○野口忠夫君
大臣、問題の把握ですがね、私の申し上げたのは、今日の
地方自治体は財源問題で
自治省に対するいろんな提言をしているとは思われないわけです。もちろん財源は大事ですから考えなくちゃなりません。しかし、財源があるとかないとかの問題ではなしに、どうも
地方の住民自治、憲法に保障された自治という姿の中で置かれていながら、さて
予算を組んでみると自分の自由にできる財政は三割くらいきり、三割以下になっていると。交付税を見てみると、
地方負担分の裏金みたいなもの、補助金の裏みたいなもの、起債の裏みたいなもの、やることなすこと何か自主的に自分がやっているという、そういう認識を得ることのできないような現状の中で、言葉は住民自治というのだけれ
ども、現実は全く上の方から下請された仕事のみに追い回され、みずからの責任でない高度経済成長の後始末みたいなものを、
職員に向かっておまえは月給が高いから下げろとかなんとかというようなことになってきて、一生懸命働く
職員との間にあつれきを生じながら、しかも
地域住民からは
保育所の問題はどうなった、福祉の問題はどうかといってせっつかれている。この直接住民と接しておる場においてそれらの声にこたえようとするところの自主的な自分のものを持たぬというこの姿を、何か
地方自治体の
自主性の回復の歴史といったらいいでしょうかね。ですから、この問題の提起されたのは、
地方財政が悪化してから提起されたんではないんですね。高度経済成長のあの時代にもこの問題は
自治省に提起されていたろうし、それ以前においてもその問題は提起されておったわけであります。だから財源のあるなしの問題は、当然これ
地方自治体の
水準を維持するには大事であろうと思いますけれ
ども、問題の把握されるべきものは私はそういうものではなかろう。しかも今日成田に見るような、新幹線で見るような、公害問題で見るような国民の直接的な要求というものが、住民運動という姿の中でわれわれでは抑えつけることのできないような力の上にわれわれの前に立ちはだかっているわけですね、いま。国
会議員というのはこれ皆選挙してきまずから、背中には一人一人の国民を背負っておると私は思います。ですから、ここに何人かの国
会議員が集まったということは、その背後に常に一億の国民がいるんだという姿だろうと私は思うんですけれ
ども、そういう気持ちで私
どもいたつもりですけれ
ども、やっぱり
地域に帰ってみると間遠さを感じているのですね。いわば物理的な条件ともいうべき東京と自分のところとの間が離れてくるということ、ここで仕事を持つことにおいて直接的に触れないということ、顔が見えないということの中では選挙だけの国
会議員さんだと。選挙が終われば来ないのだということは間違っていますけれ
ども、どんなに私たちがここで国民のことを考えていても、そういう直接性というものはどうしてもやっぱり失われがちです。この直接的なものを失っていく、国の間接議会民主政治というものが実はいま危機にあると見るべきではなかろうかと私は思うんですよ。
後で公安
委員長としての
大臣の御
意見も承ると思いますが、お聞きするところによると三千人くらいの警察官がもう亡くなっているそうですね。いま私の見たところ、国会の中では福永運輸
大臣の顔がちっとやせているようだし、警察庁長官の顔がちっとやせているように見えるし、ことに刑事
局長なんていうのは何だか近ごろしょぼっとして元気がない。公安
委員長もその仲間の一人であろう。一体これは何だということになれば、国会というところ、国のやっていこうとするものが直接的な触れ合いのない間接性の危険だということをやはり思わなくちゃならなくなる。そういう場合その間接性の危機的状態を少しでもカバーしていけるものは何だ、私は
地方自治体の住民であろうというふうに思うわけです。
地方自治体は直接毎日ふえているわけです。その中でわれわれの間接的な欠陥性を、物理的な欠陥性をやっぱり補ってもらうような
意味で、今日
地方自治というものは尊重されなければならぬということを思うわけでありますが、ですから三千二百の
団体、四十七の都道府県が、とにかく
自主性の回復をやってくれというこの願いを、住民のものとしてそれを認めながら、そのことに問題の解決をしぼっていくことをやらないということは、日本の民主化のやっぱり私は危機だというように思わざるを得ないわけ。単なる
自治省の
自治体の尊重という言葉ではなしに、今日の日本の危機、警察は取り締まり切れますかね、これ一体。しかもそれはわずか何人かのいわゆる極左分子と言われる者、この世の中に存在してならないようなものが存在してわれわれの前に立ちはだかって、このわずかな人間のために国会の中で何時間一体費やしたかね。そのために運輸
大臣は顔がやせてきた、刑事
局長もだんだんやせてきたでは、その他の国民の多くの者はこれは一体どうなるんだろうか。
考えてみますと、そこには自治的な訓練がこの戦後三十年の間にどのくらいなされてきたか。この課題がやっぱりわれわれいま問われるんではないかというように思うわけであります。
地域住民の中に本当に自主的な、独立的な、そして責任を重んずる一人一人の国民を自治という精神の中で育成していくという、こういう国家的な民主化のこの姿というものが、この三十年間にあったら私はこの成田の問題はなかったのではなかろうか。残念ながら言うことを聞いてくれないという姿の中で、何をやってもいいんだという姿の中に追い込んでいく。そしてそのことに対して一般的な農民や
中小企業の皆さんが、やっぱりああそうだなあというようなことに心の中で共鳴を感じている。成田の現状は全くそういう
意味では、余りにもずさんなあのやり方の中で、千葉県民に対しては大きな不満と不安をやっぱり残しているだろう。あってならないものに対して、何か国民か寄っていくような今日的状態の根源を、国会が責任を負うことは当然ですけれ
ども、そこで負い切れない直接性の問題が残ってくる中で、
地方自治体というのは全くその点では大きな役目を持つんではなかろうか。その課題に触れた交付税法の
改正がやっぱりいまなけりゃならぬじゃなかろうか。それは財源、いまの経済情勢、まことに不況でございますのでやむを得ませんという考えでこの問題をしていることには私はいかぬと思うんですが、どうしてもこう歴史的にずっとながめてみると、国と
地方とのあり方という問題をめぐって絶えず下には不満が残り、上はそれを押しつけていく。この中央権力支配的な
傾向と
自主性を求める声との争いの中に、成田はやっぱり今日的問題の根源があるというような考え方をするわけでございます。
自分だけの
意見申し上げましたが、私はそういう
意味で
大臣に今回の
地方交付税
改正の中にそういう問題意識がないんじゃなかろうかと、こういうことを御
指摘申し上げたいと思うんでございますが、非常に大きな今日的状態が、余りにもどうにもできないような危機感的なものを含めて、われわれが守ろうとするこの社会秩序というものが崩されていくような状態の中にあって、成田の開港日さえも不安を持って迎えなければならぬ今日的現状の中で、われわれがやっぱりいま一番考えなければならぬのは、国民をここにどうして連れてきて、われわれの話を聞いてもらうかということだと思うんですよ。だれも国でも怠けている人はないわけです。一生懸命だが通らないんです。そのパイプ役を
地方自治体がやるとすれば、今回の交付税
法改正案あたりには、少なくとも平衡交付税というものが、何らか
地方交付税というものがその性格を失い、その意義を失い、まさに全国土が
地方交付税なくしては
自治体が守っていけないような今日的現状の中では、幾らも手があると思うんですね。大都市の自主財源はどうするんだ、東京は、大阪は。そこには、われわれが提言しているような自主財源の
確保の道もあるだろうが、そういう問題については触れようとしないで、相変わらず国依存の交付税交付金に依存されているわけであります。東京だの大阪あたりが交付税に依存するようになってしまった交付税法というのは、ぼくはその性格はもう全然なくなったんではなかろうか。調整財源的な交付税というものが、まるで
自治体の自主財源の一つを持っているような状態に追い込まれてきている今日の状態の中では幾らも手はあるだろうが、そういう点について何となくやらない。あくまでもこういう財政が悪化しているときに、経済が悪化しているときにはだめなんだという
意見だけなんですね。
この前も決算
委員会で車の両輪と申し上げましたが、私は本
会議で総理から大蔵、自治三人が車の両輪言われたときに、自治
大臣に私は非常な不満をやっぱり持ちました。国の
立場ではそう言いたいだろうと私は思うんです。しかし自治
大臣までが車の両輪では、この大きな課題というものは、やっぱり私は迷っていくんではなかろうかというような気がして、この前申し上げましたので、あとは申し上げませんけれ
ども、以上のような点で
大臣にお聞きしたわけでございますが、今回の交付税法はもうすでにきょう成立することになっているそうですが、まことに不満だということの意思だけを表明してこの御
質問は終わりたいと思います。
次に、以上のような住民と触れ合うような国の政治ということ。これを考えた中で提起される問題として、第三次全国総合開発問題が、ぼくはあるんじゃないかというような気がいたします。この中には、私がいま申し上げましたような
意味での触れ合いというものがマクロ的な
立場で国が計画をしていくという一つの方向性が出ているんじゃないかと思うんですが、三全総といわれる第三次全国総合開発計画は、まあ悪名その名も高い国土開発計画、一次、二次とも、とにかくもう大した国民の信頼を失うような国土開発だ。おかげさまで
地方に行ってみますと、
地方の選挙ポスターあちこちで拝見いたしますが、どのポスターにも緑の山、魚の泳いでいる川、そういうのが日本じゅうにはんらんしていますね。どのポスター見ても、緑の山と書けば選挙に当選できるというのですから、選挙標語としては大したのを生み出してくれたと思うのだが、日本の国土改造というものはそういうものであったということなんですね。その反省の上に立って、この三次全国総合開発計画が昭和五十二年の十一月に閣議
決定して、現在実施中であると思うんですけれ
ども、国土庁の方おいでになると思うんですが、大体概要ひとつお示し願いたい。