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中野(寛)
委員 私は、この主任手当制度というものが、
教育の中央集権化や
教育の軍国主義化を助けたりとかというような
目的というものは全くない、むしろ、先ほど申し上げた本来の趣旨にのっとってこのことが行われ、そして
現場の先生方の御苦労に報いるものだと判断するがゆえに、そしてまた、私どもが聞き及びます限りにおいては、
現場の先生方からわれわれの県においても早く実施をしてほしいという声があることもまた事実であります。現実に私も何人からとなく聞いています。しかしながら、その地域事情等によってそれが行われていないところがある。まして、そういうところについてはいまや主任手当制度反対運動の真っ盛りであります。春にも
指摘しましたけれども、学校の校門という校門には主任制度反対の看板がかけられています。裏門に、表門に。あるときある学校で、
教育委員会が、このような看板を学校の門もしくは建物につけるべきではないとして、話し合いがつかないからトラックを持っていって強行措置で外して回った経過があります。ところが強硬な教職員組合の抗議に遭ってそれをまた配り直したというだらしのない
教育委員会がある。ところがそれだけでは終わらない。またそれに加えて今度は畳一畳もあろうという大きな看板に翌日からかわった。こういうケースを見て、私は、
教育委員会はどこに
基本的な
指針を持ち、どこに信念を持ってやっているのか、疑問を持たざるを得ませんでした。そして、決して、
文部省もその
教育委員会と同じ態度だとは思いませんが、あるべき姿、学校管理のあり方、これらのことについて、学校で守るべきことが守られなくしてどうして
教育が正しく行われるのでしょうか。私は、そのような単に労働運動的にみずからの主張を押していくということだけで学校における感覚が許されると思わない。やはり真剣にこれらの問題を
教育の
基本にもかかわる問題として考え、対処していただきたい、この強い
気持ちを持つものであります。
次に、先般来、
文部大臣の
教育勅語発言や、それから
総理大臣の英才
教育発言が出ました。私は、やはりことしの春の質問の中で、
日本の戦後の
教育についていろいろな批判がなされている、いまは、それを集大成して一度総合的に洗い直し、
反省してみる時期ではないかということを申し上げました。そして、現在の国際経済の動き、国際
社会の動き、そしてその中に占める
日本の位置づけ、
日本の役割り、よく総理が、資源のない国
日本、資源は人材のみだと言われる、そのことを考え合わせながら、本当に新しい
時代に
日本が生き延び、かっ国際
社会に奉仕することのできる人材を養成することが、目下の
日本のきわめて大きな仕事であるということも申し上げました。同時に、
教育勅語を知らない
世代としての私には私なりに、
日本の現在の
教育は何かしら心の中でむなしさを感じさせる、そのような
教育に実態がなっている。
教育基本法の文章は文章として、それが守られていなければ全く形骸化していることになります。それをもっと具体化して、やさしく
子供たちにわかる方向でつくり上げていく。そのつくり上げ方は、
総理大臣の選挙目当ての気まぐれな
発言や提案でもなぐ、また
文部省からの押しつけでもなく、
国民各界各層、いろいろな方々からの
意見、衆知を集めて、
日本の
教育の中に、いかに
日本人らしい、そしてまた国際人らしい心構えをつくっていくか、そのことの
基本というものがやはり必要だと考えて私はお尋ねをしました。そして、そういうお尋ねとこの前の御
発言とを比べながら、私は、あのときに
大臣が答弁されたことを今回も繰り返しておっしゃったと聞きました。
ただ、私に対する答弁のときにも、
大臣は、
教育勅語の中にもこういうくだりがあって大変いいことだと思いますとおっしゃられた。私が
教育勅語を知らない
世代ですと言って
教育勅語のタイトルを持ち出したので
大臣はそうおっしゃられたのであろうと思いますけれども、しかし私は、いろいろな
お話の中で、やはり
時代が違い、
基本的な考え方が違い、そして体制が違う、そういう中で、あえて対比するような形で
教育勅語を持ち出すことはいかがかと思うわけであります。ただ、
大臣のおっしゃられた真意については、その後のいろいろな御
発言等をあわせ考えますときに、私は了としたいと思います。
そういう
意味で、問題は、今後それを具体的にどう実現するかではないのだろうかと思うのであります。今般の高等学校の指導要領の説明書き等に関連して
大臣はおっしゃられたわけでありますが、これからは、小学校は小学校の役割りがあり、中学校は中学校の役割りがある。そこにおいてきちんとしたしつけを
基本的にしていく段階があり、そして場合によって技術開発への
能力というもの、それぞれが
個人の
能力を開発するという
意味で、多岐にわたってそういう場所を、
子供たちの
能力を発見しながらそれに合わせてつくっていくということも必要でありましょう。落ちこぼれの
子供たちに対する対処と同時に、エデュケートする、それがいわゆる英語の
教育本来の
意味でもあろうと思います。
能力を引っ張り出す、その役割りというものがもっともっと果たされなければいけないだろうと思います。詰め込み
教育がだめだといって、数学の公式が覚えられない、わずかの漢字が覚えられずに間違って使われる。私は、正しい詰め込みが行われれば漢字なんてすぐ覚えられると思います。
そのようなことを考えるときに、今日までのいきさつは大事かもしれません。歴史は大切ですけれども、しかし、それを偏見や独自の考え方、単にそういうものに固定してしまうのでなくて、本当にいまこそ
教育についての
国民のコンセンサスかきちんと打ち立てられる、そのことが必要な時期、混乱しているときこそそれが必要な時期ではないのか。明治維新によって外国の
文化を取り入れる余り
日本の
文化を否定したあの明治初期二十年間ほどの
時代から、
日本らしさ、
日本の心を取り戻したいとしてつくられた
教育勅語があの当時はありましたけれども、敗戦によってむしろ、
日本が戦争に負けただけではない、
日本のすべてを否定し去ろうとしたそこから出発していま三十年。私
たちは
教育勅語をつくれと言うのではありません。
国民が一〇〇%外国のものに対するコンプレックスを持って、
日本のものを否定してしまおうとする
時代があった。しかし、そこからやはり
日本本来のものを見直そう、見つけ直そう、そしてまた正しいものを伝承していこう。
文化の伝承、これが
教育の
基本ならば、やはり
教育はそのことに最初に目覚めていくということは当然必要でありましょう。明治維新から生まれたものが
教育勅語であるとするならば、私は、いま新しい
時代に合った、決して
教育勅語ではない、いまや国際
社会というものを本当に真剣に考えなければいけないし、
日本の未来を資源がなければないなりに考えていかなければいけない、その資源だって世界的に枯渇をしようとしている、しかも、われわれがいま最も大切に使っている石油のような資源のことも考え合わせるときに、私
たちはまさに
教育のコンセンサスと、そして技術や
能力の開発や心の開発、これはいまの
日本の政治の抱えている最大の急務だと思うのであります。
ちょっと何か勝手なことを申し上げて長くなりましたが、先般来の各種の御
発言に対して、私は、でき得る限りその真意を正しく
理解したい、その
気持ちを込めて御
意見を申し上げると同時に、
大臣の御所感をお伺いして質問を終わりたいと思います。