人間がある。そこにやはり物質文明をどんどんとつくらせていった、あるいは発展させていったそういう
一つの性格を持っている。しかし、おくれているたとえば開発途上国の性格はどういう性格かというと、マン・サブジェクティド・ツー・ネイチャー、いわゆる自然の中に支配される人間。これが開発途上国における人類一般の姿であると、このように端的に表現している言葉を、私は非常に心に銘記した言葉でございますが、そんなふうに
日本人は、自然というようなものと、人間の関係というものは非常に大事にする。ところが、最近はいろいろな近代化を追い過ぎたために、自然が破壊される、これに対する抵抗、こういうようなものも非常に熾烈になってきていることは、ある意味においては非常に
一つの国民運動としても、われわれは大いにこういう運動は大事なことではなかろうかと
考えている一人でございますが、しかし、一面近代化を追い過ぎたために、いわゆる欧州近代文明に支配されていくというか、そういうふうな傾向が非常に最近の傾向としては顕著である。確かにそのために貧困とか、あるいは病気だとか、あるいは戦争と、こういうようなものに対する
考え方も大分変わってきておりますし、経済的な大国だなどと言われれば、そうかしらと、このような感じを持つようなところになってまいりましたけれども、しかし、一面精神
文化というものはだんだんと崩壊しつつあるような、そういう感じがしてならないわけでございます。
そこで、私はいまの
教育課程の答申を拝見いたしまして、たとえば道徳の授業時間はどのくらいを基準にしているんだろうかということを調べてみてまいりますと、小
学校では全体八百五十時間のうち、わずかに三十四時間、これ一年ですね。それから中
学校では千五十時間の中でわずかに三十六時間、こんな
程度なんですね。これで果たして知、徳、体の均衡ある発展を云々という、この目指す人格
教育というのか、人間
教育というのか、目指そうとしていることが可能なんであろうかどうか。もう少し徳育
教育という、漠然としたこれは道徳も含めて、芸術も含め、宗教も含める、そういうふうな全体の
一つの
内容を持っているんではなかろうかと思いますけども、それにしても余りにも時間が少ないんじゃないか。特に、私は先ほど申し上げましたように、
日本は自然を愛する、特に自然は
外国と違いまして四季折々の変化を持っている。そうしてその四季折々の変化に対して心が動く。そうしてその動きの中に、たとえば、俳句なり、それから和歌なり、これは
外国にもないようなものがいっぱいありますね。川柳でもしかりです。
日本画、墨絵とか、あるいは尺八とか、お琴とか、いろいろな
文化の表現というようなものがあるわけです。特にお茶とか、あるいは生花とか、禅とか、そういうようなものがまだ
日本人の心の中に依然として生き続けている、そういうふうなものをこの
学校教育の中にもう少し取り入れてみてはどうであろうか、
具体的に。そういうようなものを取り入れる、――取り入れるということはなかなか大変でしょうけれども、たとえばお茶室を設けるとか、あるいはそれにあわせて生花を教えるとか、そういうふうなものを通して、人間と自然との関係をそれとなく心で、体で教えていくという、そういうふうな努力をされてはどうであろうか。それはもちろん時間の問題も関係いたしますけれども、あわせて私は
日本の
教育を進める際に建築、いわゆる
文部省の画一的な建築のスタイル、これがいいんだろうかどうだろうか、このことを私は最近痛切に感じているわけなんです。建築をする前に、
教育的なサイドから、それぞれその地域の特性をいかしながら
教育はどうあるべきか、そのために建築はどうあるべきか、こういうような問題を、もうそろそろお
考えになっておいてしかるべきではなかろうか。明治以来、大正、昭和の今日まで玄関があって、受付があって、そのお隣が校長室であり、職員室であり、それから四角四面の四十五名の定員の入っている教室がある、中仕切りがある、お隣には便所があるという、この定型的な、ティピカルなこの
学校建築のスタイルがこれでいいんだろうか。人間を
教育するのにこの建物はどうあるべきかということを、もう少し
教育のサイドから研究されてしかるべきではないだろうか。英国では戦後オープン・エデュケーション・システムというものを採用して、ワンフロアで、先生が
日本のように黒板を後ろにして白墨を持っているという、生徒と対面
教育というか、そういうふうなことがいまでも行われておりますけれども、それとは全く違う、やはり先生の横顔、後ろ姿を見ながら、そして人間的に深く先生がタッチしていく。その中には仕切りがない、廊下もない。
日本の場合には教室があって、一たび廊下を出るとがやがやそわそわ、そういうふうな中にやはり何というか、内面的に、人の前ではいいことを言い、裏側に入ると卑屈な人間の行為を行うような、そういうふうなことを昔からあの中仕切りをすることによってつくってしまったんではなかろうか。
外国のように、キリスト教
文化、これ一枚岩です。しかし、これは人の見ていないところでも神様は見ている、したがって、悪いことはしない。ところが
日本は多神教ですから、なかなかそうはいかない、本当の宗教というものがつかみにくい
日本の姿ですけれども、この
学校教育の中でももう少し
教育の建築の様式、これを真剣にお
考えおきいただく必要があるんじゃなかろうか。その際に、やはりいま申し上げましたいろんな
日本独得な、しかも、すばらしい
内容のあるいろんなものをつくり上げてきた、そういうようなものをひとつこの建築の中にも織り込んでやっていく、そういうふうな姿勢が必要じゃないだろうか。ところが、この
教育の教科課程の
内容を見ましても、ほとんどそういうものの
内容もうたわれていないし、またそれに基づいて五十五年から
文部省はこれを改定して大いにやろうと、このように努力されておられるやさきでもございますので、そこらあたりは、
大臣のドクトリンというか、それを実はこの際はっきりと、やはり人間というものはどうあるべきか、いわゆるそういう、もっと人間の心の中に入り込んだ
教育というようなものを
大臣はお示しになる必要がこの際あるんじゃなかろうか、このように
考えますが、
大臣のいま私が申し上げた
考えについての御所見をいただきたい。