○金丸三郎君 その点でございます。五十一年の最高裁の判決はきわめて詳細であります。多数意見と少数意見が詳細に述べ尽くされております。私もその点は十分に
承知いたしております。九月十一日と十三日の東京高裁の判決は、五十一年の最高裁のその判決を前提としながら、しかも十一日の判決は東だと言い、十三日の判決は西だと言っておるんです。ここに問題がございます。
法の解釈や適用であって、同じ高等裁判所に属する裁判官が千葉県の四区と東京の七区という同じ
選挙区ですよ。一方の判決は東京の
選挙区、一方の判決は東北の
選挙区じゃないんです。同じ
選挙区について同じ高等裁判所の裁判官が東と西の判決を下したということは私は非常に問題があると思う。それはいわば法の解釈適用について非常に見解が違い得る。しかも最高裁は五十一年に判決を下しておるんですけれども、なおさらに違った高裁の判決が出てきておる。ここを私がやっぱり立法の
立場から
考えなければならないじゃないか、こう思うのでございます。
十一日の判決は、ただいま選
挙部長から
答弁がございました量的な平等でなく質的な平等が一番大事だということです。しかし私は
選挙というものは
国民にできるだけ平等に
選挙権を与え、政治に参加させるのが筋合いだと思います。しかしたとえば米国を例にとりますと、五十の州が上院には二人ずつ出しておることはよく御
承知のとおりでございます。これは
選挙権の平等じゃありません。政治的な平等であります。
選挙というのは国政に参加させると同時に、国政の運用をどのようにやっていくか、地方自治団体の政治行政の運営をどのようにやったら一番いいかという高度の国の政治のあり方、運営の仕方を
考えて私は決められるべきものではなかろうかと、かように思うのであります。
九月十一日の判決は平等を廃するのではございません。そういう
意味では最高裁の五十一年の判決を否定する思想に立っておるのじゃありませんが、十一日の判決の
理由書をよく読みますというと、実質的な
国民の平等、
選挙区の住民の政治的な国の政治に対する発言権の平等を
考えなければならないと、一言で申しますというと私はそういう思想の判決ではないかと読んでおります。
現在わが国では人口が集中した府県の参議院の
選挙、衆議院の
選挙についてそういう
関係区域の住民に不平があるので訴訟が起こってそういう声は非常に出ております。しかし人口が減って経済的にも社会的にも文化的にも非常に困った
地域の
国民の声というものは反映しておりません。私はそこを
考える必要があるんじゃないか。九月十一日の東京高裁の判決はまさにそれを
指摘しておるのであって、ただ数字の上で格差があるから当然に修正したらいい、それが
選挙権の平等だという機械的ないわば平等ではなくて、やはり
地域に住む
国民の政治的な発言、そういうものを立法政策的に考慮すべきじゃないか、そういう見地から十一日の判決は
現行法でも立法政策上許されるものだという
趣旨の私は判決になったんだろうと、実はこういうふうに思うのでございます。
今回の東京高裁の判決や五十一年の最高裁の判決
理由を見ますというと、余り
議員一人当たりの人口の
選挙区ごとの差がひどくなければそれは立法政策上妥当な範囲で違憲とはならない、こういう結論のようでございます。衆議院についての判決でございますし、また四十九年以前には参議院についての判決もございますが、今回の東京高裁の判決は衆議院であります。これは一対三で違憲だという結論です。
ところが参議院の地方区につきまして、府県別に
議員一人当たりの人口を調べてみますというと、鳥取県は二十九万六百五十六名です。
神奈川県は実に百五十九万九千四百三十七人、東京都は百四十五万九千百九十四人、東京、
神奈川はいずれも鳥取県の五倍以上に実はなっております。これにもかかわらず四十九年の最高裁の判決は参議院について違憲と言っておりません。この点について
自治省ではどういうふうにお
考えなのか、この点をひとつお伺いいたします。