○
野口忠夫君 これをお聞きしたのは、本
法案とは関係ございませんが、いま非常に交通の
事故が多くて、従来まで百万以上のあれがあったのが六十万まで減ったと、さらにそれを
警察庁交通課では三十万に減らそうということで努力をしていると、私はこれはだめだと思うんですね、もう。
警察的な
取り締まり体制だけではとうていやっぱりそれは不可能ではなかろうか、私も運転免許証持っている者でございまして、教習所に行って免許証受けるのに行ったんですけれ
ども、あそこに集まってくる青年諸君というのは、教育を受けるという機会をみずからが能動的に持っていますね。何とか免許証を早く取りたいということの中で真剣なまなざしで教習所に集まってきておりますね、ああいう機会にやっぱり教育的な
考え方というものを持つことが非常に大事ではなかろうかというふうに思うわけでありますが、ここにいる指導員の方ですね。この身分、給与、私は民間の中でのやりくりでございますから、非常に不安定な待遇、不安定な身分の中で腰かけ的に転々と歩いている。ある優秀な方に私聞いたんですけれ
ども、私が運転をしておったところが、自動車がキュキュキューツと、私間違ったもんだから音がした。それを何と言ったかというと、その教習所の指導員の方は、いま自動車が泣いたでしょうと、自動車は泣くんですよということを言われたわけですね。こんな指導をやっぱりあの機会にあの場所で与えるという人間の内部的な問題に触れた、そういう運転免許証の教習所というようなものの
あり方を変えていかない限り、ふわふわとした御
質疑でこう行ったり来たりするようなことでは、これはだめじゃなかろうかと、三十万に減らすものは、そういう人間の自主的な内部的なものに触れていくような、そういうやっぱり指導、教育。そのためにはそこにいる指導員の
皆さん方には相当のやっぱり待遇と、その身分の確保がなければならないのではないかと思うんですが、その
意味で
銃砲等の猟銃の指導員という方も、これも
警察官の
取り締まりの末端機構ではなくて、いわば善良な自発的な、そして民主社会に
成長していこうとするような
意味での教育的な、そういうやっぱり
立場で、この
方々の身分や待遇というようなものも安定したものをつくってあげなければならぬじゃないだろうか。いわば民間における指導、これは教師が指導するよりはもっと自由であって、もっとパブリックなんですね、本当は。そういう点のところの重要性がないんですね。お金を出せばいい、お金を取ればいい、びっちびっちと指導を、自分の不満の中の感情をその
人たちに投げつけていくから、出た者は運転免許証の場合なんか、免許証取っちゃったら、くそ、いままでいじめられたと、今度かたきとってくれるからといって、ひやあっと百五十キロくらいで飛ばすことになるんだね。その不満のやるせなさ、そこに何か触れるものがないから。あるいは福田総理の言う、人間のエゴを捨てて他人の幸せを願えとか、隣人愛を求めよとか、愛の復活をなどと福田さんが強調している、その強調される場面というのは、免許証欲しがって一生懸命集まってくる青年の前に、よき指導者が立つということではなかろうかというふうな感じがするわけだ。
長官、これ総元締めでしょうから、そういう
意味でやっぱりこの辺のところの見直しが必要ではないかという
考え方を持って指導員の問題にちょっと触れたんです。いまお聞きしますと、余りこの方の身分その他について安定したものとは言えないのではなかろうか。何となく取り締まるだけで、
警察はそういう点での教育の機会というふうなものを逃してはいかぬのではなかろうか。そういうことを考えて、いま御
質問申し上げたわけですが、それについては結構でございます。よく頭にとめておいていただきたい。
これから
成田のことを言うつもりでございましたが、大変ゆっくりでございまして、
成田の問題はいろいろあるんですが、まあわが
志苫理事から大分詳しい御
質問があって、若干まだわからないところがあるのですけれ
ども、時間ありませんので、私は
長官に、私
自身の見解を言うのですけれ
ども、
長官からもお聞きしたいんですが、やっぱり今度の
成田の問題というのは、私から言えば戦後三十年の
日本の民主化の進展の中の歴史的課題に対して非常な危機感を持って見るべきではなかろうか。その危機感というものを私はやっぱり二面的に見ざるを得ないのですね。
一つは、こういう体制的秩序を、これを改めるためには破壊の行動以外にはないと決めつけて、そこで暴力的に破壊へ向かっていこうとする暴力的な危機が
一つあろうと思います。反面、そういうことが生まれてきたのは、民主主義そのものの中に過ちがある。よって、もっと
警察力を強化し、軍事力を強化して、もっと
国民のそういう民主主義的な悪に対して徹底的な
規制というものを加えていくべきものではなかろうかとする戦後三十年の歩みに、これまた挑戦する
一つの反動的な復古的な危機というものを私は感ぜざるを得ないわけであります。一方においては暴力の危機、一方においては民主主義の危機、それが今日の
警察当局が持たれている極左暴力集団に対する
一つの構え方の根底に私はなければならぬのではなかろうかというふうに思うわけであります。要すれば、憲法に保障されている平和で民主的な、
国民が本当にこれで幸せだったと思われるような民主社会建設の
方向に向かって、この二つの問題は両方とも私はその歴史的過程に対しては危機をもたらす要因ではなかろうかと思うわけでありまして、この乗り切りの仕方というのは非常に私は重要ではなかろうかと。しかも、
成田における問題というのと、先ほどの
暴力団の
資金源の中から生まれてくる悪というものとについての、二つの面というものはおのずから層が違ってあるわけでありましょう。一方は、国の行政に対する
国民の不満というものが土台になって、その上に乗った極左暴力集団の行動があり、動機は結構であって結果が悪いというやり方、
暴力団の方は、動機もだめ、結果もだめという二つの
あり方があるわけですよ。私はこれが本当に今度の開港日まで何にもなければいいが、これを
警察力の力によって果たして根絶できるのかどうか。まことに私は
民主警察の限界というものも何か考えざるを得ないわけであります。銃をどうしようとか、常時警備を何ぼにしようかとか、エスカレートしていくかなたというものが、取り締まる側から
一体何の発言がいまなされているんだろうか。
警察官も人の子であり、親もあれば妻もいるだろうと思うんです。しかし、もうすでに三千何名かの死傷者があると聞く。命令一下、この
日本の危機的
状態の中に
警察官は飛び込んでいかざるを得ないと。こういう
状態の
警察の民主的な限界というものの前に立った今後の
警察行政の
あり方というのは、非常に大事ではなかろうかと思うんです。
長官は、当然これは上からの御命令に従って、
厚生省の前に水俣病患者が座っているから排除してくれと言われれば、
国民がどう思おうとも排除せざるを得ない
立場にあろうとは思うけれ
ども、
日本の
警察機構というのは公安
委員会という行政
委員会制度になっておって、しかも、各県における自治体公安
委員会というようなものとタイアップする
立場において、私はこの辺で
民主警察を守るための限界の上に立った取り締まる側からの発言というものもあってしかるべきではなかろうかというような感じがするわけであります。ただ、いたずらに結果的な問題の前に対処することだけに終始している限りは、
日本のこの優秀な
警察装備は国家建設的な権力の末端機構に押し流されていくのではなかろうかと思うんです。ここで救いの道というのは、部下が死ぬような
立場に立たせられているところにいる
警察というものの
立場に立って、今日的
状態に対する発言というものがあってしかるべきではなかろうか。それは公安
警察である限りにおいて、私は公安
委員会の責任であろうと思うんですけれ
ども、どうもこの公安
委員会はその存在が全く不明瞭ですね。
一体何のために公安
委員会があるんだろうか。今日的危機の
状態を私は深刻に受けとめるがために、今日の
警察行政の
あり方について、私は十分な見直しをすべきときに来ているのではなかろうかというような感じがしてならないわけでございますが、一方的な要望に終わってしまいましたが、
長官何かお話いただければお聞きしたいとも思うんですが、時間、ちょっと済みませんが。